なぜセルビア大統領は中国のコロナワクチンを打ったのか――新黄禍論に無縁なヨーロッパ人――

 我国でもコロナワクチンの大規模接種は、自衛隊を動員するほどの重大問題である。とは言っても、人々の接種に対する歓迎と拒絶が政権党支持と反対党支持に連動する傾向をくっきりと示すような質の政治問題ではない。
 米国では、民主党支持者がワクチン接種に積極的であり、共和党支持者が消極的であると言う。
 バルカンの武装中立国セルビアでは、親北米西欧のリベラル達がむしろワクチン接種に消極的であり、親露容中のナショナリストたちがワクチン接種に積極的であるように見える。
 セルビアのワクチン接種は、2020年12月下旬にアメリカからファイザー・ワクチンを少量供給されて開始され、2021年1月初にロシアからスプートニクⅤを中量提供され軌道に乗り、1月中旬に中国からシノファルム・ワクチンを大量輸入して本格化した。
 それ以来、新聞や週刊誌にコロナワクチンにかかわる社会問題・政治問題がひんぱんに報道され、世論調査も行われている。私の関心を惹いた記事をいくつか要点紹介する。

 リベラル派の週刊誌『ヴレーメ』(2021年1月28日)の論説「レフェレンダム」(国民投票)としてのワクチン接種」(pp.10-15)から興味深い個所を提示しよう。
 「コロナワクチン接種の機会が来れば、受けますか?」「すぐ接種する」が32.4%、「未決定、様子を見る」が37.8%、「接種しない」が27.1%である。
 「ワクチンを選択できる場合、どのワクチンを接種したいですか?」「ロシアのスプートニクⅤだ」が、47.5%、「アメリカのファイザー・ワクチンだ」が8.5%、「中国のシノファルム・ワクチンだ」が3.7%、「どれでもかまわない」が23.2%、「どれも接種しない」が17.1%である。
 セルビア政治は、21世紀00年代はリベラル派が、そして10年代はナショナリスト派が政権運営をしている。ここ数年は、セルビア前進党のアレクサンダル・ヴゥチチが大統領として実権を振っている。
 現政権支持者の53.1%が「すぐ接種する」、31.4%が「未決定、様子を見る」、12.9%が「接種しない」である。政権打倒派の13.1%が「すぐ接種する」、42%が「未決定、様子を見る」、44.3%が「接種しない」である。
 この世論調査が行われた1月中旬から下旬にかけての時期、EU加盟中小諸国は、アメリカ製ファイザー・ワクチンの入手に大変な困難を感じていた。まして、EU未加盟のセルビアが十分な量のファイザー・ワクチンを入手できる当ては全くない。ロシアのスプートニクⅤの供給に頼っているだけでは、集団的免疫獲得を目指す国家的スケールの大規模接種に踏み切るには不安がある。そこで、中国からシノファルム・ワクチンの大量供給の保証を確定して、集団的免疫獲得戦略を1月中旬に発動した。私のような第三者の目には、国政担当者の選択として十分に納得できる。
 しかしながら、セルビア国内のリベラル諸派、すなわち親北米西欧の、反露嫌中のリベラリスト達から見れば、このような対コロナ政策は、歓迎しがたいと言う以上に許しがたい親露容中の反民主主義・反人権の方向、すなわち普遍的価値に反する方向であると感じられる。論説の標題「レフェレンダム(国民投票)としてのワクチン接種」にリベラル知識人の気分がよく出ている。用語の通常の使い方に従えば、「レフェレンダム(国民投票、全員投票)」は、国家社会の基本方向・基本選択を定める際の決定様式である。現政権は、ワクチンの大規模接種を「レフェレンダム」だと政治的に意味付けられるとは全く思っていなかったであろうが、リベラル知識人によってそう言う政治性が初発から刻印されてしまった。
 上記論説の筆者は、一ヶ月半後、『ヴレーメ』(2021年3月18日)に論説「世界チャムピオンのつまずき」(pp.8-10)を発表している。ここで「世界チャムピオン」は何を意味するかを説明しておこう。現政権のワクチン接種が順調に進んで、イスラエルやイギリスに次いで接種率が世界でも五指に入ると現政権が自己評価している様子を「世界チャムピオン」とからかって表現している。現実には難題が残っていると突く。フランスやドイツのようなヨーロッパ大国を含めて、多くの国々が二つの困難に苦しんでいる。第一に、ワクチンの確保だ。第二に、自国民にワクチン接種の必要性を納得させる事だ。セルビアの現政権は、ワクチン量確保競争にとらわれすぎた。この点ではいわゆる「東方のパートナー」のおかげで客観的に見ても成功した。だがしかし、この成功の故に「第二の困難がエスカレートしてしまった。」と筆者は論ずる。この含意は何か。「ワクチンはあるのに、接種を受ける者がいない。」 私=岩田なりに明示的に解説すると、3.7%の希望者しかいない中国製シノファルム・ワクチンを大量に調達した事への非難であろう。
 筆者は言う。ヴゥチチ大統領は、最近訪問先のバーレーンで「木曜日か金曜日にメロシナ(セルビア南部の村:岩田 注)かジャグビツァ(セルビア東部の小村:岩田 注)」に行って、そこで中国のワクチンを接種する。」と声明した。この発言によってヴゥチチは、現政権のワクチン接種政策が予定通りに進んでいない事を間接的に認めた。だから、大統領自身がシノファルム・ワクチンを接種する事で、ワクチン接種の「つまずき」を止め、更なる推進を測っている。このようにリベラル知識人は説く。

 セルビアで最も長い歴史を誇る日刊紙『ポリティカ』(2021年3月14日)に「中国ワクチンを射ったセルビア国民、EUを旅行できるだろう」なる見出しの記事が第一面と第四面に載っている。要約紹介しよう。
 バーレーン王国を訪問していた大統領ヴゥチチは、3月13日に、EUの所謂コロナワクチン旅券に関して見解を示した。コロナ禍の移動制限下にあってEU内自由旅行を保証するコロナワクチン旅券(証明書)は、EU薬事局EMAがその有効性を確認したワクチンに限定して効力を有する。すなわち、ファイザー、ビオンテク、モデルナ、アストラゼネカ、ジョンソン・ジョンソンであって、当然、中国のシノファルムは対象外である。シノファルムを接種した多くのセルビア常民は心配だし、セルビア国内の接種の先行きにかげりが出る。
 ヴゥチチ大統領は断言した。「EUでそんな決定がなされるとは信じられない。本当だとしたら、余りに尊大だ。旅券の効力は3月17日に発生する。私は、8日か9日後に中国製ワクチンを射つと決めていたが、予定を早めてその日に接種することにする。EUに問いたい、中国製ワクチンを打ったハンガリー首相をどのように受け入れるのだろうかと。私は中国のワクチンを打つ。そうすると、私はブリュッセルに入れないことになる。そして、プリシティナとの会談が出来ないことになる。」 EUの重要外交課題、コソヴォ(首都プリシティナ)独立をセルビア(首都ベオグラード)に認めさせるお膳立てのブリュッセル会議が流れてしまう。それ故、記事見出しのように「EUを旅行できるだろう。」弱者の脅迫である。
 実際には、大統領ヴゥチチは、セルビア東部の小村ルドナグラバで4月6日に中国のシノファルム・ワクチンの第一回接種を受けた。『ポリティカ』(2021年4月7日)第一面に接種を受ける彼の写真が大きく載っている。

 最後に親露容中ナショナリスト系週刊誌『ペチャト』(2021年3月26日)に「私達は“シノファルム”のモルモットか」(pp.26-27)なる論説が出ている。要約紹介しよう。
 現在、ワクチン接種は、生命の問題と言うよりも政治的メッセージを発する場になっている。政権トップ内のワクチン接種色分けもまたそんな効果を持ったかも知れない。女性首相アナ・ブルナビチがファイザーを、内相アレクサンダル・ブーリンと国会議長イヴィツァ・ダチチがスプートニクⅤを、健康相ズラティボル・ロンチャルがシノファルムを打った。岩田には分らないが、セルビア社会ではこのような接種配置は、政権内のアメリカ寄り、ロシア寄り、そして中国寄りを反映していると見えるらしい。この段階では、大統領ヴゥチチのシノファルム接種は既定ではあったが未実現だった。
 反対諸党のリーダー的存在、自由正義党議長ドラガン・ジラスは、予想に反して、スプートニクⅤを接種した。
 しかし、ジラスのコントロール下にある反対派メディアの一部は、何ヶ月もシノファルム・ワクチンのあら探しをしている。体制メディアは、ロシアと中国のワクチンが果たした大きな貢献を強調する。
 新興野党人民党議長ヴーク・イェレミチは、セルビアがシノファルム・ワクチン治験第三段階のモルモットにされているのではないかと疑問を呈している。
 事実は以下の如し。中国は、2020年末に第三段階治験を殆ど完了。首長国、バーレーン、ブラジル、ペルー、ヨルダン等16ヶ国と協力。中国のどんな文献に当たってもセルビアは治験国に入っていない。治験結果は各国で異なり、79.3%から86%までである。
 中国国内で2020年11月20日までに100万人が接種。12月31日までに450万人。その後2週間で1000万人に。2021年1月27日に2276万7000人。3月20日に7500万人。
 ところで、セルビアにおける大量ワクチン接種が開始されたのは、1月19日である。それまでに中国ではすでに1500万人がシノファルム・ワクチンを打っていた。3月末に7500万人の自国接種者を軽視して、中国がセルビア人100万人のシノファルム接種者を特別に重視する理由は考えがたい。但し、セルビアに百万回分がとどいてワクチン大規模接種が始まる直前に、ワクチンの公式承認がなされたのは事実だ。一部のメディアは、その事実を利用して、ワクチンの品質と手続きに疑惑を持たせようとしている。
 Torlak トルラク研究所=ウィルス・ワクチン・血清研究所がシノファルム・ワクチンの輸入と管理をしっかり行っている。

        令和3年5月29日(土)

〈記事出典コード〉サイトちきゅう座 https://chikyuza.net/
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