ちょっと薬味の効いた

著者: 藤澤豊 ふじさわゆたか : ビジネス傭兵
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「ゴロゴロしてないで、どっか行って……」

昼飯食って、どうでもいいテレビをみてのんびりしてたら、台所からお袋が言ってきた。

まったく朝からバタバタ騒がしくて、テレビもおちおち見てられない。忙しいからといういいわけが、いつもにもまして通ってしまうのだろう、昼飯たって、近所の蕎麦屋から出前でとったおかめうどんで終わりだった。台所でなにをというわけでもなしと、首をひねってみれば、踏み台に乗ってレンジを掃除していた。レンジの掃除なんての、こんなときでもなきゃしないってことなんだろうけど、なにも今日しなきゃってことでもないじゃないか、と思っても口にはだせない。

どっかいってこいって言われたって、これといっていくあてもない。だれか暇なヤツはと思っても、さすがに今から声をかけてもでてきやしないだろうし。一人でどこにたって、いくとこがない。

知らん顔してたら、

「ゴロゴロしてられると、邪魔でしょうがないから。どうせ何も手伝いやしないんだから、どっか行って。まあ八時ころには年越しそばにするから、適当にどっかで時間つぶして、適当に帰ってくればいいから……」

まあ、やることといえば、夕方和菓子屋がもってくるのし餅を四五センチ角に切ることぐらいしかない。お袋に言わせれば、猫の手以下の、図体がでかいだけの粗大ごみのようなものなのだろう。夕方まで時間をつぶせるところなんかあったものかと考えるでもなく思っていたら、
「そうだ、たしか銀映で『リオの男』やってるから、見てきたら。あれ面白いって話だから……」

そういいながらタオルで手を拭いて、使い古した財布から映画代だといって千円くれた。

まあ、確かにお袋にしてみれば、大掃除で家中ばたばたしているところに、なにをするでもなくゴロゴロされてたんじゃ、邪魔でしょうがない。

年が明ければすぐ高校受験だったが、うまくいけば高専に、滑り止めの都立高校なんか落ちっこないと、受験勉強なんてする気もなかった。それでも受験というぼんやりとしたプレッシャーがないわけじゃない。ただ、そんなプレッシャーにおたおたするのは嫌だしみっともないと、ことさら受験勉強なんかするもんかと意地になっていた。

夏休みにはいってからは、毎週のように親父の患者さんがやってた田無ホールにいっては、打ち止めだった台を開けてもらっていた。パチンコで勝てれば受験もうまくいくはず、と言い訳にもならないゲンを担いでいた。中学三年が一人でパチンコ、普通なら補導される可能性もあるが、そこは知り合いのパチンコ屋、間違ってもそんなことにはなりゃしない。ちょっと出ればコーラに代えて、チューリップを開こうと打ち方を工夫していた。パイ缶やチョコレート狙いだった。

昭和四十一(一九六六)年の大晦日、千円握って銀映にいった。田無は人口六万程度の小さな町だったが、青梅街道の宿場町として往時はあの辺りの中心地だった。今になって思えば、なんであんなシケた町に映画館が三軒もあったのか不思議でならない。邦画の東映、洋画の銀映、成人映画専門の文化が二軒三軒どなりのように軒を並べていた。

午後三時は回っていたと思う。なんどかは入ったことがあるが、いついっても結構混んでいた。重いドアを開けたとたん、むっとしたタバコの匂いに、なんでこんな大声でというオヤジ連中の馬鹿笑いに圧倒された。投影機からの光がタバコの煙を紫や灰に銀の混じった帯にしていた。そこにオヤジ連中の笑いが打ち寄せる波のように大きくなったり小さくなったり。画面が明るくなって、空いてる席をと見てみれば、あっちにもこっちにもオヤジ、オヤジだけしかいなかった。

みんなが大笑いしている。なんだこの映画はと思ってみていたが、それはどうでもいいアメリカのドタバタ喜劇――ボブ・ホープの「腰抜け二挺拳銃」だった。「リオの男」にもう一本で二本立てにするために倉庫の奥から引っ張り出してきたのだろう。

そんなカビの生えたような映画のちょっとしたことにもオヤジ連中が大笑していた。まるで笑い上戸の笑いに誘われでもするかのように、誰も彼もが腹を抱えての大笑い。今になって思えば、オヤジ連中、真昼間から酒でも入っていたのかもしれない。

いよいよ「リオの男」になった。ジャン・ポール・ベルモンドがひしゃげた笑い顔を真顔にしてみたりでアクション映画のように進んでいった。ボブ・ホープのときよりオヤジ連中の笑い声が大きい。何かあるたびに大笑いが館内にこだましていた。いったいこのオヤジ連中、ちょっと頭がおかしいんじゃないかと思うほどの大笑い。みんな大晦日で忙しいときに邪魔だと、かみさんに追い出されて一人で映画なんだろう。パチンコという選択肢もあるが、千円ではすまないことのほうが多いだろうしってんで、一人で馬鹿笑いの映画。時は高度成長のまっただなか、普通の人たちが普通に普通の夢を持てる時代だった。

「リオの男」でオヤジ連中に乗せられるかのように大笑いして出てきた。受験生のくせして受験勉強もしないでと、ちょっとした後ろめたさもないわけじゃない。そんなもん、ふざけんなと意地になっている、あまりに小さな自分がいることに気がついた。中学三年の十五歳、学校も勉強も人並みに後ろにくっつてればいいじゃないか思う一方で、人生なにがあるわけでもないけど、それなりの夢はもたなきゃって、でも夢ってのはいったいなんなんだろうって、笑いすぎて横っ腹が痛い。横っ腹が痛いくらいの夢をと何を考えるわけでもなく思っていた。

何事にしてもまじめに考えれば、いいことばかりでもないだろうし、嫌でもぶつかる壁も見えてくる。どうしても苦虫つぶしたような顔になりかねない。映画の世界にようにはいかないにしても、なんとかして笑いながら、何があっても笑い飛ばしながら、一所懸命面倒何かに嵌って、そこから抜け出してはまた嵌っての人生にできないかと思ったことを覚えている。

喜劇は難しい。歯をくいしばった喜劇はない。喜劇は一所懸命やるにしても、それを表にはだせない。一所懸命さを出していい悲劇とは違う。ただ喜劇のままじゃ、よくて社会風刺までで終わってしまう。喜劇は喜劇でいいが、大笑いしたあと、どうしたものかと考えさせられて、最後にはここは一丁やってやろうか、喜劇はやっぱり人を鼓舞する喜劇じゃなきゃ、そうだパチンコがんばらなきゃ、と十五歳のおバカな受験生が考えていた。

還暦過ぎまで、傍で見てれば、なにやってんだろうあの馬鹿はといといわれる喜劇のようなことばかりしてきたが、率いた部隊や周りの人たちをまっすぐ元気にできないかと思ってきた。悲劇なんか冗談じゃないし、喜劇で終わっちゃうのもありきたりで面白くない。何をしても人を激励する、鼓舞する喜劇にできなかと思い続けてきた。

笑いすぎて横っ腹が痛かった「リオの男」、三十年も経って、レンタルビデオ屋で偶然みつけて借りてきた。昔の映画で解像度が低い。画面はざらついているし、録音もモノラルなのかぱっとしない。腹を抱えるまでには笑えなくてもと思っていたが、これ以上はないという退屈な映画だった。年をとったからなのか、時代なのかと思わないでないが、大晦日に受験を控えてむさくさしていのが、ただのドタバタ喜劇からでも元気をもらえる、そんな特殊な状態に置かれていただけだろう。

人になにかを伝えようとしても、受け取る人がそれをどう捕らえるかは、受け取る人次第だし、同じ人でも時と場合によっては受け取りようも違ってくる。どう受け取られようが、受け取った人が考えてくれる、そして元気になってもらえれば、と伝える工夫をしてみても、受け取る人の条件にまでは踏み込めない。できることは、なんにしても真摯に伝えようとするだけでしかない。

あとは相手と状況任せ。そう思えば、変に思い悩むこともなくって、いいたいことをそのままいえばいいだけじゃないかって。片意地はったところで疲れるだけでろくなことはない。ただ、あるがままなりじゃ寂しすぎる。ちょっと薬味を効かせればそれでいいじゃないかって。

刺激が強すぎて、受け付けない人もいるだろうが、それはそれでしょうがない。いちいち相手の都合に合わせちゃいられない。

Private homepage “My commonsense” (http://mycommonsense.ninja-web.net/)にアップした拙稿に加筆、編集

〈記事出典コード〉サイトちきゅう座http://www.chikyuza.net/
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