おバカな消費者-はみ出し駐在記(追補)

日本でも一人暮らししたことのないものが、ある日突然、英語もろくに分からずに消費大国アメリカで下宿生活を始めた。実家や寮なら帰れば食べられたが、自分で調達しないことには何もない。自炊など考えたこともない根っからの無精者、日常生活で買うものといってもしれている。それでもベーコンやソーセージにアイスクリーム、ちょっとした食べ物からはじまって、洗剤やシャンプー。。。、フツーの生活をおくるには結構いろいろなものを買わなければならない。幸い下宿からちょっと走ったところに、二十四時間開いている大きなスーパーマーケットがあった。そこに行けば、ほとんどなんでもそろう。ただし、日本のものは置いてない。

フラッシングやフォート・リー辺りの日本食料品店に行けば、日本製のシャンプーやリンスなどの日用衛生用品の類もあるが、品数は限られているし値段も高い。余程のことでもなければ買う人もいないと思うのだが、狭い店に無理してでもという感じで置いてある。男性向けの整髪料もあるが、ほとんどは女性向けのもので、縁などないのに見慣れたパッケージのせいか目につく。見る度に、なんでこんなものがこんな値段でと思っていたが、シャンプーやリンスならまだしも、ファンデーションなどの化粧品や生理用品になると、日本で満足していたのもがあれば、多少のプレミアを払ってもという気になるのかもしれない。

そんな需要には縁もなし、使い慣れた日本製だからということで、プレミアム価格を出す気にはなれない。ひと月やそこらの滞在ならいざしらず、アメリカ製の代替え品で間に合うはずだし、間に合わせなきゃならない。

ニューヨークにきたとたん、シャンプーでもリンスでも、洗剤も食器洗いも、何もかも商品が豊富でどれがいいのか分からない。ブランドや個々の商品の「売り」に関する知識もない。容器に書いてある英語の能書きなど、いくら読んでもピンとこない。ごちゃごちゃ書いてあるのにうんざりして、読む気もなくなってしまう。ちょっとした食べ物にも似たようなものが、どうしようもないくらいある。ベーコンやハムにチーズ、アイスクリーム。。。なんでもいろいろありすぎる。どれも気を引くパッケージで、どれをカートに入れたものかと迷う。こんなことで迷って、でどうするんだと思うのだが、どれにすると決める基となるものがない。

広い売り場で店員を見つけるのも手間だし、やっと見つけて訊いても、見れば分かる値段以外には、なんの役にも立たない。ただただありすぎる商品に、どれにするか戸惑う。それが、どれにしたところで、たいした違いがないだけに煩わしい。

七十年代の後半、時代は長髪だった。床屋に行くのが面倒というものぐさ、流行のおかげで助かっていた。床屋に行って刈り上げて、長くなってシャンプーが面倒になると床屋へだった。それでも就職してからは、スーツを着る都合もあるし、それなりに格好は気にしていた。きちんとシャンプーしてリンスも欠かさなかった。

ある日、シャンプーとリンスをどれにするか迷っていたら、偶然二十歳をちょっと出たくらいの、美人といっていい店員がいた。男性店員では当てにならないが、若い女の子の店員なら間違いない。いいアドバイスをもらえるだろうと期待して訊いた。「一番いいリンスはどれ?」若い女の子の店員はどこでも愛想がいい。ニコッと微笑みながら「これが一番安い.」と指差した。おいおい、値段は見れば分かる。オレが知りたいのは、一番安いのではなくて、一番いいリンスなんだけど。「一番安いのではなくて、高くてもいいから一番いいリンスはどれ?」と訊き直した。うん?という顔をしながら、一番安いリンスを手に持って、「これが一番いい」「違う、一番いいリンスは?」「これ、これが一番安くていい」「高くてもかまわない、他にもっといいのあるんじゃない?」「これが一番いい」

過剰な広告宣伝にさらされ続けて、強力な免疫でもできているのだろう。若くしてすでに宣伝文句にゃだまされない、簡単に乗せられるようなおバカな消費者じゃないという、自信のようなものまで感じさせる口ぶりだった。言っていることが正しいのだろうが、情けないことに、はい、そうですよねって思えるほど賢くなかった。

訊き直してもしょうがない。分かったような顔をして一番安いと差し出されたリンスを手にして、細かな字で書かれた能書きを読んでるふりをして、彼女がいなくなるのを待った。行ってしまったことを確かめて、安いリンスを棚にもどして、高いリンスのいくつかを比べたが、どれも似たようなものだろう。髪の毛がさらさらの感じになればいいというだけだから、どれを使ったところで、たいした違いはない。たとえ違いがあったにしても、違いに気がつくほど敏感じゃない。

あまりにも似たような商品が、どれもこれも似たような値段で売っている。高いの安いのと言ったところで十倍も二十倍も違う訳でもない。ただいいものをという、高いものなら間違いないだろうという気持ちがある。なにも評価できないものが何で選ぶかといえば、安いものではなくて高いものという、典型的なおバカな消費者だった。

あれもこれも試してみて、どれが値段の割に一番いいかなどという経験を積むには時間がかかる。五年十年と住んで、アメリカ人との付き合いのなかから、あれこれ聞いて、それを参考に自分に合ったもの、高すぎないものをという賢い消費者にはなかなかなれない。

どれにするかという悩みをM先輩の奥さんに話したら、ご自身が使った経験からでしかないけどと前置きしながら、洗剤からシャンプー、固形石鹸。。。あれこれ教えてくださった。どれも、名の知れたブランドの定番の商品だった。順当な間違いのないものだが、しっかり者の下宿のおばさんは、そんなものは使わない。

広告宣伝に踊らされるおバカな消費者にはなりたくないが、英語が分からないから、なりたくてもなりようがない。なりようもないのが、ちょっと分かったところで、高ければ間違いないだろうという、もともとおバカな消費者、なにをどうしたところで、いくらかはおバカではない消費者になれるかだった。

こんな日常生活のとるにたらないことで悩むと、逆だったら-アメリカ人が日本に行ったら、どうなるんだろうと思い浮かべるようにしていた。分かったような口ぶりでペラペラ日本語を話しても、読み書きまでできる人はまずいない。間違いなく分かるのは数字だけ。英語で書いてあっても、聞いても、しばし「テンションが高い」のように和製英語のことすらある。日本にきたとたん、識字ということでは幼稚園児のレベルなってしまう。自分よりはるかに大変なことになるだろうと思うと、この程度のありすぎる悩み、せいぜい楽しむようにしなくちゃと思うようにしていた。そう思えば多少は気が楽になる。

スーパーマーケットあれこれ

<買わずに食べてしまう>

野菜や果物の中には一個いくらではなく、目方でいくらというものが結構ある。チェリーやバナナは目方売りが一般的で、レジで重さを量って、いくらかが分かる。驚くことに、カートのハンドルのところに乗った子供が、目方売りのバナナをなんの躊躇もなく食べてしまう。まだ買い物中でレジを通っていないから、子供が食べてしまった分は支払わない。

はじめてカートの上でバナナを食べている子供を見たとき、そんなところで食べるもんじゃない。躾が悪いと思っただけだった。あとでまだ払ってないバナナだったことに気が付いて、なんて親子だと思ったのだが、その親子が特別ではなかった。しょっちゅうそういう親子を目にした。バナナの一本や二本は誤差のうち、値段にしてもたいしたことないという意識が客だけでなく、店の方にもあるとしか思えない。そんなことで目くじら立てることもない、豊かなアメリカの鷹揚な文化なのだろう(と勝手に想像している)。

<少量客用レジ>

多くのアメリカの家庭が、大きなカートに買うものを山のように載せて、一週間分の食料(量からして、それは食糧と呼んだ方がいい)をまとめ買いする。こっちは一人者、買うと言ってもしれている。いくつもないのに、山のようなカートの列に並ぶのは勘弁して欲しい。誰もがそう思う。誰もがそう思えば、コストアップにならない限りという条件つきにしても、それに答えようとするのがアメリカのいいところで、いくつも並んだレジの端にExpress lineだとかRapid lineだとかいう名前のレジがある。そこは商品十個以下や十二個以下の買い物客専用のレジになっている。日本のスーパーでも似たようなレジをと思って、お願いしたことがあるが、店が狭いから(十分広い店だった)という理由ともつかないことを言われて無視された。そんなレジ、あってもいいはずなのに見たことがない。需要はあると思うのだが、規則の好きの国だから、何かあるのかもしれない。

ここで、規則があってくれと変なことを思ってしまう。まさか規則もないのに、もしその程度のことも思いつかない、思いついても、やろうとしないのだったらと思うと怖くなる。

Private homepage “My commonsense” (http://mycommonsense.ninja-web.net/)にアップした拙稿に加筆、編集

〈記事出典コード〉サイトちきゅう座 http://www.chikyuza.net/
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