赴任して半年もすれば、日常的に遭遇することには遭遇してしまって、あとは似たようなことの繰り返しか、そこからちょっと出たところのことが多くなる。要は生活に慣れたということなのだが、それでも英語はおぼつかない。限られた語彙と拙い言い回し、意思は伝えられるというだけで、アメリカ人の日常生活にはついて行けない。
その程度ではテレビをつけても、野球やフットボールのように見れば分かることが分かるまでで、アナウンサーが早口でまくし立てていることは、知っている固有名詞以外はほとんど聞き取れない。映画もドラマも同じで、コメディによくある人工的な笑の場面など、何がおかしいのか想像もつかない。
それでも一年も経てば、日常生活には支障のないレベルになる。問題はその先で、支障のないでいいと思うか、もうちょっと勉強しなきゃと努力するかで、二年目以降に大きな違いがでてくる。それは使える語彙や言い方を増やす実用に即した努力をするかどうかにかかっている。
英語は勉強し続けたが、毎週のように出張ということもあって、テレビもラジオも買わなかった。出張先のモーテルで一人。やることもないから、テレビをつけてになるのだが、見たいという番組に出会うことはまずない。最近日本でもそうなってきたが、チャンネルは多いがコマーシャルはうんざりするほど多くて長い。長いコマーシャルがイヤでチャンネルを回すと、元いたチャンネルに戻れなくなってチャンネルを回し続けることになる。
チャンネルを回して映っていたものを見ていただけだから、何を見たという記憶に残るものなどほとんどない。いくつもないだけに残ったものは印象が強かったのだろう。細かなことは忘れてしまっても、全体像ははっきり記憶に残っている。
ロングアイランド・リムジンという空港行きのバスを運行している会社があった。何時も混んでいて、この値段ならぼろ儲けじゃないかと思っていたら、ある日、社長がテレビ局の討論に招待されていた。事業が成長軌道に乗って、優良企業ですよと軽い世辞ともつかないことから始まって、一言で言えばもうけ過ぎ、利用者への利益還元の意味も含めて値段を下げるときじゃないかとアンカーマン。それを聞いて、社長からは用意してきた答えで応戦するのだが、答えになっていない。アンカーマンにしてみれば、返ってくる答えは想定内のことで、問答練習でもしてきたのではないかという感じで社長を詰めてゆく。最後はお互い社交辞令で終わったが、数ケ月もしないうちに運賃が半分とまで行かないが大きく下がった。
公の立場の人に説明責任を喚起するジャーナリズム。それはジャーナリストだけでつくれるものではない。ましてや行政がどうのということでもない。アメリカの常識というのかアメリカ人の民意が根底にある。それに気が付いたとき、羨ましいと思うより恥ずかしかった。
駐在を終えてかなり経ってから、アメリカに出張で戻ったときにテレビで見て、おうおうやってるじゃないか、これがアメリカだとうれしくなった。
大手航空会社の社長が呼び出されて、なんで三月前に予約すればこの値段で、ひと月前はこの値段。それが一週間前だとこの値段。。。値段にあまりに大きな違いがあって、どれが本当にあるべき値段なのか、利用者にはなんとも分かり難い。本当はもっと安くできるのではないか?テレビ局は詳細なデータを集めて準備をしてきていた。
航空会社の社長、自社のことを何から何まで知っている訳でもなし、的を射た質問に抗弁する準備ができていない。先に答えたことと次に答えたことの間に矛盾があるのに気が付いて、歯切れが悪くなる。何度も答えにつまって、しどろもどろになる。そんなインタビューを受ければ、社長としての能力に疑問を呈されかねない。それでも呼ばれれば、あるいは呼ばれなくても公の場に説明しに出てゆかなければならない。
行政にしろ民間企業にしろ、なんらかのかたちで公的な立場になったら、巷の人たちから寄せられる問い合わせや疑問に真摯に答えなければならない。説明して納得して頂かなければならない。都合が悪いからとノーコメントや雲隠れすれば、それでその人の社会的な生命が終わる。ジャーナリストとしては、公の立場にいる人たちに、どれだけ突っ込んだ質問を投げかけられるか、どこまで詰問できるかが、その存在価値の全てではないにしてもかなり重要な部分になる。
ある日テレビを見たら、アンカーマンらしき人がキシンジャーに朴正熙に対する評価について詰問していた。雑誌かなにかのインタビューで、キッシンジャーが朴を現代韓国に現れた偉大な指導者だと持ち上げたのはどういうことだ?軍事独裁者で多くの民主化運動家を投獄し、殺害にした朴を偉大な指導者として高く評価できるのか?
丁寧な口調で調べてきた事実を上げて、軍事独裁と腐敗や弾圧に対するキッシンジャーの政治的な、個人的な立場を確認してゆく。そこまで丁寧に積み上げるまでもなく、人道に対する罪に問えば、間違いなく死刑か無期懲役は免れないから、論点は誰にでも分かる。それを防衛政策の一環だからということで正当だとするキシンジャーとアメリカがアメリカたらんとする良識から人道に対する罪で押し込めたいアンカーマンの論戦だった。
キッシンジャーの話のどれもこれもが、人をはぐらかすか論点をすりかえる詭弁にしか聞こえない。なにをどういったところで、朴を偉大な指導者に祭り上げるには無理がある。辻褄が合わなくなって言い逃れになってゆく。アンカーマンが微笑みながら、そっちに逃げたかという感じで、さっきの話と矛盾するのではないかとキッシンジャーを追い込んでゆく。どっちに逃げをうっても、逃がさない準備をしてきたアンカーマンがはいずり回るキッシンジャーを微笑すらうかべながら、なぶりものにしてゆく。
関係筋への取材というと聞こえがいいが、用意してもらった資料を適当にまとめてがジャーナリズムじゃないだろう。『鎖につながれたアヒル』とまでは期待しないが、せめてキシンジャーぐらい追いつめられなければ、ジャーナリズムというよりジャーナリズムもどきで終わる。
馴れ合いなら、もどきでも手に負えるが、もどきに事実は重すぎる。ただの利権屋の政治家もどきにジャーナリズムもどき。もどきしかないところにいると、もどきが本物に見えてくるから怖い。もどきしか知らないと、もどきが当たり前になってしまうからおそろしい。どこにも完璧なものはないが、アメリカのジャーナリズムをみて、日本のそれがもどきじゃないかと思いだした。
果汁が一滴も入っていないものをジュースだと思わされていたことを思い出す。
Private homepage “My commonsense” (http://mycommonsense.ninja-web.net/)にアップした拙稿に加筆、編集
〈記事出典コード〉サイトちきゅう座 http://www.chikyuza.net/
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