さよなら だけが…。

 30年、30年と、やたら言い続けて来たが、ここらで初心に戻ることにしよう。
 今の新宿に向き合い、路上の仲間とどうやったら共に生きられるのかをもう一度、試行錯誤する時でもある。

 「30年」に、さほどの意味はない。それが、あたかも日常のようにこの街の広い仕組みの中、何となく、変わらず(しつこく?)、そこに在るのが私たちでもある。

 それは、長い歴史の中のほんの一助でしかない。

 思想信条はともかくとして、路上の仲間を心配する人々は、どの時代にも、そこそこ一定数おり、そして、自ら信じる道を歩み続けて来た。それは大きな流れではないが、細々と、切れずに流れて来た歴史でもある。

 そう云う私たちが、偉そうな団体にならず。また、大きな声を張り上げ、行政を糾弾するだけの団体にもならなかったのは、路上の事を様々な面で見続けることを止めなかったからでもある。
何が必要か?何を求めているのか?何が出来るのか?は、その状況によって様々である。人はそれを十羽ひとからげに語りたがるものであるが、実際はそんな単純なものではない。
 そのひとつひとつを、どうしたら紡ぎ合わせることが出来るのか?そんな思索の思いを、私たちは「仲間」と云う古ぼけた言葉に託し続けて来た。それは傷の舐め合い程度のことで、とても小さなことなのだろうが、傷は舐めないと癒やせない。傷の具合は、すぐ治る者も、一生続く者も居る。「仲間」と云うのはそんな関係なのだろう。
 そんなことなので、相も変わらず路上と格闘を続け、あまり世間に同情を求め過ぎず、そして気張らず、成果などとは無縁の、この活動を、生あるうちは続けて行きたいものである。
 「路上の果て」がどこにあるか分からないが、共に歩んでいれば、いつかは辿りつけるのだろう。

…………
 新宿駅の西口は、小田急本店の建て替えを中心とした再開発の真っ最中で、西口地下の「動線」は工事に合わせて日々変更。車道ロータリーも地上に行けず、タクシー乗り場も移動されるなど色々と変わってしまった。カリヨン橋からはとても眺めが良く、西口からの駅周辺が今は真っ裸と云った感。西口から東口が臨めるのも今の内だけなのだろうが、何だかすごい再開発をしているようである。
 その東口に君臨する歌舞伎町はこの数年「トー横キッズ」問題で、取り締まる側との「イタチごっこ」を続けているが、それよりも古くから歌舞伎町に集まる若者の相談に乗っていた「日本駆け込み寺」が事務局長さんが薬物所持だとかで逮捕されたとのことで、それまで、体よく利用していた東京都から補助金を切られるなどして、今は活動があまり出来ない状態になっているようである。
 こう云う時の世間の変わり身はとてもすばやく、まさに、事情はどうだとかは関係なく「水に落ちた犬は打て」である。
 連絡会は歌舞伎町での巡回やら相談活動はしていない。それは、彼らがいたからである。時折ホームレス状態の人の相談の件で電話をもらっていたが、ホームレスはこっち。風俗系の若いあんちゃん、ねーちゃんはあっち。と云う。そんな「不文律」がいつしか出来あがっていた。なので、パトロールは大ガード下まで。何かあったらコマ劇前広場(今のシネシティ広場)まで行って、紛れ込んでボコボコにされた「ジミーちゃん」を救出に行く、そこに居着いてしまった「エッちゃん」にお酒の差し入れに行く程度の、そんな(?)レベルであった。
「キャプテンフックの斉藤さん」が頻繁に出入りしてたが、彼は「組」にも仕えていた口なので、「やばい人々」とも何故か対等につき合っていたのだが、それは大昔のこと。
 歌舞伎町では他に相談する場所はあるようだが、そこもなかなか親身になってはくれないのが実情のようで、頭ごなしに否定したりせず、同じ飯を食って関係を作り、泊まる場所を用意したり、再起に向けての条件を作る。そう云う時間をかけ地道なことをやってくれる場所は、行政の支援などなくとも、警察に目を付けられたとしても、何とか持ちこたえてもらいたいものである。

 そんな関係もあり、若い子達が、同じ匂いがするのか、こちらにも寄って来たりもするのであるが、こちらはホームレスのおじさん対象の団体。話しもかみ合わず、関係はあまり構築できない。親身になると云うことは、結構大変なことなのだと、つくづく思う次第。

 西口の方はと云えば、連絡会が毎週「おにぎりパトロール」や衣類配布で利用している都庁周辺の「ふれあい通り」の「打ち替え工事」があるとのことで、築40年ともなろう都庁とその周辺の施設は、そろそろ老朽化なので、それはそれで必要なのであろうが、当該場所には、点々と30件ほどの小屋や常駐荷物があり、正月の放火事件(これまだ犯人はつかまっていない)があったところも対象。
 が、道路を管理している東京都第三建設事務所の所長さんは、この春変わったばかりで事情が良く分からない。警告書を2週間前に貼り付け、それでどうにかなると思っていたようである。「何だ、そんなのあまりにも急じゃないの」との声が出るのも仕方がない。
 そんな混乱を収拾しようと新宿区が巡回をし、移動先が見つからない人に丁寧に話し込み、保護等の対応をし始め、何人かの仲間はそれに応じてくれたが、こうやって東京都の不始末は新宿区に押し付けられる。
 この工事は道路整備なので一時的なもの。それを知っている仲間は、夜はカラコーンの間に寝床を作り、横になる。荷物は別の場所に移動。
 今の季節は仲間の移動も縦横無尽。

 ここら辺の問題は公園管理と道路管理の違いで明暗がが分かれる。都立公園のテント管理はかなり柔軟で、「地域生活移行支援事業」(2004年開始だからもう20年前。この石原都政の大きな事業を知っている人も少なくなったが)の後、「適性化」の目標が何とか達成できたのは、現在居る人には暗黙の了解を出したり、公認の場所で居てもらったりする代わりに「新規流入防止」を徹底したことにもある。これは公園の場合は範囲が限定されているため、警備をしっかりつければできる。「新しく寝ちゃ駄目よ」と言うだけである。
 一方、道路の場合は範囲が広いためそれが出来ない。野宿がしやすい場所は特定されるので、やろうと思えば、そこに「ハコバン」作って出来そうなものであるが、当時から、そして今でも、それはしない。把握もなかなか出来ていない。単に荷物が置いてあってもそれが放置されているのか、そうでないかも、特別な清掃作業をしない限りは分かりはしない。
 ある程度固定化されてから巡回かけたとしても、そこに生活基盤がある程度出来てしまえば、タイミング的には遅く、それになびく人は少なくなるし、小屋だけ残し、「宿借り」になっても分からない。
 都立上野公園の管理事務所の裏側には、「地域生活移行支援事業」の後、残った仲間だけが集える公園公認の囲いがある。小屋の仲間も居たし、荷物だけの仲間も居る。当時はかなりの数のテントがあり、小さな町のようにもなっていたのであるが、ここはもちろん新規には入れない。その残った仲間も時間をかけ、粘り強くアプローチを続け、また病気になったら救急車を呼ぶなどをし、今はほんの数件程度しか残っていない。こんな場所のことは公園管理の関係者や地元福祉事務所以外は知らないのであるが、これが未だにあることが驚きなのと同時に、それだけ人の生活の問題は、その解決には時間がかかると云う例でもある。

 今の路上生活者の状況、役所の職員もまた代替わりをしているので、かつてのように「これは、色々な面から問題である」と認識するお役人も少なくなった。ターミナル駅や河川敷を有している区ならまだしも、そうではない区市町村ともなれば、その傾向は尚更である。管理行政は福祉行政に丸投げ。丸投げされる福祉行政も困ったもので、巡回はそう云う仕組みがあるから行ったとし
ても、会えなかったり、空振りをしたり、とっとと帰れと言われてみたりと、慣れないところだと、そんな事となる。それが埒があかないとなれば、「何をやってんだい」と、警官を同行させての「脅し」や「いやがらせ」。自立の意思のあるホームレスには、その自立を支援するのが社会の役割であり、国民の義務でもあると、法律で規程されているのですよ」と、説いたところで、「いやいや都民の苦情が殺到しているので、そんな悠長なことは言ってられない」。これは「緊急事態である」と、なる。何やら今の世界情勢を見ているようであるが、法であるとか人権であるとかはどうにでも解釈できるようである。

 地道に、丁寧に、根気強く、しかないのであるが…。
…………
 東京都は「令和6年度(冬期)路上生活者概数調査の結果」を先日公表し、都内の路上生活者数は565人とされている。新宿区は76名で前回調査と増減はなし。この調査は概ね午前10時から午後4時まで、公園、道路、河川の管理者や電鉄会社に依頼し、目視で確認されたものである。
 今回、国河川敷が減ったとのことであるが、それでも国河川が203名、都管理施設188名、区管理施設136名、市 管理施設10名となっており、この構造はあまり変わっていない。
 昼間調査であるが故に、今回の調査でもJRなど電鉄関係は28名と極端に少ない。夜になって簡易な小屋を造ったり、段ボールで覆って寝る流動層の人々は、その時間に目視できないので、対象から外されている。
 これは実数調査ではなく、概数と明記されているよう「おおむねの調査」なので、傾向として捉えようと、実数を常に気にかけている私たちはその昔から言っているのであるが、数字と言うのは、いつの間にやら独り歩きをしてしまう。ここら辺の数は国にも報告され、東京都の路上生活者数として、いつしかカウントされ続けて来た。

 私たちの巡回活動では各班の責任者がカウンターを持ち、路上で暮す人々の実数は常に把握し、記録している。それはこのニュースでも、活動報告として季節ごとに一覧表を出している。実際に新宿の路上には何人位いるのか?その内、どのくらいの仲間が食を求めているのか?などの情報は炊き出しの量をどのくらい作るのかなどにも直結する情報でもあるし、ここは拘る。
 健康問題の把握や実態の把握にも必要である。どこに何人いるか?どのような仲間がいるか?○○さんはどこにいて、どのような経緯でその場を移り、どこへいったのか?巡回活動は常にそんな情報交換の場でもあり、それを全体的にまとめるのも、連絡会のお仕事である。
 この概数調査が実施された同時期の連絡会深夜パトロールの調査数は145人。これは深夜の時間帯で、新宿駅周辺のみの数。新宿駅の南側は渋谷区にも跨いでいるので、厳密に区内と云う括りは出来ないが、概数調査とこれだけの差があるのは、新宿ならではの流動層が占める割合の大きさでもある。
 そんなこともあってか、東京都は「夜間調査」と「深夜帯ターミナル駅周辺調査」を最近になって始めたのは良いが、調査目的は「夜の実態の把握」となっているが、その数をどうまとめてたら良いのかを迷っているような感があり、そのまま羅列するので、何がなんだか良く分からない報告にもなってしまっている。
 新宿区の昼間の概数は76名。夜間の調査は新宿区は34名。深夜帯ターミナル駅としての新宿は85名。前にも指摘したことがあったとは思うが、この夜間調査は自立支援センターの巡回職員が担っているようで、ブロックごとに対象や範囲も方法も恐らく違うようである。一言で言えば、「精度が低い」とも言える。たとえば第3ブロックの渋谷区の夜間は92名。これは区内くまなく回って
いるだろうと考えられる数ではある。これに比べ新宿区の34名なんてのは、一体どこを調べていたのか?これでは都庁の下あたりの数のようで、これを新宿の数とするのはどうであろうか?ほんの一部を回っているだけであることが数字からも知れる。
 現状なんて何も知らない今の東京都福祉保健局の担当さんは、何の疑問ももたず、そのままほいほい数字を入れただけなのであろう。これもまた問題意識が低すぎる。無駄飯食らいの役人である。誰でも分かるこの程度の疑問は、しっかりとした説明書きが必要である。
 なので、夜間調査の数は無視をして、概数調査の区内昼間人口76名と、新宿駅深夜ターミナル駅調査の深夜駅人口85名を足すと165名。こんなものが実数なのであろう。
 台東区の場合は概数37名、夜間は98名、上野駅20名と、これは、夜間と上野駅を足すと、だいたいの正確な数字になりそうで、第2ブロックも精度は高そうではある。この場合は概数調査は参考程度になり、実数はほぼ118名であろう。
 豊島区などは概数29名、夜間は28名とほぼ変わらず、深夜池袋駅で17名なので、概数と足すと46名。まあ、こんなものである。

 全数を把握しようとする時、一部精度が悪い部分がありながら、この統計を利用すると、夜間人口は482名+深夜138で合計620名で、これで国河川203名を加えれば、都内823名は確認される。まあ、実数として1000名を切ったか、切らないかである。 

 私も当時加わっていた「山谷労働者福祉会館人民パトロール班」の1994年の年末年始調査は都内約1500名とされている。なので、その頃の水準以下に長い年月をかけようやく戻ったと云うことである。あの頃はバブル崩壊直後だったので、テントは少なく、流動層が多かった。問題が放置され続けて、テントなど固定化していくのはその後の話。
 都内路上生活者(23区)概数調査の数値で最も多かったのは2004年(平成16年)の5,497名、その数が千人を切ったのが2014年(平成26年)。そして近々500名を切るかも知れない。
 昼間人口で500名を切るのは、ほぼ特定の地域に集中し、普段は一般都民からは目視されないこととになる。これはホームレス問題が忘れられ、必要性が問われる過
程に入ってくる兆しでもある。それが夜間人口が1,000名でもほぼ同じ。

 大都市圏だけの問題となり、大都市圏でも23区の対策ではなく、ブロックごとであるとか、特定の区だけの問題にもなる。台東、新宿で始まったホームレス問題は、またその区に戻るだけなのかも知れない。河川敷、ターミナル駅、一部公園や一部都道の周辺に点在しているのが、今の状況なので、それぞれ生活スタイルが違うことから、なかなかひとまとめには出来ない。駅なら駅、公
園テントなら公園テントと、属性をもうちょっと絞って何らかのゆるやかな対応を続けた方が、対策としては良いのであろうが…。

…………
 共に長い時を歩みつづけて来た一人の仲間が死んだ。
 いつもそこに居た仲間が居ないのは、ただ、ただ寂しい。
 長くやっていると多くの仲間の死に立ち会う。遺品を片づけたり、骨になるまで見届けてやろうと葬儀に出たり、遺影を飾って花を手向けたり。活動の裏ではそんなことの連続でもある。連絡会で鬼門に入った仲間は数知れない。毎年盆の追悼会(夏まつり)で飾る遺影も祀り切れないほど多くなった。過酷な運命の果てに辿り着いた路上で出会った、思いがけない仲間の大きな輪。そこで泣き笑い、励ましあった日々。路上から脱却しても仲間を思う気持ちは変わらず、「自分だけが」よりも「仲間のためへ」と、仲間の力を注ぎ続けて来、そして斃れた仲間、一人ひとりの思いや遺志をどのように繋いでいくのか?年月を重ねるたびに、その重圧、責務が残った者にのしかかる。

 「さよならだけが人生だ」は、井伏鱒二の中国詩人于武陵うぶりょうの名訳。
 この五行詩、単なる酔っ払いの歌のようで、これから人生どうなるか分からないから、ほらほら飲みなさいよと云う歌なのであるが、そこは家がなく放浪の旅に出た于武陵、今で言えばホームレス詩人。人の世の儚さ、別離の辛さをしっかりと余韻を残し、それを苦労人、井伏鱒二は近代に蘇らせた。

 そう云えば、あいつにはちゃんと「さようなら」を言っていなかった気がして、やぼ用のついでに、「新三河島」の駅をおりる。山谷争議団の支援者だった矢口鷹司が亡くなったオンボロビルの一室は、流石にもうないだろうと思っていたが、そのオンボロさに磨きをかけ、未だあったのには驚きだった。
 その一室に共同で寝泊まりし、明治通りを駆け抜け山谷に出入りした若き頃を思い出す。
 突然であり、思いもかけなかった。ある日、部屋に戻ると倒れ、息がなかった。糖尿病の合併症で心不全を起こしたようで、非業の死と云う奴だった。まだ20代後半。山谷の仲間から愛され、これから争議団として、活動家として一人前になろうとした直前でもあった。
 あの時はただ悲しく、泣いてばかりで、何もしっかり、やつに言ってやれなかった気がする。
「さようなら」と手を合わせ、灼熱の太陽のもと冠新道を西日暮里駅まで歩く。

 あの時も今と同じよう、遺品を片づけていた。

 悼みながら、泣きながら、それでも、それでも、前に進まなければいけないのか?

 路上の果ては、まだまだ、見つからない。
                                    (了)

初出:「新宿連絡会(野宿労働者の生活・就労保障を求める連絡会議)NEWS VOL.93」より許可を得て転載 http://www.tokyohomeless.com/

〈記事出典コード〉サイトちきゅう座http://www.chikyuza.net/
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