『明治維新という過ち』原田伊緒著を読んだ。浅学だからにしても、ここまで重い本は久しぶりだった。比べることでもないが、二十代半ばに『資本論』を読んだときに受けた衝撃に近いものがあった。『資本論』には距離があったが、『明治維新という過ち』は日常の常識を覆す直下型の巨大地震のようだった。明治維新から今に引き継がれている権力の都合でつくりあげられた歴史が書かれていたが、でっちあげた歴史というだけはすまない。明治の偉人が人殺しと破壊のゴロツキだったとなると、歴史という以上に今の日本人の常識の問題になる。
明治維新に至るまで、そしてその延長線に登場する人たちのどれもこれもが、言ってしまえば時の権力が自分たちの都合のいいように作り上げた虚像にみえてきた。今まで知っていた、社会常識にまでなっている知っていたことが正しいのか、それともそれを虚像と糾弾した原田伊織の主張が正しいのか、情けないことに、これが正しい判断だといいきるまでの知識がない。とるにたらない知識と呼ぶのも恥ずかしいほどの知識しかもち合わせていないし、原田伊織のように調べ尽くす能力もなければ体力もない。惰性でその日その日を送っている巷の一私人、それでも限られた知識からどちらがより事実に近いかと考えれば、日常生活や学校で学んできた日本の近代史が嘘で塗り固められた張り子のようなものとしか思えない。
かつて同僚のアメリカ人が皮肉交じりに言っていたことに似ている。いくつか並べ立てていたが、聞きながしていたこともあって、一つだけしか覚えていない。「ソ連では、なんでもソ連が一番で、教科書には初飛行に成功したのはライト兄弟ではなく、ロシアの名もない農夫だと書いてある」
『明治維新という過ち』に登場する偉人の誰も彼もが、中には立派な人もいたにしても、その大勢が作り上げた偶像どころか、私利私欲に突き動かされた強盗集団でしかないとなると、一体日本という国は、自分も含めて日本人とは、いったいどういう人たちなのかと自己嫌悪ではすまないところまで落ち込んでしまう。植民地にまで落とし込められたお隣の反日感情、あって当たり前、ない方がおかしい。
インチキ歴史を義務教育で教え込んで、それで自由だ、民主主義だなんて、どの面下げて言えるのか。言ってる本人たちも、インチキ教育で型にはめられてというのか、はまることでインチキ社会でうまくやってるだけの痴れ者じゃないのか。小学校でも中学校でも、そのインチキ歴史通りの答えを書かんがために嘘を本当と信じてか信じ込まされて……。
どう考えても、これほどばかげたことはない。そのばかげたことを生業として、曲がりなりにも誇りをもってとなると、とても素面の沙汰とは思えない。そのおかしな人たちが正常な人として社会規範を規定して、その規定に疑問符を発すること許さない教育をとなれば、それはもうれっきとした犯罪だろう。詐欺のお先棒を担いで、若い人たちを嘘を正しいとして評価する。まともな人間のするこっちゃない。
先生たちのなかには立派な人もいるのだろうが、詐欺のお先棒が大勢のなかで埋もれてしまう。「悪化は良貨を駆逐する」は鋳貨だけじゃない。そろそろ卒業シーズンだが、今になってみれば、「仰げば尊し」を一所懸命歌った自分が疎ましい。
嘘の歴史から生まれたテレビや映画や歴史小説といった娯楽(極端な例がテレビドラマの「水戸黄門」)、楽しんできた人たちも多いだろう。自分もその一人だった。それで禄を食んできた人もいるだろう。でも、もういい加減に嘘で作り上げた歴史を捨てて、真っ当な常識をと思わなけりゃ、自分たちだけでなく次の世代までが嘘を本当として……。これは日本人そのものあり方の問題で、お隣の反日感情がどうのとか、ネトウヨがどうのという話じゃすまない。
こんなことを思いだすと、嘘をそのまま信じている人たちとの世間話もしずらくなって、相槌一つもぎこちなくなる。もう人と会うのも面倒になって……。
Private homepage “My commonsense” (http://mycommonsense.ninja-web.net/)にアップした拙稿に加筆、編集
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〔opinion9466:200219〕