今日は午後遅すぎない時間に代理店に入ればいい。いつものようにバタバタすることもないというだけで、朝だけにしても、気持ちに余裕がある。ホテルのカフェでしっかり朝飯をとって、トリノに向かった。バルセロナからトリノ、乗ってしまえばいくらもかからない。
エアポートからのタクシーが心配だったが、もらったメールを運転手に見せたら、どこをどう走ったのか分からないが、もうすぐそこなのだろう、四五階建ての小さなビルが立ち並ぶ石畳の道に入っていった。石畳は見た目はいいが、歩きにくいし車はゴトゴトゴトゴトうるさい。絵や写真を通して見ただけなのに、窓から見る街並みがどこか懐かしい。月島の焼け残った長屋を歩いても、これといって何も感じなかったのに、この懐かしさはいったいなんなんだ。そこまで洋化されてしまったわけでもないだろう。それにしても、なにかおかしい。
時の流れを感じさせる小ざっぱりしたビルの前で止まった。運転手に手伝ってもらって重いスーツケースを降ろしていたら、いつもの陽気な声がした。マルコだ。何を言ってるのか聞き取れない。後ろにはニコニコしたパウロもいた。ずっと張りつめていた緊張が溶けてなくなった。
二週間かけて八か国をまわって代理店に値上げ通告をしていた。すっといったのはオランダだけで、どこでも言い合いになった。誰も値上げなんかしたくもないし、聞きたくもない。ストレッチャーで締め付けられているような毎日だった。それが、石畳にはいったときにはもうズルズルになっていた。もたれていた胃がスッと軽くなったような感じがした。これから仕切り価格を二十パーセント上げる話なのに、日差しの暖かさのおかげだけとは思えない。
想像はしていたが、従業員たぶん五六名の小さな会社だった。狭いスペースを上手につかう文化なのだろう、手狭な事務所なのに余裕を感じる。壁に掛けられた、いかにもイタリアという絵も、日本でも似たようなものを見てきたはずなのに、どこか違う。机もその配置も、マルコがよく口にする「人生を愉しむ」が根底にあるのだろう、それだけで何か幸せな気がしてくる。最後をトリノしてよかった。
四五人までの小さな会議室にしても、工事現場のプレハブを思わせる日本とは違う。アメリカのように片隅でということもなければ、機能性が勝った硬い北ヨーロッパとも違う。壁も床も机も椅子もなにも特別なものではない。それなのに人を穏やかにする何かがある。
若い女性がコーヒーをもって入ってきた。小柄でかわいらしい。見上げるようなドイツから北では見られない親しみがある。セクレタリかと思ったら、営業担当だった。
そろったところで本題に入ろうとしたが、仕切り価格の話で切り出しにくい。勘のいいマルコのことだから、最初から想像はついているだろうし、先にまわった代理店から話が来ていないはずはないのに、いつものとぼけた口調で言われた。
「こんななにもないところに、何しにきたんだ。まさかオレたちの尻を叩きにってことじゃないよな。野口(前任者)には散々叩かれて、真っ赤だったぜ」
「いやー、こんなところはないだろう。北の方とはどうも合わないから、できればもっとこっちに来たいんだけど、なにかいい口実ないか。セミエレ(半導体のセミに電子のエレを合わせてセミエレと呼んでいた)なんかいくらやったって面白くないし、いっそのことミラノ・ファッションあたりに仕事ないかな」
なにを言ってんだという顔に、ちょっとボケ過ぎたかと思っていたら、
「オレもそう思ってんだけど、画像処理専用のLED照明に、そんな気の利いた話はありっこないじゃないか」
いつもマルコの後ろにいて、口数の少ないパウロが掛け合い漫才のように入ってきた。
「なぁ、フジサワさん、来てくれるのは嬉しいけど、いったい何しに来たんだ。こんなところまで」
もう半分茶化してる。間違いなく知っている。ただ、自分たちから言い出すのも変だろうし、もう分かってんだから、早く片付けちまおうぜっていっている。それでも切り出しにくい。
「そうだな、要件は二つだ。ブラッセルにヨーロッパ支社をつくることにした。来年になるから、まだ半年以上先の話だけどな。そこに販売在庫を置いて、アプリケーションの検証もできるラボもつくる。悪い話じゃないだろう」
マルコの目が、そんなことはどうでもいい、早く要件を言えとせかしてくる。
「そこでだ。これはやりたくないけど、支店を開くとなると、そのコストをひねり出さなきゃならない。でだ、仕切り価格を二十パーセント上げざるをえない。ビジネスやりにくくなるだろうけど、すぐそこに販売在庫と技術サポートだからマイナスだけじゃないだろう」
まったく、マルコのやつ、やっと言わせたとニタリ顔してるし、パウロは薄ら笑いを浮かべてる。
「なんだ、そんなことを言いにここまで来たのか。アメリカの方は任せっきりにしておいて大丈夫なのか」
作り物なのか本物なのかわからないが、誰にでも好かれるスタイルを武器にあちこちに顔を売っていて、情報が早い。展示会だセミナーだと日本にも来れば、アメリカにも中国にも顔をだしている。画像処理業界の諜報部もどきの二人だった。
「たったの二十パーセントでいいんか、ダークに任せるってウワサは聞いてるけど、そんな取り分であいつで本当にやってけるんか」
「ウワサ」のところに変なアクセントをつけて、みんな分かってるって、自分たちの情報の速さを自慢しているように聞こえた。競合のヨーロッパ支社の営業責任者、ダークを引き抜きにかかっていたが、細かな詰めが残っていて、まだ契約書にサインしたわけじゃない。それがもう抜けていた。
「心配するな。支社の社長は京都の御仁だけど、実質はオレがやる。ダークなら大きな間違いはないだろうから、まずアメリカのやり方で始めてと思ってる」
「フジサワさん、あんたがそう思ってんならそうすればいい。でもお節介ですまないけど、アイツはベルギー人だ。アメリカ人のように単純じゃないぞ。表もあれば裏もっていうより、裏も裏もその裏もってのがベルギーだ。ある意味ミュンヘン(ドイツの代理店)やCGX(アメリカの画像処理システム屋)より面倒なヤツらだ。目を離すなよ」
話は終わった。あとはイタリアの空気を愉しまなきゃって、冷めきらないコーヒーをすすっていたら、マルコが思いだしたかのようにパウロにむかって、
「ここまで来たんだ。せっかくだから、うちのラボ見てけよ。おい、パウロ」
話からでは、どっちが社長だから分からない。社長はパウロで、マルコはパートナーかなにか分からないが、実質はマルコが動かしている。
二人に連れられて、ちょっと豪華すぎないかというホテルで晩飯をごちそうになった。もう十二時もとっくに回って、マルコに訊いた。
「モーテルからエアポートまでタクシーでいくらぐらいかな」
来た時は三十いくらかだったが、迎車代にどのくらい取られるのか分からない。もう手持ちの現金が五十ユーロちょっとしかない。足りなかったら、ドルをユーロに変えてもらわなければならない。
「そんなもん、四十ユーロもあれば釣りがくる。いくら持ってんだ」
「よかった。五十ユーロあるから楽勝だな。七時十五分のフライトなんだけど、タクシーで一時間見とけばいいかな」
「その時間だったら三十分もかからない。そうだな六時にタクシー予約しとくから」
「明日も早いし、もうそろそろチェックインしたいんだけどな」
疲れ切ったところに腹はいっぱいだし、もう酔っぱらって、終わりにしなきゃ明日がきつい。
「チェックインはしてある。こっちじゃなくて、向こうのビラにしておいた。払いもすんでるから、朝寝坊しないでタクシーに乗れば、あっという間にボストンだ。十二月の展示会には二人でいくから、よろしく頼むぜ。横浜までいって、京都に行かないってのはないからな。メシ食ったら連れてけよ」
車でビラに連れていかれて、何を言っていたのか分かった。そこはまるでハリウッドの映画に出てきそうな豪邸だった。大きなホールの先の右と左にゆっくりとカーブを描いた広い階段があった。その真ん中には天上から化け物のようなシャンデリアが下がっていた。チェックインカウンタなんかどこにもない。執事のようなオヤジが部屋のカギをもって歩いている。その後ろを落ち着きようもないふうで付いていった。
ちょっとしたパーティ―ぐらいできそうな部屋に天蓋付きの大きなベッド。酔っぱらっていたからいいようなものの、とても素面じゃいられない。だらっぴろい金満バスルーム、使いにくい蛇口と重すぎるシャワーヘッドに閉口しながら、さっとシャワーを浴びてベッド隅に入った。
翌朝、五時過ぎに起きてスーツケースをまとめてビラの正門まで引きずっていった。石畳がデコボコしているし、距離も距離で、並外れて大きな車輪のスーツケースなのに手間取った。やっと正門まで来たら、外に車が停まっていた。運転手がでてきて、早く出てこいとでもいっているのだろうが、イタリア語なのか何語なのか分からない。
三メートルはあろうかという大きな重い鋳物でできているような門を開こうとしたが、ゴツイ鍵がかかっていて開かない。運転手も手伝ってくれたが、びくともしない。ビラに戻って、どこにいるのかも分からない執事を探している時間がない。
何度も何度も全体重をかけて勢いをつけて引っ張った。こうなったら意地でも開けてやる。息を止めて腹に力を入れて、渾身の力で反動をつけてガーンと引っ張ったら、バキっと大きな音がして鍵が壊れた。やった、これで帰れる。壊れた鍵なんか、苦情がきたらマルコがなんとでもするだろう。
間に合った。運転手がなにか言ってるが分からない。レシートを出せと手をだしたら、手書きのメモのようなものをだしてきた。荒れた手書きで40と書いてある。チップも含めて、持ち金全部五十ユーロ渡したが、まだなにか言ってる。なんの文句があるんだと、英語で聞いたが何をいっているのか分からない。かなりの剣幕なのだが、やっとわかった。手書きの4に見えたのは9だった。ギリシャ文字のφのような、見ようによっては4にも見えるし、9にも見える。セキュリティを通ってチェックインするまでの時間を考えると、ああだのこうだの言っている時間がない。アメリカの財布を引っ張りだして、最後の一枚の二十ドル札を出したが、ニューススタンドの方を指さしながら、まだなんか言ってる。
何かとおもえば、ATMにいって現金を下ろしてこいうということだった。クレジットカードはいろいろもっていたが、自分では銀行にもいったこともなかったし、ましてATMなんか使ったこともなかった。もう時間がない。文句があるなら、お前みたいな白タクを呼んだマルコに言えって日本語で言って、セキュリティに走り込んでいった。
Private homepage “My commonsense” (http://mycommonsense.ninja-web.net/)にアップした拙稿に加筆、編集
〈記事出典コード〉サイトちきゅう座 https://chikyuza.net/
〔opinion9732:200509〕