来る選挙は、この国の近未来を賭けた厳しい選択を国民に迫るものである筈なのですが、世間的に、国民一般には、切迫した風情が見受けられないように見えます。
時の政権は、真の目的である改憲を隠し、何時までも偽りの経済・財政政策を偽装した単なる財政ファイナンスを国民に提示し、近未来には、自国通貨の信認を毀損する国債乱発を継続し、官製相場で好況を演出する偽装をしている訳ですが、肝心の国民がそれを見抜けずに居ます。
世界では、皮肉にも、英国民が米国大統領までも動員したEU残留を迫る経済的脅迫をものともせずに、一時の不況なり経済的苦境をも甘受しつつ離脱を選択しました。 我が国の米国従属に甘んじる似非右翼的政権とそれに正統性を与える国民の習性では、とても倣うことは出来ないと溜息が出ます。
来る参議院選挙では、議会内野党が共闘体制を組み、一人区での野党候補を一本化し、安倍政権の改憲を阻止せんとしているように見えます。
ところが、仔細に見ますと、共闘の内情は、共産党が、自党候補者を下ろし、他の候補者を推薦する一方的な自粛行為に過ぎません。 それが証拠に、四国の選挙区では、共産党候補を民進党が推薦さえもしていません。 これが「共闘」と言えるでしょうか。
護憲の側には、一枚剥けば、改憲と変わらない偽装護憲の立場に立つ人々が多数居ます。 何時でも、観られる光景です。 労働運動では、良く観たものですし、今も見ます。
厳しい労働運動の現場にあって、組合運動に汗を流し組織活動をしている第一労組の背後にあって、その虚を衝くように立ち上げた第二組合が、言葉巧みに一般労働者を誘い、第一労組を切り崩し、雇用主に代わり労務対策を講じるようになる、その流れを何度も見ました。
私等は、学生時代から身についた、攪乱者としての似非左翼の常態が、如何なる世界に在っても己の任務に忠実である事実を拝見しましたものです。 その姿を観ると吐気がします。
何人の「友人」に絶好したのか自分でも覚えていませんが、己の気概を失った人間は、亡者に過ぎません。
最近では、そうした亡者が「護憲」等と言っているらしいです。 即ち、憲法第九条の第二項を改憲する、との「新護憲論」と言われるものです。 私には、立憲主義に基づき、憲法に従うことを公務員に求める声を「九条お花畑」と揶揄する立場とどう違うのかが分かりません。 自衛隊が既存のものであることを前提に、憲法改正を論じる逆転した発想は、護憲ではありません。 いまある憲法を守れずして、未来の立憲政治を保障は出来ないのです。
現憲法に賛成であろうとも反対であろうとも、厳として守るのが立憲主義です。 この箍が外れた国は、滅亡するでしょう。
今回の選挙では、この国の近未来を予見出来得る、と思って居ます。