おかしいと言えば、こちらの裁判もそうだね

10月7日

三上 治

 世の中には悪役の良く似合う俳優がいる。子供のころは本当にその俳優が出てくると憎らしくてたまらなく思ったものだ。田舎の夏の順回映画ではスクリーンに向かってヤジが飛び、口笛が鳴らされた。小沢一郎はその師である田中角栄とともに政治的世界の中でふり当てられた悪役なのだろうか。多分、金権政治というのが悪のイメージであり、これは日本の政党政治の歴史、特に最近強く刷り込まれてきたものである。田中角栄の金脈暴露以降、特にそれは強い流れとなってきた。今回の小沢一郎裁判を見てあらためて思ったのはこのことだった。金権政治批判=クリーンな政治というのはこの間に浸透した共同の幻想である。人々の認識や判断を入眠状態《曖昧な状態》に置くものであり、現実と理念の区別が失われたものとして容易に人を支配してしまうものである。

  金権政治というのはカネの支配力で政治的支配力を獲得するものであり、政治的構想や政治理念で遂行さるべき政治を歪めるものだということである。金権政治やクリーンな政治といのも政治理念であるが、これには二つの内容がある。一つは金権政治が政治的倫理に反する悪であるという認識である。もう一つはそれが政治本来の道である政治構想や政治理念による政治を疎外するものだということである。前者は、政治家は宗教家と同じように清貧であるべきだというイメージがありそれが政治的倫理であるように思う。これは筆者の経験であるが、政治活動はカネを得るためのものとしては実のないものであり、それは実業などの活動に比すれば問題にならないのである。政治活動での労働は等価に交換されることがないものであり、「職業としての政治」は最低のものである。実入りのある職業と言う意味ではである。政治活動は経済活動ではないのだから、現実にはその活動資金=政治資金をどう得るかは困難な事柄である。職業としての政治活動の保障は一部であり、政治資金の確保は大変な所業である。かつての左翼運動では「党生活者」(活動のために女に支えられる)が問題になったほどである。政治活動に必要とする政治資金をどのように得るかは政治家の能力にされてきたが、これまでそれは闇に置かれてきた。政治資金の確保が現実には闇の中で進行しながら、表面ではクリーンな政治が唱えられてきたのである。例えば、クリーンな政治を標榜し小沢一郎を排除した菅前首相の献金問題はどうなっているのか。前原をはじめ民主党の首脳陣も同じである。政治資金が個人献金で賄われるのが理想であるが、そこへの過渡においては政治資金の獲得は自由にし、公開を義務づけるのが一番いい方法である。