おかしいと言えば、こちらの裁判もそうだね(二)(三)

著者: 三上治 みかみおさむ : 社会運動家・評論家
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(二) 10月17日

  立花隆が「週刊現代」で小沢一郎の悪口を書いている。「小沢一郎よ、お前はすでに終わっている」という表題の文章で小沢一郎の裁判批判を反批判しているのである。例によってカネにまつわるうわさ話を真実のように仕立てて、結局のところ金権政治批判を繰り返している。「立花隆よ、お前の文書や思想こそすでに終わっている」というべきである。こういう品のない文書を書けるのもちょいとした驚きだが、かつて立花が田中角栄の「ロッキード事件」に関わり、アメリカや官僚の角栄殺しの一端を担ったことを多くの人は分かっている。金権政治批判という目新しさと反権力的な装いに多くのひとは疑念を持ったにせよそれに取り込まれた。金権政治批判=クリーンな政治という理念が民主的、あるいは市民的理念であるような幻想が支配しそれは強固な理念として流通してきた。その理念は現在も浸透しているがそれへの疑念も大きくなっている。この間の時間の経緯の中で背後のアメリカや官僚の意図は暴露されてきている。それが見えないですでに終わっている太鼓を打ち鳴らしているのは立花である。

  「政治とカネ」のことを政治的主題にすることも思想的主題にすることもいい。その現実と矛盾を「政治と職業」という領域まで視野を広げそこでの課題を析出するのはいい。しかし、その場合には「政治の中でのカネ」の意味と政治理念(政治構想)の中での構造を明瞭にしなければならない。また、日本での「政治とカネ」の構造を析出し、それが政治的矛盾としてあるなら、その現実的解決策を持った政治的構想を提起しなければならない。立花の金権政治批判=クリ―ンな政治というのは今やその欺瞞性が疑われているものである。金権政治批判にもいろいろの立場がある。自民党政権が長く続いていた政治環境の下では金権政治批判は野党の主張であり看板であった。それは進歩的なものであり、市民的政治理念のように思われてきた。だから、田中角栄の政治資金問題の暴露を野党(当時の社会党や共産党)は同調し、そこに内包されるアメリカや官僚権力の意図には気がつかなかった。立花は市民的な理念に乗っかりながら、彼の田中角栄批判がアメリカや官僚権力の立場から田中角栄殺しに与するものであったことを故意に無視してきた。クリーンな政治という理念が一向に「政治とカネ」の問題を解決せず、それは闇にもぐったままで、アメリカや官僚権力の支配力強化の政治的武器に使われてきたのがこの現実である。田中角栄やその系譜の保守政治を金権政治=悪とする政治理念の背後の構造が暴露されてきたのに、立花はそこに目を向けられない。

(三)10月18日

  小室直樹というおもしろい学者がいた。彼の「憲法論」は深みもあり、凡百の憲法論を読むならこれを読めと進めたいものだが、彼の遺書と言われるものに『日本いまだ近代国家に非(あら)ず』というのがある。副題に「国民のための法と政治と民主主義」とあるように政治書であるが、これは田中角栄擁護の本でもある。立花隆が田中角栄を政治的悪の象徴としてえがいているのに対極にあるものだ。

  立花は田中角栄の政治資金の収支の問題を暴露してデビューしたのだからそれに現在も呪縛されているのは致し方ないが、これは金権政治と言うイメージが市民的、進歩的理念として流通していた時代のものであり、今回の小沢一郎批判もその繰り返しである。ロッキード事件の当時からも、田中角栄の政治を政治資金能力の面でのみ見ることに疑問は提示されてはいたが、これに疑問を呈するのは極少数であり、小室直樹はその数少ないひとりだった。田中角栄の政治的力が立法能力にあり、その法制化能力にあることは知られていた。国会が立法府であり、政治家の仕事が社会的問題を法にすることは当たり前のことである。しかし、日本の政治家にそのようなイメージを抱くものはすくない。むしろ、日本では立法能力や法化能力は官僚にあって政治家はそれを承認する存在のように思われている。これはある程度は実体的な事実であり、ここには明治維新以来の歴史的経緯がある。政治家の生命は見識と構想力であるが、正確にはそれを立法化する能力である。この点での田中角栄の政治的力と存在を正当に評価しているのが小室であるが、彼は角栄を日本でたった一人の民主主義者であり、立憲民主主義を理解していた男として極論している。制度としては西欧の制度(近代民主主義)を移植したけれど、そのエートス《真髄》を理解してこなかったと論じてもいる。自由で自立した政党や政治家(その見識と構想力を立法化する能力を持った存在)が不在で官僚権力に支配された国家というわけである。日本の政治が政治的には官僚に、社会的には経済に主導力を委ねてきた時代はあった。その背後にはアメリカの力があったが、政治が非民主的実体と水準にあり、田中角栄が排除され殺された時代もあった。立花は金権政治批判でその一端を担ったことを反省すべきであり、自己の政治思想には何もないことを自覚すべきである。政治家に評価の基準は政治理念であり、その立法能力であることを明瞭にし、それを別の手段で葬る愚を演じてはならない。それこそ権力の常套手段なのである。

〈記事出典コード〉サイトちきゅう座 http://www.chikyuza.net/
〔opinion0654:111018〕