序
常々、人とは何か?
人と社会、生涯過程としての成長進化との関わりとは何かを考えています。
その中で、労働や自己意識などが重要な要素となっているであろうから更に、具体的に唯物論的にありたいとしている事に、先人の研究はどの様にまとまって来ているのだろうと言う事が、最大の興味となっているわけです。
それは、僕個人だけのものではなく誰しも同じであるのではないでしょうか?
その人生は、良い人生であったのか?
それとも地獄図の様なものであったのか?
孤独ではなく友人、友愛に満ちていたものであったのか?
今は、独りで楽しめるものは沢山あります。ゲームやパーソナルな牢獄を彩る資本主義文化の究極がここにあるようにも感じられます。
しかし、独りでよりも皆と楽しめたなら更に、有意義であり、幸福なものであると大部分の人は考えているはずでしょう。
社会や共同体の役割を幸福の在り方の基本的なベースとして問うのは、自然なことの様に思えます。
本来、空気や水の様にあるべき友人も他者も、そして家族さえ、階層や貨幣関係の中にあるのは何故か?
知識や技術も、教わるとしたなら多くの時間が必要であり、お金の量によって測られているわけです。
出来るだけその摩擦たる貨幣関係が生じないのが幸福に近い事となりそうです。
なぜなら、友情は、本来、お金では買えないものであろう理想があるからですが、愛情も友情も資本主義原理の中で如何にして分断されているのかを研究し、分析したい、教わりたいとして、ちきゅう座をも活用していると言うわけでしょう。
(1)
現代史研究会が、ホームページを保有していない故に、ちきゅう座を活用しているわけですが、他にも魅力的なホームページが多数存在しているようです。
社会主義理論学会 第67回研究会「ウクライナ問題」
https://chikyuza.net/archives/47539
上記の中の
社会主義理論学会
変革のアソシエ講座2014年度「10月案内」
https://chikyuza.net/archives/47707
上記から
「変革のアソシエホームページ」
http://homepage3.nifty.com/associe-for-change/home.html
そして、ちきゅう座にてもお馴染みの
たんぽぽ舎
http://www.tanpoposya.net/main/index.php?id=202
などなどです。
個人的には、「社会主義理論学会」は、ネーミング的に僕自身の興味と合致していて、期待が大きいのですが、ホームページとして、まだまだ手慣れたものとなっていないのが残念です。
本来、群雄割拠しているよりもシンプルでありながら統一会派を作っていなくては、政党として自民党にも対抗できず、政治的な段階にも到達できないでいるとも言えるのですが、それを打開できる「シンプル」な名称が、僕にとっても「社会主義理論学会」の様な「社会主義」であったり、「マルクス」であったりしていたわけです。
「マルクス」は、人の名でありながらも、既に、故人であり、歴史上の人物。
「生きて考えて闘った」序で語ったような典型的理想的先人像として知れ渡った人物像を提示しています。
(2)
ホームページの技術、スキルについても多く語り合い、横に広げながら、「シンプル」なる統一会派へと合流しなくては民主主義政党政治さえ成立しないはずなのですが、ホームページ技術、会話も貨幣関係に晒されていて簡単には手に入れられるものではないのですが、お金をかけたのでは意味がありません。
自身の努力によって貨幣価値、資本主義価値に対抗するのが、アソシエーションの意義の中心にあるはずだからです。
更に、上記のホームページ群に対して、重要な要素が、もう一つあるはずです。
それが、テレビの様に、一方通行ではない事、相互通行としての対話、会話が可能である事。
これが、インターネットの革新革命的なところでもあるわけですが、それを、いささか、アナログ的でもあるのですが、備えているのが、「ちきゅう座」の特質すべきところであり、更に、「ちきゅう座」的拠点を、「社会主義理論学会」など期待されるホームページにもひろげて欲しいと僕は考えているわけです。
(3)
僕は、更に、シンプルな統一会派として、2018年5月の「マルクス生誕200年記念祭」的なホームページ的議論の結実を、「ちきゅう座」「社会主義理論学会」その他、有志のみなさんに働きかけ、共同体、社会改革の道筋へとつなげていって欲しいと、近い未来としての社会主義3年計画経済を構想し広めたいと考えているわけです。
みなさん、助け合って、この難局を乗り切っていきましょう!!