「え、今度はどこですか」の続きです。
https://chikyuza.net/archives/106799
キャフェテリアと聞いても期待はしていなかったが、案の定昭和の香りというのもためらう社員食堂のようなところだった。日造の部長に課長と数人の実務部隊が、大きな声でなにか話しながら食べ物をとりに行ったり来たりしていた。簡単に挨拶して、今日の日程を確認して、奥の方に座っているポールに手を振って歩いて行った。一時間もすれば会議室で一緒になるのだし、堅苦しいことなしでポールの紹介はそのときでいいやと思った。
ウィスコンシン州は酪農が盛んでDairy stateと呼ばれている。そのせいもあってか背の高い人が多い。メコンにいれば周りも大きいから目立たないが、中国ではまるで育ちすぎた熊のようで目立ちすぎる。気にしているのか一番奥のテーブルに座っていた。ポールが大きすぎるのだがテーブルも椅子も小さすぎる。大きすぎる尻をのせられた椅子が不憫に思える。どことなく笑いをさそうアンバランスだった。
グローブのような手で小さすぎる万頭つまんでかじりっている姿は、あまりに滑稽でアメリカの一コママンガのようだった。歩いてきたのに気がついて、おいどうするんだこんなものでと言わんばかりの顔をしてきた。バフェといってもお粥に油条、そこにいくつかの野菜の炒め物と何種類かの万頭しかない。ジュースにお茶。寂しい味のお粥を食うためにのせる薬味のような野菜なのか漬物かわらないものがあるだけだった。
ここまできたらもう好き嫌いを言ってられない。あるものしか食べられないとあきらめて、お粥に薬味をのせて食べてみた。変な香辛料が鼻につく。さっさとたべて、二杯目には醤油を垂らすだけにした。味気なくて何杯も食べられるもんじゃない。油条はと一口かじってほき出した。廃油で揚げたんじゃないかというしろものものだった。口の中に残った油が気持ち悪い。お茶でいくらかさっぱりしたところで、万頭にした。それを見ていたポールが、そうだろうって苦笑いしていた。いくら噛みしめても、何の味もしない万頭。アメリカのスーパーで売ってる大量生産の不味い食パンと似たようなものだが、万頭にはバターもなければジャムもない。ベーコンやハムかソーセージでもなしで、いくつもとはいかない。でも食べられるのは万頭しかない。ポールと二人で万頭をかじっては、味を求めて紙パックのジュースを飲んだ。紙パックには何種類かのフルーツの写真が印刷されているから、ミックスジュースだと思うが、なんのジュースなのか分からない。変な癖はあるが、飲めないわけじゃない。石油化学製品でもないだろう。お茶とジュースに何種類かの色が違うだけの万頭。いくら食っても食った気はしないし、食った気がするほど食べられるものでもない。まあ、とりあえず飢えは凌げる。明日も明後日も、これかよと思うと憂鬱になる。
三階の会議室に入っていって驚いた。そこはまるでWar roomとでもいうのか、前線基地のようだった。PCやプリンターもなにからなにまで持ち込んで、現地で見積を作って検討会ででてきた変更に即対応できるようにしていた。部屋の奥に引っ越し屋が使う大きな段ボール箱がこれでもかというほど重なっていた。一番上の段ボールは開いていて中身が見えた。カップラーメンやインスタントコーヒーに煎餅やプリングルスまであった。インスタントにしてもコーヒーのいい匂がする。でも誰もすすめてくれない。なんだここまで呼びつけておいて、水臭いじゃないかと一言いいたくなって、ポールと顔を見合ってしまった。
あんたらはいいよ。こんな前線基地まで作って、現場で見積を改定してって。こっちは出先で何をできるわけでもない。すべては事業部に連絡して処理してもらわなければならない。日本のメーカと日本の仕事の仕方でやってきて、そのやり方で海外のメーカもやれといっても通用しないぐらいのこと分からないのかと呆れるより腹がたってきた。日本語で仕事をできるのは日本人同士だけで、一歩海外にでれば、英語を共通語にするしかないのを経験しているのに、仕事の仕方までは想像できないのか、この田舎ものがと思った。
邪魔にならないように、部屋の隅にあった机に座って、ポールとどうするかという話になったが、なんのしようもない。つい雑談になってしまうが、時間がもったいない。ちょうどいいポールにProposalの内容を説明してもらうことにした。バインダー一冊のProposalなんか、受け取ったところで主なところにざっと目を通して日造に送るだけで、一度も、まともに読んだことがなかった。
ポールがまさか、お前本気でProposalをという顔をしていた。そんなもの見たところで、なんの役に立つとも思えないが、ポールもそんなことしかやることがないと思ってだろう、いやいや始めた。ただの時間つぶしだ。
Proposalのバインダー、カバンから出すだけでも、よいしょの一声が必要なぐらい大きくて重い。手で持って歩くのは駐車場から事務所までのアメリカのことしか考えてないんだろう。なんでこんなに重いんだ、この野郎ってポールに渡した。百九十センチは優にあるし、百何十キロあるのかという大男のポールが手にすると、バインダーがかわいく見えるから癪に障る。何を食ったら、そんなにデカくなるんだ。燃費が悪くてしょうがないじゃないか。どこから始めるかと思っていたら、さっさとページをめくりながら、
「ええーっと、(You know)。こんなもん一ページ、一ページ読むヤツなんかいやしない。もしいたら、そいつはバカだ(You know)」
口癖でしかないにしても、なにかのたびにYou knowがでてくると、慣れてはいても気持ちのいいもんじゃない。そんなもの、あえて訳せば、ええと、ん、なあってな感じのつなぎの言葉でしかないが、あまりに当たり前のことにYou knowがついてくると、そんなこと分かってるって、ついI knowって言いそうになることがある。
「こんなもん、ただのBoiler plates(定型文)だ」
「Verbiage(ゴタク)、Verbiage(ゴタク)」といいながら、どんどんページをめくっていく。文章なんかみやしない。
「なんで、こんなにどうでもいいページばっかりなんだ。こんもん別冊にしちまえばいいのに……」
「なんでこんなに厚いんだ。見なきゃならないページはいくらもありゃしない」
おいおい、お前の事業部がだしてきたもんで、こっちはしっかり読まなきゃって、読んでないことに後ろめたさまで感じさせられてんだぞって思いながら、やっぱりそんなもんなんだよなってほっとした。
「おっと、ここは項目だけ見ておけ」
と言いながら、ボールペンで囲った。何かと思ってみたら、ドライブ・システムを構成する個々の制御機器の概略説明だった。なんだーという顔だったのだろう、言い訳がましい口調で、
「別になんてこともないけどな。ハードウェアだけしかわからないけど、一応これが全体像だから」
またぺージをめくり始めて、
「なんて資料だ。全体像の説明がろくにないじゃないか。こんなアブストラクトのような説明じゃ、わかりっこないじゃないか」
ポールは現場のオヤジさんなんだろう。机に向かって書類は苦手というより嫌いなんだろう。つまらねぇーって顔をしていた。
「説明するとこなんか、あるんかな」
メージをめくりながら、何を説明する?説明することなんかあるのかなと思いだしたようで、冷めた口ぶりでいいだした。
「PLCはPLCだし、リモートI/Oで機械のあちこちにI/Oモジュールがついているだけじゃないか。その先のモータが増えればドライブも増える。センサーも増えるけど、どれも普通のもので、何ということもないし。十キロワットだって、百キロワットだって、モータはモータでしかないし、ドライブはドライブでしかないじゃないか」
そんなことは分かってる。でもその先になにか知らなければならない何かがあるんじゃないかと気になってしょうがない。
ポール、うーんっと考え込むような顔つきで、
「ああこんなもんかなって全体像をつかんでりゃ、それでいい。何これってなったら、それを見ればいいだけだ。そんなもの仕様書をみれば、どうなってるのかぐらい誰でも分かる。分からなきゃ、製品担当に聞くしかない。それはお前もオレも同じだ」
言っていることはわかるんだけど、じゃあ、ドライブ・システムってのは言ってみれば幕ノ内弁当のようなものなのかって話になっちゃうじゃないか。要素は製品事業部や部品メーカからの買い物。どんな弁当にしますかって引き合いもらって、ああじゃあ、A定食にこれとこれとを足して、こいつとこいつは要らないからってんで一丁上がりってことなのか。
ポールが自嘲気味に、
「全部分かってるヤツはいない。みんなブラックボックスの入力と出力までしか分からない。ブラックボックスの中身はそれを担当しているヤツしか分からない。分かろうとすることになんの価値があるわけでもない。担当しているヤツだって、使っている素子は資料をみて使いかたが分かってるだけで、それ以上何を知ってるわけじゃない。制御なんてのはそんなもんだ。機械がデカかろうが小さかろうが制御にゃ関係ないしな」
「そうだな、あとはモータリストとセンサーリストをざっとながめて、連鋳機のどのあたりに使われているか想像しておくぐらいかな」
と言いながら、大きなリングノートを取り出して、なにかブツブツいいながら連鋳機のスケッチを描き出した。この図体でよくそんな繊細な図を描くなと、妙なところで感心した。
モータリストをみながら、リストに書かれている連番をスケッチに書きこんでいった。
「いいか、ここでスラブの先端をつかんで、そう、こいつがマスターだ。掴んだスラブを押し出していって、その先のローラーがスラブの先端をつかんだら、こんどはそいつがマスターで、さっきまでマスターだったローラーがスレーブなる。スラブが押し出されていくにつれて、マスターが先端のローラーに引き継がれて、最終的には突端のローラーがマスターになって定常運転だ」
「ここにターンディッシュがある。その下にスラブの鋳型がある。いいか、このターンディッシュの底板を閉じておいて、レイドル(取鍋)からモルテンメタル(溶鋼)をそーっと流し込む。ターンディッシュの底を開いて溶鋼が鋳型の形になって、その先端をピンチローラーがつかむ。あとはピンチローラーに沿ってってのか、列になってるピンチローラーが順送りで溶けたようなスラブを固まらせながら先送りしていく」
「連鋳機メーカや製鉄所によって、運転の仕方に違いもあるし、各社各様のノウハウもあるけど、こっちは言われたようにアプリケーションソフトを作るだけで、何があるわけでもない。色々言ってくるけど、基本はどこも同じだ」
「こんなプロポーザルなんか、どれも似たようものでほとんどがBoiler platesで、ちょっと編集すればいいだけだ」
「何が一番大変かって、それはコミッショニングだ。物の手配から搬入、組み上げったって、機械の方がそこそこ出来上がってこなければ、なにもできない。システムテストったって、シミュレーションまでだ」
あごをしゃくって、日造の方をみながら、
「あれを見てると、ちょっと心配になってくるな」
この類の話は、仕事の話で始まっても、いくらもしないうちに仕事の世間話に、そしてただの世間話になる。Proposalなんかいくら細かく見ようとしても、見る物がない。制御屋の宿命といってもいいと思うが、何をどうするかを決めるのは機械屋で、機械が必要とする制御や監視システムを作り上げるのが制御屋。右を向くのか、左を向くかを決めるのは犬で、尻尾をどっちに振るかを決めるのかも犬次第。犬が機械屋で、尻尾が制御屋、その出先(支社)はさしずめ尻尾にしがみついた蚤のようなものでしかない。犬と尻尾に振り回されながら、なんとか自分を失うまいとすることしかできない。海外支社の社員なんてのは、役職がなんであれ、現地採用の外人傭兵でしかない。何をどうしたところで、Second Class Citizen。使えるうちは使ってもらえるが、要らなくなればその場でレイオフになる。
ポールが言わんとしていることはよくわかる。部活の合宿でもあるまいし、なんで部長以下の部隊が戦場にでてきて銃後の作業をしているのか。前から気になっていたが、日造の連鋳機部門には営業がいない。いるのかもしれないが、見たこともなければ、存在を感じたこともない。陣頭指揮はいいけれど、いつも事業部のトップが旗を振っている。そこに課長が二人ついて作業を分担している。国内に連鋳機が行き渡って、中国に活路を見つけたまではいいが、そこでも価格競争力を失って、人員整理もしてきたのだろう。もう組織という組織が残っていないのか、もしかしたら、大会系のノリで頑張れ頑張れでやってきただけでしかないかもしれないと思いだした。
課長以下の部隊でそれぞれの担当がいるとは思うが、どのような組織になっているのか分からない。本社にいれば、資料もデータも使い慣れたコンピュータシステムもある。何かのときには相談に行ける部署もあれば人もいる。いざとなったら工数を融通してもらうこともできる。それが、参謀本部が手勢を率いて前線に出てしまったら、生産性が落ちるだけではすまない。空になった本部を誰が指揮するのか。前線と銃後、そこに両者をつなぐ支援部隊とインフラを支える部隊がなければ、前線は機能しない。第二次大戦で銃後の重要性をいやというほど思い知ったのではないのか。
英語で遠回しな言い方をしていれば、たとえ漏れ聞こえたとしてもポールとの話の意味がつかめる人はいない。東京支社にいても同僚の耳をかすめもしない話をする程度の英語の能力はある。
話があちこちに飛んでいるうちに昼飯なった。日造の小隊について食堂に降りて行った。変な臭いのする米に野菜の炒め物が何種類かあって、なんの肉だからわからない、なんでここまで不揃いなのかと聞きたくなるソーセージ。朝と同じ紙パックのジュースにお茶。
ポールが、おい、お前どうするんだという顔をしている。どれも喰えたしろものじゃないと言ってもしょうがない。あるものしか喰えないが、あるものが喰えないとなると、どうしようもない。
「少しずつ試してみるか」
ポールが冷やかし半分の口調で、
「試してみる価値のありそうなもの、あるのかお前」
「価値なー、試してみなきゃ分からないじゃないか。もしかしたら、うんこれってのあるかもしれないし」
どうみてもありっこない。試すのすら面倒というか、バカバカしいと自分でも思ってる。でも試してみるしかない。
二人で、一番悪くなさそうな炒め物、その次に悪くなさそう炒め物と、なんなだこの米はというごはんをちょっととって、奥のテーブルにトレーをおいて、ジュースを取りに戻った。変な味のジュースで、こんなもんに慣れてしまうのが怖くなる。それでも、これが命綱かなんて思いながら、三個ずつとってきた。
ポールが慣れない箸で炒めものをつかめない。こうしろといいながら、左手で皿を口にもっていって、箸でエサを口に押し込むようにしてみせた。それにしても不味い。噛むと不味さが口の中に広がる。口直しにご飯も同じように口にいれたが、これはこれで変な臭いが鼻につく。一口二口喰ってはお茶で口直しして、ジュースを一口のんで。また一口二口。道に落ちていたら、犬の糞にしか見えないソーセージをかじってみたが、好きになれない香辛料に負けそうになった。お茶を飲んでは、ソーセージをかじったが、もういいやとやめた。ポールがなんだこれという顔をしながら、ソーセージをあきらめない。
「どうだ、中国のAfternoon sausageは」
アメリカのダイナーの定番の朝食には、ハムかベーコンかモーニングソーセージのチョイスがある。モーニングソーセージは小ぶりで見たところ、おつまみサラミに似ている。
こんな物喰えるかという顔をしながら、変な笑い顔で、
「Not that bad(そんなに悪くない)」
「ああ、まだいっぱい残ってるぞ」
しかめ面しながら、
「このスパイス、なんとかならないかな。これさえなければ、ただのなんだか分からないひき肉なんだけどな」
「中国四千年歴史だ。スパイスも年食って発酵してるんだろう。アメリカのようにフレッシュじゃねぇってことだ」
ぶっと吹き出しながら、
「いやー、ミルウォーキーやシカゴで食ったチャイニーズは美味かったけど、なんで中国のチャイニーズは美味くないんだ」
「そうなんだよな。オレもなんでって思うんだけど、俺たちいちゃいけない中国にいるってこっちゃないかって思ってんだけど」
「そうだよな、何が何でもこれはないよな」
二人して朝飯の万頭を何個か持って来ればよかったと思いだした。
「明日は万頭もってこような」
朝飯以上に喰えない昼飯だった。夕飯も似たようなもんで、ダイエットが必要なポールにはちょうどよかったんじゃないかと思うが、困ったことにベルトレスのズボンがずり落ち始めた。
四時も回ったところで、ポールがジェコインスキーに電話をいれたいんだけどと言いだした。日造の課長に、アメリカの事業部に無事ついて、こっちで作業してるって電話を入れさしてもらえませんでしょうかと頼んだ。
国際電話でぼったくられたことがトラウマになってるのか、
「国際電話か、めっちゃ高いけど、大丈夫かな」
「ああ、コレクトコールでアメリカの事業部で払わせますから。コレクトコールで手配してもらえませんか」
課長がでていって、三十分も経ってやっと中国人と一緒に帰ってきた。
「国際電話がかけられるのは、工場の方にしかないっていうんで、この人について行ってもらえるかな」
「ありがとうございます。お手数かけて申し訳ないです。いままで電話する機会がなくて、まだ連絡入れてないんですよ」
といいながら、オレ、中国に出張して日本に電話したことなかったな。「無事ついた」「これから帰る」ぐらいの電話はしなきゃいけないのかなって変な気がした。いつも事務所に行くのと同じように出て行って帰ってくるだけで、何があるとも思えなかった。それでいいじゃないかと思いながら、ポールはアジアになんて考えたこともなかったんだろうし、そりゃ電話の一本もかけたくなるわなと、中国人について二人で歩いて行った。
大きな建物の小さなドアを開けて入ったら、倉庫のようなところだった。まったくなんでどこもここも埃っぽいんか。掃除のしようもないのかもしれないけど。せき込みながら歩いて行って、また小さなドアを開いたら、事務所なのか倉庫なのか分からないが、薄っくらい部屋の奥の机の上に昔懐かしい黒いプラチックの電話器が乗っていた。
案内してくれた人が交換手に電話してなにか話していたが、アメリカへのコレクトコールだけしか聞きとれない。ポールが書いた電話番号の紙を見ながら、電話番号を言っていた。
もっと待つかと思ったが、直ぐにつながった。受話器をポールに渡して、気を利かせてくれたのだろう。案内してくれた人が部屋からでていった。
ポールがちょっと緊張した顔になって、急に笑い顔になった。なんだコイツと思ったら、
「おい、ステフ。タイに行ったときの話はいろいろ聞かせてもらったけど、俺たち今どこにいるかわかるか」
ステフはジェコインスキーのファーストネーム、ステファンを短くしたもので、アメリカでは上司でも誰でもニックネームが普通で、苗字どころか、長ったらしいファーストネームなど使わない。
ジェコインスキーとタイの製鉄会社にH鋼の圧延ラインのプロジェクトで何度も行っていた。タイ支社の一人とジェコインスキーと見積担当の四人でバンコクの街に毎晩くりだしていた。日本支社が動き出して、アジアに引きずり出されるまでタイも中国も話題に上ることがなかったのに、誰かが行ってくるたびに逸話に尾ひれがついて広がっていった。
笑い話に、どうでもいい失敗談、聞いたこともないメシやらなんやら、面白い話を散々きかされていたのだろう、ポールが真面目くさった口調で言った。
「昨日からフジサワと二人で地獄にいる。まあ、強制収容所よりは気が利いてるかもしれないけどな」
「二人して何もやることねぇ。いったいこんなところに何し来たんかってところかな」
「とんでもねぇところだ。ホテルの蛇口からでてくるのは泥水だし、蚊がいて寝れやしねえ。メシは豚箱でも絶対もっといいもの喰ってるぞ」
「ああ、もう一つ大事なことがある」
なんでこっちをみて薄ら笑いしてる、このオヤジと思ったら、
「今、働き者の日本人の仕事の仕方を見学させてもらってる。お前も何かの機会に見せてもらった方がいいぞ」
そこまでいって、電話変わるかって受話器を差し出そうとするから、
手を振って、いらないって断った。こんなところでジェコインスキーと話したら、何を言いだされるか分かったもんじゃない。
ジェコインスキーと事務的な話をして、笑って終わった。言うだけ言って気が済んだんだろう。あとは二人でダイエットの続きだ。
技術検討会には日本から来ている部隊も出席していて、日中似たような人数だった。人数のせいばかりではないだろうが、宝鋼のような話にはならない。設計院は武漢ではなく北京から来ていた。技術を盗もうという素振りがまったくない。機械装置の買い手と売り手が逐一仕様を確認していく。宝鋼と同じで責任者がこれでいいと判断したとき、責任者と設計院の両脇にいる人たちが声をそろえて「すーだ(是的)」という。宝鋼のときと同じだが、上海と違って声が重い。声が軽い上海では、本当は納得してないようにも聞こえる。同じことを言ってるだけなのに、声が重いというだけで、真意に聴こえるから不思議だ。拙い経験からだが、声の調子は北に行けば重くなっていって、南に下がれば軽くなる。香港映画の真面目に話をしている場面で、声の軽さから冗談を言い合っているのか思うことがある。
ポールと二人でおとなしく座っているだけで、何を聞かれることもないし、何をいうわけでもない。ただ、日本支社だけではなくアメリカの本社からも来て、このビジネスチャンスを生かそうと真剣になっているという恰好をつけるためだけだった。ポールもすぐに気がついて、何もわかりもしないのに、何かのたびに頭を立てに振って納得したような顔をしている。
何もない三日間が終わろうとしていた。明日の昼過ぎには北京だ。一泊して明後日は東京とミルウォ―キーだとほっとしていた。明日は日曜日なので今日中にチェックアウトをすませておかなければならいと聞いていた。
二人で一階のフロントにいってチェックアウトしようとした。
たどたどしい英語で言われた。
「No plastic money. Cash only.(クレジットカードは使えない)」
財布のなかをみてみたが、現金なんかいくらもない。千円札もいれて二万五千円しかない。
マクドナルドでもクレジットカードが当たり前のアメリカ人が持ってる現金なんかしれている。それでも二十ドルやそこらは持ってるだろうと思って、聞いた。
「ポール、いくら持ってる」
ポールがしわくちゃの札を数え始めた。
フロントに、いったいいくらくらいになるのか、恐る恐る聞いた。
「合計いくらになる」
大した金額じゃあない。四百五十ドル、ざっと四万五千円でしかない。あと二百ドル、ポール持ってっこないような、と顔をみた。
「もしものことがあるから、百ドル、バッグの奥の方にいれてるから全部で百二十五ドルってとこかな」
二人合わせても三百七十五ドルしかない。もうこの時間で銀行は閉まってるし、このままじゃチェックアウトもできない。エアポートまでタクシーでチップも入れれば二百ドルはみなきゃならい。
どうにもならない。フロントの人にジェフ・イェンに電話してもらえるよう頼んだ。つながってくれよと祈るような思いだった。
ジェフ・イェンが直ぐに瀋陽の支店長に電話を入れて、夕方には金を持ってきてくれた。
「早朝のタクシーも予約しておいたから、エアポートについたら、これを渡せと兌換券をくれた。エアポートに着いてから渡すんで、その前に渡しちゃ、絶対ダメですよ。この金は着くまで見せないこと、いいですね」
前に渡しちゃいけないと何度も繰り返されて、もらった兌換券をズボンのポケットの奥に押し込んだ。
まったく言葉の通じないタクシーから見る景色がどこか懐かしい。日本の田舎にもこんなところあるんじゃないかという風景だった。来た時は真っ暗闇でヘッドライトで照らされたところしか見えなかったせいもあってだろうが、ポールのいう「地獄」から抜け出て目にするシャバ。朝日に照らされた風景に生き返った気がした。
瀋陽のエアポートには、来た時に迎えにきてくれたAC Chinaの営業マンが待っていた。もう直ぐ北京だとチェックインカウンターに行って、ふざけるなとどなりたくなった。
東京の旅行代理店からもらったフライトチケットとパスポートを出したら、
「予約がない」
なんで、そりゃないだろう。フライトチケットを見せて、
「ちゃんと予約しているじゃないか」
「フライトの四日前までにコンファメーションしないと、自動的にキャンセルされることになってます」
冗談もほどほどにしてほしい。電話しろったって、あんな地獄のようなホテルからどうやって電話するん?中国語なんかわからないし、いい加減にしろ。
隣でチェックインをすませたポールが、どうしたって寄って来た。
「おい、ふざけんな。オレの同僚はちゃんとチェックインできてるじゃないか。こいつだって、オレと同じでコンファメーションなんかしちゃいない。なんで、こいつはよくて、オレはだめなんだ」
「コンピュータが処理していることで、分からないですけど、アメリカの発券と日本の発券の違いじゃないですかね」
「ふざけるな。アメリカはよくて日本はだめって、どういうことだ」
言い合っているところにAC Chinaの営業マンが入ってきて、手もみでもしそうなにやけ顔で、
「No problem。 大丈夫です。なにも心配することないです。ここの偉いさんはよく知ってますから。問題ないです。あっちのソファーでゆっくりしてください。ここまで、随分疲れたでしょう」
その薄ら笑い、特にこういう時には、よしてくんないかな。余計イライラするから。
「何がNo problemだ。Problemだらけじゃなないか」
「ポールだけ、先に行かせて、オレに次の便の予約をとってくれ」
「大丈夫です。ちょっとソファーでゆっくりしててください」
ポールと二人で窓際にならんでいるソファーに座っていた。腹が立つ。イライラしてしょうがない。そうだ、と思って土産やならんやら置いてある店に入ってタバコとライターを買ってきた。もう止めて随分になるが、こんなときは気を静めるために一本と思って一服してたら、あか抜けない制服のオバちゃんが何か言いながら寄って来た。何を言っているのか分からないが、小さなガリ版刷りのような紙をつき出して、ここは禁煙だから罰金五元払えということだった。いいでしょいいでしょ、五元払いますよ。本渓、ふんだりけったりでろくなところじゃない。こんなところの注文、来やしないだろうけど、もし来たらつっかえしてやろうかと思った。
三十分も経ったろうか、AC Chinaの営業マンがニコニコしながら帰ってきた。
「ちゃんと席とれましたよ」
といいながら、チェックインカウンターに歩き出した。
そんなことあるんかと半信半疑でついて行ったら、なんということもなくチェックインできた。なんだこれ?人と人とのつながりといえば聞こえがいいが、多分握らせたのだろう。握り握られせで成り立っている社会、つきあっちゃいらない。
搭乗券に何かメモが書いてあった。漢字はあるが、座席の数字がない。機内に入って搭乗券を見せたら、スチュワーデスが席まで案内してくれた。たまげたことにそこはスチュワーデスの席だった。これじゃまるで、エアラインの従業員じゃないか。周りの目が気になるが、降ろしてくれともいえない。
出てきた機内食は予想通りフタを開けるものめんどくさい代物だった。それでも、なんなんだろうと気にはなる。フォークでつついて、毒見でもするかのようにちょっとなめて、うんやっぱり、えっ、こりゃひどいとフタをした。後何分でもない、もうすぐ北京だ。ホリディインだから、まかり間違ってもローズガーデンのようなことはない。
ポールと二人、ホリディインに入ってほっとした。いつもの社会に戻って来た。右手のキャフェテリアを見て、二人して言った。
「チェックインなんか後でいい。メシだ」
もう二時を回っていたが、まだ昼のバフェの時間だった。
スーツケースを預けて、二人で食って飲んで、食って飲んで、欠食児童のようだった。
もう腹もいっぱい、ゆっくりコーヒーを飲んでいたら、ウェイターがニコニコしながら歩いてきた。
「そろそろ時間なので、チェックを」
そう言われても二人とも金がない。
「ああ、もうそんな時間か。ルームチャージにするから、チェックインしてくる。ちょっと待っててくれ」
腹もいっぱい。夕飯までには時間がある。
「おい、シャワーでも浴びて、ちょっと表にでてみないか」
二人して歩いていっても何もない。すぐに引き返すのもしゃくにさわる。もうちょっともうちょっとと歩いていったが、どこもここも工事中で埃っぽい。そこにリヤカーに大きな薄青っ白いウリを積んで売っているのを見つけた。これ以上歩いてもなにもなさそうだしと思っていたところで見つけたウリ。こんなもんでもかじって、ホテルに帰るかと一つ買った。オヤジさんが、どこかで拾ってきたんじゃないかいう大きな包丁?でざっくり切ってくれた。
一口喰って、ああこれからだなと、また一口。
水っぽいだけで甘みという甘みがない。品種改良が進んでいないのだろう、中国四千年の淡い甘みを噛みしめた。ホリディインのアイスクリームの方がいい。
甘いものは暴力的に甘い、甘いだけで味もへったくれもない甘さで育ったポールには分かりっこないよなってみたら、そんなものが新鮮なのか気にいったようだった。
四等分に切ってくれた二切れ目をオヤジさんにもらっていた。
2020/11/1
〈記事出典コード〉サイトちきゅう座 https://chikyuza.net/
〔opinion10286:201115〕