いろいろの波風の中で大同《原則》も含め考えて行こう

2011年11月20日 連帯・共同ニュース第190号 

<9条改憲阻止の会>

■  ことの起こりは街宣車を連ねた右翼の行動である。彼らはテントやテント前広場に対して妨害する。汚い声で罵しりながらテントは不法だから撤去せよと経産省に要求する。これは神経戦を強いられるから心理的には軽い問題ではないが関係は明瞭である。今度は民族派(新右翼)の面々がやってきて経産省に「テント不撤去の申し入れ」をした。テントを訪問し、いたメンバーと話して帰った。街宣車でやってくる右翼とは逆の行動だったのでテントに参加している人々にちょっとした波紋が起こった。これを歓迎する向きと、不快として警戒する人の間でちょっとした波風がたったのである。周囲に心配する声も広がった。自分の考えを述べたい。

■  僕らはテントを張ったとき大ざっぱであるがこれの原則を確認した。このテントは脱原発、とりわけ再稼働に反対すること、そして大同というべき多くの人たちの結集の場としていくことである。後にこの場は共同広場と名付けられた。この原則は現在の脱原発の運動がより多くの人々の意志や声を結集すること、国民の自己決定の発動(直接民主主義の発現)となることの重要性から立てられている。当たり前の原則にみえるが体制や権力への構想が含まれてもいる。

■  民族派(新右翼)の面々が経産省に申し入れをしたことは歓迎すべきことであり、率直に受け取っていいことだ。彼らがどのような理念を持っているかは関係ないことでありその行為だけを評価すればいいのである。これに対して彼らといろいろの場面で対立してきた経験のあるもの、現にネットなどで対立している人が不快に思うことはわかる。彼らは新右翼や民族派とも共闘するようなイメージがふかまり若者への影響を心配している。これは僕の考えだが民族派の面々の行動をある場面で歓迎し時に共同行動があり得てもそれは彼らの政治主張や理念とは関係がないと思う。政治主張や理念は彼らも僕らを敵と称しているように違うからである。民族派(新右翼)の動きに不快感を持つ人々はこのような存在よりも自分たち運動の自閉感に危機感を抱きそれを反映させているのではないか。相手の存在よりこちらの内部危機感の現れである。無意識も含めて脱原発の運動の内的停滞感への危機感であると思う。僕はそう受け止めたい。脱原発運動が大同に就くという単なる幅を広げることではない。社会的ビジョン(構想や理念)の広がりと深まりがなければならない。大同にはこれが必要だが困難な所だ。これは現在の政治が立っている困難な場所でもある。不快感や心配はこの面での問題の所在を提起している。 (文責 三上治)