Ⅳ.信仰の自由と「奴隷になる自由」
マリアの言明から分かるように、若い女性信者が統一教会の如何わしい合同結婚式の教義に煩悶している様子は、単に筆者を裁判にはめようという演技ではない。実際に彼女ならずとも少なからぬ信者たちは、男女を分かたず合同結婚式を通じて悲惨な末路に陥ったという報告は少なからず報道されている。最初に挙げた文鮮明の長男と結婚した洪蘭淑が脱会にどれだけ苦労したか、教祖の実態と合わせて見ても、それは明白なのである。
(1)信仰の自由が持つ限界
信仰の自由は自由権の1つとして18世紀に西側諸国、特に先進資本主義諸国でブルジョアジーが政治的に解放されると前後して広まった信念である。「18世紀的な権利」「消極的自由」とか言われるであり、それは宗教的な抑圧からの解放(leberation)であった。総じて自由権は、現在にあっては参政権はじめ何らかの権益にアクセスないしはアプローチする「積極的自由」(19世紀的な権利)へ拡張されている。
このうち信仰の自由は、内面の自由という個人の心、精神活動の問題として捉えられているから消極的自由と捉えられがちで、外部から内心を犯されないのが原理原則である。したがって、個人が何かを信じる、信じないとする場合、他の個人はそれに反対したり説得したり出来ても、当人の内面を踏みにじってまで信仰を変えさせる権利は無いとされる。筆者がマリアに行った説得は、その意味で指導権の限界を超えていたように見える。
ただし、日本の場合は現行憲法の導入経緯からいくらか事情は異なる。つまり、国家神道が戦前は支配的だったところから、信仰の自由は国家の宗教からの解放という意味があった。卑近な事例ながら、筆者の父親は神社の前を通る時は必ず脱帽、敬礼していたと常々いっていた。戦時中に「神風」が吹くなどと本気で信じていたかどうかは別としても、日本人の精神風土として現在までも神社に参拝する人は夥しいのである。
話を戻すと統一教会の教義は、この新旧2つの自由権にあって巧妙な構図を持っている。すなわち、その教義では信仰の対象として文鮮明その人を「真のお父様」、そして彼の妻である韓鶴子を「真のお母様」と呼びながら、婚姻に対する自らの決定権を彼らに委ねるという作りとなっている。それが信者の自由意志によるとする限り、そこに意思決定が行われていると主張するので、前述の会話のとおり信者本人も納得している。
ところが、実際には婚姻前に「両性の合意」を行わないまま当日そのまま相手と結婚するだけだから、「犬猫」発言に示したとおり精神的には単に文鮮明なり韓鶴子なりの意思決定に従っているに過ぎない。そこに自由な好悪、好き嫌いの感情に基づく意思決定は、どこにも見出されないのである。いわば各宗教の持つ「秘儀」に属する儀式であるため、信者たちには外部からの批判や非難は全く届かないのが分かるであろう。
それは統一教会が自由な入退会ではなく、いちど入会すると容易に脱会できない集団であるという事情から来ている。元信者の男性は「信仰しない自由があったかというと、間違いなくなかったです」と語っている(資料G)。その中で教祖が積極的自由とばかりに信者たちの自由権を代わりに行使して、婚姻の相手を勝手に決めてしまうのが統一教会の教義なのであり、そこで信者に残されるのは「奴隷になる自由」だけである。
(2)「奴隷になる自由」について
この「奴隷になる自由」を獲得するのが統一教会であり、合同結婚式なのである。この奴隷に転落する自由は、ちょうど全体主義研究で著名なフロム(Erich Fromm)がナチス治下におけるドイツ人たちを「自由からの逃走(Escape from Freedom)」として描いたような、自発的な自由の放棄と似通っている(資料I)。
つまり、意思決定の負担から逃れるため、彼らがヒトラーという独裁者に全権を託し、全体主義の統治を一時的ながらも許したと同様、統一教会の信者たちは婚姻の怪しげな教義に則って独裁者の文鮮明に伴侶の選択権を託したのである。その教義には「聖家族」というお墨付きまで付いているから、なんとも外部からは異様にしか見えないのである。
振り返れば、政治は政事(まつりごと)として祭事から出発しており、その政治的な権力関係が支配と服従を必然的に伴う以上、祭事を取り仕切る教祖はほぼ絶対的な権力を振るって信者たちを支配する。信者たちは自分の頭で考えるのを止め、教祖の言葉を鵜吞みにして行動するようになり、そこには合理的な理由も経緯も必要ない。
マリアが前述の会話の中で吐露したとおり、「奴隷になる自由」は何ら反省されないし、苦痛でもない。カント風に言えば、未だ理性の陶冶されていない若者たちだけでなく、いい年をした年配者たちも同様に、この奴隷の自由から恩恵を受けている。なぜ理性が働かないのか考えるに、彼らの信仰には毎日の暮らしを生きる人の生命(いのち)という実体が横たわっているからであろう。
人はどこから来てどこへ行くのか、なんのために生きるのか、そもそも生命とは何なのか等、根源的な問いを統一教会は、たとえそれが嘘にしろ答えているようにように見える。そこにはマリアの発言から分かるように、嘘も本当も無く、ひとえに信仰があるのみである。統一教会の信者たちが理性的に説得されない理由は、信仰という非合理的な信念に基づいて考え、行動しているからである。
そこで他の宗教と決定的に異なるのは、それが「家族主義」という韓国や北朝鮮で一般的な集合主義的な観念によって裏打ちされている点である。何度も指摘したとおり「真のお父様」や「真のお母様」という肉体を持った教祖家族が、その教祖が亡くなった後までも信者たちを結び付けている。具体的に現在、報道されたように文鮮明の息子たちが後継者として、日本を含めて世界中で布教活動を繰り広げている(資料J)。
彼らは互いに闘争し合いながらも、教祖が打ち立てた統一教会を継承して、自分の流儀で同様な信者たちを獲得しつつ勢力の拡充に努めている。この様相は、ちょうど北朝鮮で金日成・正日・正恩と三代にわたるファミリーが世襲を続け、その家族が支配権を引き継いでいるのとそっくり同じである。文鮮明が東西冷戦の終焉と前後して北朝鮮を訪れ、金日成と結託した事実は、正に相似形の支配構造に則って行われたものであった。
宗教が祭事に根を持ち、政治関係つまり権力関係を同伴する以上、権力的な色彩は払拭できない。権力とは、シモーヌ・ベェイユ(Simone Weil)によれば「生きた者を死体に変える力」なのであるから、北朝鮮はもちろん統一教会でも凄惨な権力闘争が続くはずである。そこでは、理性ではなく非合理な力学関係が幅を利かすし、それと共に利害関係つまり金銭関係が優先して考えられる。金権こそ現代政治の要諦だからである。
(3)統一教会は禁止にすべき
このように見てくると、この「奴隷になる自由」を認める宗教は、時の権力者に取り入り、それと共存共栄しようとする。現在この関係性がやっとマスコミで叩かれるようになったけれども、安倍晋三の犠牲を以て旧悪を糺すのであれば、あながち彼の犠牲も無駄とは言えない。殺人は殺人として厳しく罰される必要があるが、統一教会の犯罪行為が今も続いている実態に鑑みて、統一教会の実体は明るみに曝されるべきである。
結論的に述べると、統一教会は国家権力の介入を持って禁止されるべきである。自民党と統一教会のスブズブの関係性は、かねてより指摘されてきたものの、今日ほど明々白々な証拠が突き付けられたことはないし、具体的な関係性に光が当たったことはなかった。総理大臣だけでなく国権の最高機関の長までも「奴隷になる自由」を誇る統一教会と関係を結んでいたのでは、国家として日本は世界中の物笑いと言う外はない。
これをより敷衍して考えれば、自由権の規定とりわけ信仰の自由を悪用して「奴隷になる自由」を広める宗教勢力は、すべからく禁止すべきではないか。なぜならば、人類の歩みとは、消極的自由から積極的それへとより大きな自由を獲得する歴史だからである。この流れと逆行する宗教勢力がどうして存続を許されるのか、筆者は理解に苦しむところである。奴隷になりたい人は、ごく個人的に他人へ仕えてくれたら良かろう。
具体的な法整備やその手続きについては今後の論議に委ねるとしても、方向性において信仰の自由が持つ限界とそこから来る欠陥を深く認識して、これからに活かしていくことが大切である。当然これからもオーム真理教や統一教会のように、人間の生命(いのち)に入り込んだ邪教と呼ぶべき宗教は数多く出現するに違いない。したがって、せめて今、この「奴隷になる自由」を志向するかどうかを基準として対策を立てるのが良かろう。
ネット社会の浸透に伴い、ますます人間関係が希薄になりつつある現代にあって、他人を奴隷にしようとする勢力も、また増大しつつある。我々は、現代の趨勢を念頭に置きつつ、このような危険な流れを事前に防ぎ、同時に自由な広かれた社会へ一歩でも近づけるように努力しなければならない。合わせて、東西冷戦の名残りと言うべき反共主義を振りかざす「国際勝共連合」のような組織も、再起を許さないように監視すべきであろう。
この点に関して述べれば、そもそも統一教会が韓国と北朝鮮の対立と葛藤から生まれたことを思い出す必要がある。つまり、南北朝鮮の軍事的な対峙状態が続く限り、再びこの反共組織の原型が復活しかねない恐れ無しとしない。ここからは国際社会の取組として、南北朝鮮をめぐる緊張緩和や平和定着を図らなければならない。筆者は1980年に光州事件が起きた際、統一教会の前身である国際勝共連合の人たちと接触した経験がある。
当時は大学生であった筆者は、政権から事件の首謀者とされて逮捕、軍事裁判で死刑宣告を受けた金大中を救う運動の一環としてハンガーストライキを実行した。その実行中に国際勝共連合の活動家と思しき人たちから「金大中は共産主義者」と批判を受ける一幕があった。これは昔話と思われるかも知れないが、いま南北朝鮮間の対立が激化している中で、いつ何時このような反共勢力が人権蹂躙を再開するか油断してはならないであろう。
そのためには、南北朝鮮の間で友好親善関係を築けるように日本はじめ関係各国が協調して取り組むべきである。「日朝平壌宣言」20周年に当たり、日本は早期に北朝鮮と対話の窓口を開き、拉致問題をはじめとした諸懸案について真摯な議論を開始しなければならない。「三重苦」に陥った北朝鮮は韓国に反共保守政権が登場し、ウクライナ戦争が続く今、頼るべき外国としては中国より他に無いから、日本の支援は欲しいはずである。
統一教会の前身であった国際勝共連合を率いた文鮮明を受け入れた北朝鮮は当時、社会主義圏の崩壊を前にして支援が欲しかったのである。これと同様に政権の生き残りをかけた現在の金正恩政権が、日本からの支援を通じて態度を軟化させる余地は十分にあろう。仮に韓国の対北政策「大胆な構想」と合わさって実行されるならば、北朝鮮を改革開放へ導く可能性は充分にあり得る。それは、日韓関係の改善にも資するであろう。
おわりに
統一教会の問題は信仰の自由という盾に隠れているだけでなく、東西冷戦という脈絡に淵源しているために、極めて扱いにくい側面がある。特に、統一教会が敵対勢力としていた北朝鮮にも進出し、そこで各種の事業を行っているため、問題は複雑である。日本と朝鮮半島の歴史的な関係と朝鮮半島に固有な文化的な属性、さらには現下の半島を取り巻く国際情勢などに照らして見ると、その背景にも十分な配慮を払う必要がある。
最終的に統一教会とは何かと言えば、北朝鮮とも一脈通じる全体主義体制のミニチュアであると性格付けることが出来る。例えば今、イタリアでナチスの新しい組織を立ち上げた首相が登場しているように、いつでも全体主義は再生する危険が常在している。この点は多くの識者が指摘しているので、ことさら強調する必要も無いであろう。韓国はいざ知らず、少なくとも日本では統一教会こそ最初に清算されるべき対象なのである。
国会が再開される中で論議が深められなければならないのは言うまでもない。そして、統一教会という「奴隷になる自由」を容認する宗教団体、信徒たちを一種の洗脳にかけて犯罪行為を行わせる団体がこのまま放置されていてはならないのだから、日本が韓国に仕えるなどという馬鹿げた教理を打ち破り、早急に日韓関係の弊害を除去したい。それが引いては日朝関係の改善にも繋がるからであり、東アジア地域の平和と安定にも寄与する。
(資料)
A:文孝進(Moon Hyo-jin)については数多く解説されている。とりあえず次のサイトをご覧いただきたい。文孝進 – Wikipedia
B:洪蘭淑『わが父文鮮明の正体』林史郎訳、文芸春秋、1998年。この本は、原題を“Inthe Shadow of the Moon”と言い、直訳すれば「月の陰で」の意味である。教祖の姓が韓国語で“Moon”であるのに引っ掛けて原題を付けたそうである。著者の“Nan-sook Hong”は文孝進と結婚後、複雑な経緯を経て離婚し、同著を刊行するに至った。
C:白尚昌『韓国政治ト社会病理-精神分析学的アプローチ-』韓国語、ソウル、韓国社会病理研究所、1頁に掲載の概念図「韓国人ノ意識、無意識、集団無意識ノ構造図」をもとに作成したもの。この概念図は、筆者が大学の授業で説明の便のために用いていたものである。なお、北朝鮮における金日成・正日・正恩の三代世襲による「家族独裁」体制下で民衆に注入されている「主体思想」の国家イデオロギーについては、統一教会の教義との類似性を指摘するに止めて、本稿では詳細に立ち入らない。
D:韓鶴子(Han Hak-ja)についても既に解説は多い。とりあえず次のサイトを参照されたい。韓鶴子 – Wikipedia
E:ネット上で掲載された「ユダの福音書の持つ意味」という記事(2011年6月27日)を参考にしてもらいたい。当該内容は筆者がソウルの教保文庫で購読して読んだ記事を邦訳したものに他ならない。「ユダの福音書」の持つ意味 | ナショナル ジオグラフィック
日本版サイト (nikkeibp.co.jp)なお、ここで言う『ナグ・ハマディ文書』は既に翻訳されて刊行されており、関心のある方には是非ご一読をお勧めしたい。『ナグ・ハマディ文書』全4冊、荒井献・大貫隆編著、岩波書店、1997年。
F:普通江ホテルの庭に立つ4つの石碑の写真。手前から「一心団結」「首領福」「太陽福」「将軍福」と書かれており、後ろの3つはそれぞれ金日成、金正日、金正恩の幸福を願う石碑と思われる。筆者撮影(2016年10月5日、於平壌の普通江ホテル前庭)
G:「“統一教会”『霊感商法1件もない』-3度目会見でヒートアップ 手を振るわせ・・・『報道や左翼弁護士が国民をミスリード』」、電子版『日テレNEWS』2022年9月23日。福本は熱血的な男で、統一教会に忠誠を誓ったという印象が深かった。その意味で信念を貫く弁護士なのであったが、東京大学まで卒業した彼が統一教会にのめり込んだ理由は、依然として筆者には摩訶不思議としか思えない。
H:(別紙)「被告森と原告マリアの会話要旨」『S地方裁判所判決』2014年4月25日。
I:とりあえず、エーリッヒ・フロム『自由からの逃走』日高六郎訳、東京創元社、1965年、を参照されたい。
J:「統一教会から分派『サンクチュアリ教会』指導者が来日 文鮮明7男は集会でアブ
ナイ発言を連発」、電子版『デイリー新潮』2022年7月12日。
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〈記事出典コード〉サイトちきゅう座 https://chikyuza.net/
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