どうにかなる 冬であれば……。

 どこの福祉事務所でも、「有名人」は必ず居る。
 「有名人」とは、さまざまな「トラブル」を幾度となく起こし、ワーカーの「指導」「助言」に耳を傾けることを拒み、結果、「有名」になってしまう人々のことである。
 ワーカーの「指導」に従わない奴は「保護廃止」にしろと、世間一般の方々からは言われるかも知れないが、そうは簡単にいかないのが、福祉の現場。
 「問題行動」の背景も探らなければならず、病的なものも疑わなければならない。とにかく、見守りながら、何をされても、耐える。そして「会話」。

 明確な「犯罪」を犯し逮捕されたとしても「保護停止」。「起訴猶予」であれば戻って来る。「措置入院」は最近はそう簡単にはしてくれない。色々あったとしても、それらの人々と粘り強くつきあい、保護を継続し、何とか落ち着かせようとするのがワーカーや支援者のお仕事。
 「施設」サイドも追い出してしまうのは簡単であるが、その先は野宿しかないとなれば、易々と「退所命令」など出せないものである。その昔、逆恨みされて、「刺された」寮長もいたし。

 そんな多様な人々を受け入れているのが新宿福祉でもある。

 あまた居る「有名人」の中でも、ジャニーズばりの「超有名人」あったN君 が、入院先で亡くなったと先日、聞いた。

 まだ50代半ば。若い仲間である。

 知的障害で、社会への適応が出来ずに親元で暮していたが、その家族もとてつもなく大変だったのだろう、親と子、どちらも「限界」となり、30代の 彼は北海道から出て、東京に流れ着き、仕事も出来ないので新宿駅の路上暮らし。暮し方も判らないので、心配 になった仲間(当時は大勢居た)が毛布をかぶせたり、炊出しの場所を教えたり、いつも新宿駅の特定の場所に 必ず寝ており、通勤途上の福祉事務所職員の目にもつき、支援者も福祉事務所も「保護」のアプローチを何度もしたが、そこも行ったり来たりで定着せず、また、いつの間にか、新宿の路上暮らし。

 「連絡会医療班」の人々にはとても可愛がられ、風邪薬の「パブロン」をその都度、毎回ももらうので、いつしか「パブロン君」などと云う、不名誉な「あだな」も付けられたが、それが常態化し過ぎたのか、やがて「中毒」状態になってしまい、「パブロン」が彼の精神安定剤になってしまった。路上の人々にひょいひょいと薬を渡す私たちの安易な行為の是非が議論される出来事でもあった
 「そんな大した影響なし」との内科医の見解もあったが、そのうち「中毒性」はエスカレートし、目の前で何袋もまとめて飲む行為を見ていると、「本当に大丈夫か」と、心配が深まったものである。
 その後、私も設計段階から関わった高田馬場にある 「Sハイツ」に入居するようになり、また、とても理解 あるケースワーカーが担当についた事もあり、ようやく 路上から脱し、落ち着き、順調に進むかのように見えた。
 けれど、その生活はあまり変わらず、「パブロン」提供が制限されると、今度は救急車を呼べば病院に行け、 風邪薬がもらえることを覚え、風邪でもないのに薬が欲しいと、頻繁に、一日何度も救急車を呼ぶようにもなり、消防署から新宿福祉にお咎めが来る程、問題になってしまった。
 それから、もちろん救急隊は呼ばれても「乗車拒否」。そんなこんなのトラブルも頻発。しっかりと精神科に通院するようアプローチもかけたが、それもことごとく失敗。ちょいと目を離せば、雨の日でも台風の日でも、傘もささず新宿駅に「出勤」。そこで横になり、そして、いつしか帰って来る。
 高校野球が好きで、そんな番組があるときだけは部屋の中に居たが、個室の部屋の中と言えば、生ゴミなどもそのままにして、とても足の踏み場もないぐらい。なのでテレビもしょっちゅう壊れ、壊れる度に新しいものを取り換えていた。おまけに同じ施設内の人やら、近隣の 住民から「異臭」の苦情も多くあり、毎日、そんなもの に振り回され、「寮長さん」や「世話人さん」、そして 「ワーカーさん」は、毎日のよう頭を抱えていた。
 そして、どうにか「問題行動」は病気のせいと云うこ とで、とある精神病院へ行き、入院となった。

お別れはしなかった。「またね」と手を降った。

 その後のことは断片しか知らない。時に事務所に「部屋空いてますか?」との電話があったようで、そんな話がある度、「元気に居るんだろうな」と思うようにした。
 その電話も最近はかからなくなったのでもう執着しなくなったのかな、新しい生活が落ち着いたのかなと思っていた矢先の訃報である。

 「Sハイツ」に長年居る「世話人」の元には死んだ人の「霊」が、良く来るらしい。この「施設」も高齢者や病人が多く、長いことやっていると亡くなる仲間も多い。「成仏」しているのか、いないのか、何だか「風水」が関係しているなんて言う「説」もあり、もしかす ると死者の「通り道」なのも知れない。
 ただならぬ雰囲気を持つ「世話人」の所に、そんな人々が、寄って来ても不思議はない。
 なので、N君の「霊」が、もし訪ねて来たら、「生まれ変わって、今度こそ幸せになれよ」と、伝たえるよう頼んだ。

 90年代度の頃から、「発達障害」であるとか、「知的障害」であるとか、「統合失調」であるとか、精神疾患を持つことにより、社会に馴染めず、また誤解されもし、「寄せ場」なり、「路上」なりに自然と堕ちてきた、そんな境遇の仲間と山谷や上野、新宿などで多く出会い、そして、つきあって来た。
 その時々の「事件」やら「事故」やら「トラブル」は 数えきれぬくらい。支援なんてのは奇麗事ではなく、色々な問題に巻き込まれたりする。それらの出来事が走馬灯のよう、何かある度に思い出される。そして、そんな仲間はたいがい早死にしたり、不慮の事故に巻き込まれたりする。
 路上生活でさえ過酷であると云うのに、その上、人と のコミュニケーションがうまく取れず、虐げられてしまうと、そのストレスもまた過酷であり、そんな中、家族を恨み、地域を恨み、病院を恨み、役所を恨み、支援者を恨み、常に敵を作りながら、そうやって、それが目的のように生きていかざるを得なかった人々は、心身に深い傷を負う。そして、「爆発」する。その程度は私たちの想像をはるかに超えている。

 なのに、彼らは屈託なく笑う。N君も、何かしてあげたとき一瞬見せる嬉しそうな笑顔は格別であった。
 そんな誰からも愛される笑顔のまま逝ったのだろうか?それとも不安の中、無表情のまま逝ったのだろうか?

………
 国はこの夏、「ホームレス自立支援法」に基づき,「第5次基本方針」を策定した。
 かつて、私たちも「見直し」であると、5年ごとのこれに期待したものだが、そこは所詮は「お役人」。現状に沿って見直されたことはこれまで一度もなかった。
 国に上がってくる情報は無機質な数字だけで、それを元に見直せと言われば、今や「生成AI」でできるような 「前例踏襲」。変に期待した私たちの方が世間知らずで あったようである。
 そう云う訳で、今回の「方針」も内容はたいして変わらず、世間から注目されることもなかった。

 それを受け、年末までに東京都の「実施計画」、来年は新宿区の「推進計画」と、そんな順番になるのだが、 そこも役所のルーチンなので、きっと淡々と行われるこ とであろう。国が方針変えなければ、「上意下達」、今や「大都市問題」に逆戻りしつつあるホームレス問題が、依然、「国対策」の錦の旗を掲げたままなので(今や地方都市は旧来福祉の体制で対応出来る数となり、特別な対策は不要にもなったのに)、当該自治体の工夫がなかなかしづらくなってもいるようである。

 他方、東京都福祉局は「ひきこもり問題」で、『支援の目標を「自立支援」ではなく、当事者や家族の尊厳と自己肯定感の回復とする』と、「粋」なことを言い始めたが、これはこの問題の長期化による高齢化、そして 「8050問題」と呼ばれている世帯で孤立、困窮化するな ど多岐にわたる諸問題が複雑化したことの反映であろう(時間が経てば問題は固定化され、かつ複雑化する。それに見合った「対策」がなければ、その問題はますますこじれてしまう。そんな一例かも知れない)。
 まだまだこう云うお役人が東京都に残っているのであ れば、ホームレスの方も何とか出来ないかとも思うのであるが、それはそれ、これはこれで、部署も担当者も違 うので、無い物ねだり。

 ホームレスの支援の目標は、いつまでも「自立支援」 で、生活保護の目標は、永遠に「自立の助長」である。
 まあ、ホームレスの方は「ホームレス自立支援法」が時限立法であり、その期限もあまり残っていない「斜陽」対策なので、国や都の「ホームレス対策」「路上生 活者対策」はこのまま何となく終わるのであろう。

 今、ハローワークや、福祉事務所に行くと「就職氷河期世代活躍支援」なるポスターがあちこちに貼られている。就労問題のトレンドは、様々な 産業の人手不足を受け、若者の「不本意非正規」から「正規」へである。「就職氷河期」とは何とも良く判らない今どきの表現であるが、せっかく親が苦労をして大学を出させても、希望する職種に就職できず、「非正規」で働いている人々が、ある特定の世代には多いとのことである。
 基本方針の柱である「自立支援センター」も、東京では「路上生活を経験したことがない者」がほとんどを占め、ホームレス対策から生活困窮者対策の方にシフトしているのも、そんな傾向なのか。いずれにせよ、そう云う若者に「迎合」して、これから「個室化」するであるとか、女性を受け入れるなんてことも東京都は言い始めた。なので、そこには「長期、高齢化」 したおっちゃん達の居場所はない。
 軽作業労働を求める者は、わざわざ「玉姫職安」に行き、ダンボール手帳を取り、山谷対策であった「特別就労対策事業」(特出し)に行き、墓地の草むしりや、道路、公園の草むしり。そして戻って路上で寝る。日雇労 働、フリーター、雑業、フリーランスは「不本意」ではなく、自分の生業としてそれに従事している仲間も多い。それは給料が良い方が良いが、今更会社員になるなんて「柄」ではないので、安ければ安いなりの生活を組み立てる。炊き出しに通ったりするのもそうであり、都会の中で数多の教会などがやっている炊き出しやら、それに似通ったもの、人の善意を生活の足しにしているのは、生きる知恵である。
 そのような構造になっているのが、今残って、駅周辺に暮す仲間の実像であり、そのニーズに適応させるとなると、その当人が困った時は、かつての「法外援護」や 「生活保護」での対応となり、「自立支援」は、今や結構遠いところにある。
 「常雇」の仕事をして、アパートに暮してもらった方が良いのかも知れないが、家賃もまた高騰している東京で、それなりの年齢に行ったとしても、また若くても技量がなければ、それだけの仕事はなく、その場を凌ぐための仕事に従事するのも致し方ないし、何か夢や希望を持てよ、「学び直し」をしろと言われた所で、一度奈落 の底に堕ちた人々にそんな言葉は響かない。
 路上生活をしていたとしても、そこそこの生活レベルで仲間と共に暮して行くのも、それが出来るのであれば、それも、またひとつの選択肢。

 そんなに困っているのなら、しかるべき所で「相談をすれば良いじゃないか」「相談する場所を知らないのではないか」「教えてやればよいじゃないか」と言う人々は多いが、場所を知っていても、一人で抱え、一人で決めて来た、そう言う人生を送って来た人々は、そうそう他人に助けを呼ぶようなことはしない。よほどのことがない限り、そんなものである。「相談場所」はいつもの通り、そこにあれば良いのである。何人来たかの数字の問題ではなく、「安心」の問題である。身体が痛くなれ ば救急車を呼ぶのと同じよう、どこか、今の暮らしの 「観念」が生まれたら、周りが騒がなくとも自然と相談に行くものである。

 路上も、そこに居る「理由」が、何かしらあるし、生活をがらり変えるには、それなりの「覚悟」もいる。「効を急ぐ」と、まんまと「失敗」するし、こじらせることとなる。できる限り見守り、小さな変化を見落とさないようにする、忍耐すべき時はひたすら忍耐。じっくりと時間をかけ、関係を作り、場所を作り、そして、ゆっくりと考えてもらい、それから「よっこいしょ」である。

 生活を支えるとは、とても地味で、そして日常であ る。一人ひとりを支えるのは、そう簡単なものではな い。

………
 また新宿にも冬が来る。

 冬が嫌なのは、寒いからだけではなく、「死」を常に意識しなければならないからである。そして、だからこ そ何とかしたいと思うのであるが…。

 

 今年の冬の基本構成はあまり変わっていない。新宿駅周辺にて140名程。増えたの減ったのではなく、そこそこの規模の仲間があまり変わりもせず、ひっそり、あまり目立たぬよう暮らし続けている。

 が、新宿駅西口では小田急本店の建替え工事が本格的に始まり、これまで皆が寝ていた西口地下広場もその影響を受け、トイレが閉鎖されたり、工事フェンスのため場所が狭められたり、つい最近も、かの「有名」な交番裏の「丸の内線」につながる「階段」が閉鎖され、工事範囲がまたしても広がったりと、安心して仲間が過ごせる場所が狭まっている。東口の方は東急歌舞伎町タワーの開業を契機に「環境浄化」がたびたび行われ、これまで仲間が寝ていた場所に寝ることが出来なくなり、「新宿バスタ」の一部ベンチもなくなり、新宿御苑の入り口も夜間はフェンスが貼られる、戸山公園のスポーツセンター周りでもこれまたフェンスが貼られる。工事などを名目に東京都建設局の公園担当、道路担当の面々は「はよう出ていきなさい」と、にわか知識で空約束の「福祉」をちらつかせ、体の良い圧力をかけている。
 しかし、それもあまり本腰を入れたものでないので、当事者達は「ここは広いからね。他でも寝れるし」と、いたって冷静。それでも、新人さんたちはなかなか入り込む余地もなくなり、そんなこんなで今年の冬は、まあ毎年のことではあるものの、寝場所をめぐる苦労が堪えないかも知れない。
 世間や社会の流れに反し、新宿の仲間は、「自由に」(「対策化」の外で、また管理もされずに)生きている。それがたとえ強いられた生き方であったとしても、 それを逆手に取り、自らの生き方に変えている。

 もちろん、困難はある。天候もそうだし、都市の構造変化もそうである。それによって生き方の「微調整」をしなければならないこともあるが、それはそれ、「怪我」であるとか、「病気」であるとか、「居場所の喪 失」とか、よほどのことがない限り、そこから何かを大 きく求めることもなくなった。それでも「小さな声」があるかも知れないので、それを聞き逃さないことが大事 であるが。

 「新型コロナ」がなんとなく落ち着いたと思ったら、 今度は「インフルエンサ」の大流行と、公衆衛生や健康管理の問題も、まだまだ続きそうである。こう云うのを防衛していくのは、路上だと、とても大変である。心配するだけになってしまう。これらの問題を支援の立場で色々やったつもりであるが、そうそううまくは行かないし、それで亡くなった仲間も多い。

 まあ、それでも今年の冬は「暖冬」であるらしい。それは、それでとても助かるので、「楽」にはなるかも知れないが、突然気候が変わってしまうのも今年の傾向。急に冬になると。それにしっかり身体がついて来れるのか。高齢だとか、循環器系の持病持ちなどには、自己管 理をしていても、とても厳しいかも知れない。
 「暖冬」なら「暖冬」で穏やかであるよう、こちらも祈るしかない。

 連綿と続く下層の歴史の中の、たった30年ばかりであるが、新宿の街の特異な時代と実相を見続け、そこの仲間と共に生きて来た。
 N君とのつきあいもそうであったが、今まで、色々な 事があり、様々な多様な人々がこの地で歩んで来た。多くの仲間の足跡がここには、有る。
 なので、そんな思い出を大事にしながら、これからも共に生きていくことにしよう。

 何よりも「連絡会」が続けて来られたこと、仲間からそっぽを向かれず、仲間と共にこの地に居続けられたこと、心にとめて下さる支援の方が今も全国に居て、心配し続けてくれること、とても感謝である。

 どうにかなる冬であれば良い。

(了)