(2021年6月9日)
多様な分野に、それぞれの専門ジャーナリストがいる。政治・経済・司法・外交・軍事・科学・医療・教育・福祉・芸能・芸術・文化・家庭・ジェンダー…。中には、皇室ジャーナリストや、右翼ジャーナリスト、政権ベッタリ・ジャーナリストもいる。ジャーナリズムに関するジャーナリストなどというのもある。
スポーツジャーナリストというのも大勢いるのだろうが、社会現象としてのスポーツを見据えた論稿にはなかなかお目にかかれない。その中で、谷口源太郎は異色であり貴重な存在である。
その谷口が本日の毎日新聞夕刊の「特集ワイド」に登場している。タイトルは、「東京五輪は誰のため? スポーツジャーナリスト・谷口源太郎さんは問う」「理念失い形骸化、政治利用は許されない」と、極めて辛口である。権力や体制に迎合する姿勢が微塵もなく、スポーツ愛好家の好みにおもねるところもない。これがスポーツライターではない、スポーツジャーナリストの真骨頂なのだろう。
谷口が五輪に関心を持ったのは、1980年夏のモスクワ大会以来だという。当時は東西冷戦のまっただ中。社会主義国では初めての大会で、「IOCをはじめ、多くの人が興味を抱いていた。大会を開催すれば、ソ連の現実を知ることができる。私も注目していました」という。
だが、米国が、ソ連のアフガニスタン侵攻を理由に、モスクワ大会のボイコットを呼びかけ、日本もそれに追随した。谷口は、「政治的対立を乗り越えて開催することで、国際協調主義の実現と大会成功が期待されていたが、カーター大統領がボイコットに出て五輪の存在意義を否定した。五輪の理念、平和主義はふっとび、政治によってずたずたにされた」と解説する。
IOCは76年夏のモントリオール大会が赤字となり危機に陥ったが、状況を反転させたのが84年夏のロサンゼルス大会だった。スポンサーを1業種1社に絞って広告価値を高め、テレビ局から高い放映権料を得るなどして黒字化に成功したのだ。市場経済にのみ込まれていった五輪を目の当たりにした谷口はこう振り返る。
「ロサンゼルス大会は商業主義が露骨。ショーアップもすさまじかった。IOCも五輪ビジネスを展開し始めた。これで五輪の質は変化した。五輪の歴史を振り返る時、モスクワとロサンゼルスはエポックメーキングな大会ととらえています」
誰のための、何のための五輪なのか――。そんな疑問を抱き、スポンサー契約、テレビ放映権といった五輪ビジネスの裏側などについて取材を重ねた。その谷口の結論である。「五輪自体、もういらない。やめたほうがいい。そうしないとスポーツが殺されてしまう。政治利用や商業主義を排除することなど、できっこないのだから」「オリンピックが理念を喪失して形骸化し、政治利用されるだけだとすれば、東京五輪は中止すべきです」。
谷口はこうも語っている。「この機会にもう一度、誰のためのスポーツなのかと見直し、すべての国民、市民が主人公となるスポーツ活動ができる世の中をどうつくるかを考え、一から議論しなければいけない」。パンデミックの中でオリンピック開催の意義が問われている。改めて五輪の原点をすべての人が考える必要がある。
本日の国会での党首討論。共産党の志位和夫と菅義偉首相との、たった5分の「論戦」。志位がパンデミック下での東京五輪開催の意義を問うた。「国民の生命をリスクにさらしてまでオリンピックを開催しなければならない理由を聞きたい。答えてください」。これに対する菅の答が、「国民の生命と安全を守るのが私の責務です。守れなければやらないのは当然じゃないでしょうか」という、典型的なヤギさん答弁。語るべき五輪の理想や原点をもちあわせていないのだ。まさか、「政権浮揚のため、カネのため、ナショナリズム高揚のためだよ」と、ホンネも言えないし。
初出:「澤藤統一郎の憲法日記」2021.6.9より許可を得て転載
http://article9.jp/wordpress/?p=17020
〈記事出典コード〉サイトちきゅう座 https://chikyuza.net/
〔opinion10993:210610〕