なにが意匠だ、漫画じゃあるまいし

著者: 藤澤豊 ふじさわゆたか : ビジネス傭兵
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油職工にはなりそこなったが、もとは生粋の機械屋。機械を作る機械、マザーマシンといわれる工作機械にあこがれて工作機械メーカに就職した。新機種の設計部署に配属されて、こんなのありかという凝った旋盤の設計の下働きをしていた。旋盤はこけしのような形状(円筒形)のものを加工することを目的としている。工作機械は、大ざっぱにいえば鉄を削って部品をつくる実用の生産設備で、どこかに飾っておく置物じゃあない。

切削油と切粉まみれのなかで、百分の一ミリ、千分の一ミリ単位の加工精度が求められる精密機械。なににもまして工作機械としての機能と性能が重視される。生産設備として使えば必ず痛む。時には事故のようなこともおきる。部品として交換しやすいところを故意に弱くしておいて、万が一のときには、そこが壊れるように設計する。モノ造りの見本のような機械工場では、設備の稼働率が問題になる。どんなに格好のいい設備で、最新技術を搭載したものであっても、使いにくかったり、しょっちゅう故障では話にならない。当然のこととして、メンテナンスの容易さが求められる。

一般大衆消費財でもなし、見栄では買ってくれない。製造設備業界の宿命とでもいうのか、既存の設備の稼動率があがって、このままでは製造が追いつかないというところまできて、はじめて追加設備の導入や更新がはじまる。景気の先行きに少しで不安でもあれば、真っ先に市場がしぼむ。そんなところに、なんでこんなにいるんだという数のメーカがしのぎを削っている。価格戦争に明け暮れて、定価の半値の八掛けが常態化している。

機能や性能を多少妥協してでも、市場価格に合わせられなければ、何をつくったところで売れやしない。なんとかコストダウンをと静的・動的強度計算を繰り返して強度試験をしてみても、工作機械屋としていい加減なものはだせない。一度客先に導入されれば、十年十五年、ときには半世紀もの酷使に耐えられなければならない。

設計は図面を引くという以上に、部品の加工のし易さ、組み立て作業のし易さ、万が一のときの修理のし易さを考えなければならない。当たり前の話で、自社あるいは協力会社の生産設備で加工できない部品を必要とする設計などありえない。たとえていうなら、ピアノ曲でもバイオリン曲でもかまわないが、人が演奏できない曲を作曲してどうするのか、とでも考えてみればいい。作りようのない、作るにはあまりにコストがかかりすぎて売り物ならないものなど設計してはならないし、そんな設計は設計ではなく、能書き以下の漫画に過ぎない。

ところが世間には、漫画に過ぎないといっては失礼になりかねないが、作りようのない、あまりにコストがかかりすぎるし、メンテナンスはどうしたものかという設計が氾濫している。氾濫している漫画もどきの設計が賞賛され、巷の技術屋の常識ではありえないことがおきている。

建築家といわれる人たち、個性や意匠を求めるあまり、どうやって作るのか、コストを考えたことがあるのか、メンテナンスなど気にしたことがあるのか思わざる得ないことがある。伝え聞くところでは六十四年の東京オリンピックの施設が、出来上がったときから雨漏りでどうしたものかというものがあったらしい。今回のオリンピックでは世界にその技術を誇る日本の建設会社が、どうやって作るのかと頭をひねった設計(?)がでてきて、予算の制限もあって、ああだのこうだと二転三転して業界として醜態をさらした。

置物ではない。必要とする機能も性能も満足して、なおかつ最低限のコストで実現するのが技術屋としてのありようで、それは建築業界だからかまいやしないということではない(はずだろう)。それが行政なのか、はたまた施主の見栄なのか、なんでこんなに凝った景観を求めるのかと真意を問わざるをえないものがある。建築家、自分の金で建てるわけじゃない。見栄をはって散財したいパトロンがいなければ、存在しえない人種で、その見栄を張った意匠云々を提供することで禄を食み、賞賛を我が物してきた。設計たって、耐震構造や構造計算は業界構造のなかで他人に振って(姉歯がいい例)、作るのは建設会社だし、メンテナンスなんて考えることもなく、ただ見てくれのいい漫画もどきの絵を描いて、なにが建築家だっていったら失礼になるのか。

出来上がったものの上っ面を見てというか、上っ面しか見えない審美眼があるという人たちやパトロン筋からマスコミまで総がかりで持ち上げて、しばし公共資金の無駄遣い以外に何がある。民間の見栄を張るものにしたところで、元をただせば市中のビジネスで儲けた金、出元をたどれば、行き着く先は巷の人々の財布からでてきたものでしかない。

ガウディなんてのは大馬鹿もので、あんな凝った景観にしなければ、機能も性能もはるかに優れたものがいくつも、とっくの昔に完成してみんなの生活の豊かにしているはずだろう。見てくれしか見えない人たちの見てくれを見ての評価で社会というものが成り立っていくとは思えないし、そうあっちゃいけない。そうは言うものの周りを見渡せば、見てくれだけで成り立っているとしか思えない社会で華美を競っている。

文化的な素養にかける技術屋くずれだから、そんな社会に違和感があるのかと思わないわけでもないが、あるべき姿は、機能美プラスアルファの装飾までで、機能なんか気にすることもなく、漫画じゃあるまいし、装飾のプラスアルファで評価はないだろう。

Private homepage “My commonsense” (http://mycommonsense.ninja-web.net/)にアップした拙稿に加筆、編集

〈記事出典コード〉サイトちきゅう座http://www.chikyuza.net/
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