のぶりんとマルクスとの対話シリーズ 第1弾

著者: 渡部信倫 わたべのぶりん : ソーシャル・エッセイスト
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「いやあ、マルクス君、墓穴から呼び出してしまってすまないねえ」

「どうしたのぶりん? ようやく資本主義の誤りに気づいたというのかね」

「誤りってさ……まあ、なんでもいいや。資本主義ってなんだろうね。いろいろ考えたんだけど、よくわかんないのよ。一つにはマックス・ヴェーバーが説明を与えて、もう一つはマルクス君が説明を与えたような気がするんだけどね。ただ僕にはよくわからないのはフリードマンとかハイエクなんですよ。確かに自由市場の経済を活性化させることによって独自の倫理が働いて、市場は理想的な状態になるのかもしれないんだけど、それってさ、なんだかアダム・スミスとあんまり変わらないんじゃないの?って思っちゃうのね? もちろんハイエクさんはハイエクさんの意義があるのだろうし、別にその否定をしようとは思わないんだけど、マルクス君が否定したがってた、資本主義的な豊かさってのを訊きたくてね。」

「ではのぶりん? 豊かさとはそもそもなんだね? 豊かさとはどこからやってくるんだね? いつも市場から利潤を汲み上げる、資本主義の能力からではないのかね。全ての人間的なものを貨幣価値の数値に置き換えて代替可能なもののように扱ってしまう事態をのぶりん君もわからぬはずがなかろう。」

「いや、そりゃそうさ。でもね、マルクスさんも言ってたと思うんだけど、僕たちの歴史っていうのは『過去にあったもの』を引き継いだ上で生きているんじゃないの? だから僕たちは何はともあれそういったものを引き受けて生きている。好むと好まざるに関わらずね。それを否定することなんてできないじゃないのさ。」

「社会的に言えば、資本主義とは資本家が労働者という商品を買い、労働者は労働力を売ることによって成立すると言えるだろう。だが私が言ったのはこの二者には必然的に矛盾がつきまとうということだ。つまり彼らの利害はいつかどこかでぶつかり合う対立が不可避的に発生するのだ。それはなぜかと言えば、現代で“労働者”というくくりで言えるかどうかはわからぬが、なんらかの社会を代表する階層の者たちが自分たちの権益を確保しようとするのは不可避的ではないのかな。結局、資本による豊かさというのは貨幣の物神性に端を発しており、それを市場から利潤という名前で汲み取ることでしかその“豊かさ”は享受できないだろう。それが本当に人間的な事態であるのかどうかを私は問うたつもりだが。」

「いやいやいや。マルクスさんが思っているより、僕らの生きている時代はもう少し複雑になったのよ。それに、そうだからといってそういった資本主義社会を直ちに否定することはできないでしょ? だってそういう社会の中にすでに僕らは生きてしまっているんだからさ。今の社会をそんなに短兵急に変革できるはずがないじゃないのさ。だって君も『ゴータ綱領批判』の中でそう書いていたじゃないか。」

「そうだ。私が言ったことは結局ただの一つのことでしかない。それは資本という一つの生産関係に依存した生の生産と再生産の事態だ。それ以上のことを私は述べたつもりはない。それに、それ以上のことも考えて語ろうとしたんだけど……結局語り切れず、天命を尽くしてしまったのだよ。」

「そうだと思うのね。でも歴史って元に戻せないでしょう? それに現代の人々の多くは、市場に自分たちの責任を追わせるのではなくて、政府が自分たちの繁栄の責任を持ってくれることを期待しているんじゃないのかなあ?」

「それを言ってしまったら、君の言っていることはつまり計画経済とかケインジアンみたいなものとあんまり変わらなくなってしまわないか?」

「うん、まあそうかもしれないね。でも統制されることのない利益の追求は、結局“神の見えざる手”によって修正されたのかなあ? 見境なく利益を追求するような社会資本の存在によって、個人の労働が、本来の価値創造の意味を見失われされている事態をマルクスさんは暴露したんじゃないの? 僕がこの世代の人間だからそう思うのかもしれないけど、なんか多大な今までのツケを、僕らの世代が一生懸命払わされているような感覚を覚えるのよ。それって階級的な意識なのかしら?」

「一概には言えまい。私の生きていた時代に資本主義がこのようなかたちで世界的な広がりを見せるとは思わなかったのだから。だいたい多国籍企業なんて起こるとは思わなかったし、労働者たちが資本家の責任を国家が保障することを求める事態なんて私は考えていなかったのだから。」

「1929年に世界恐慌が起こるじゃないですか。確かあの時代は資本主義の終焉を思わせるような時代の雰囲気じゃなかったのかしら? そしてその世界的な資本主義の危機に際し、それを突破させたのはやはり第2次世界大戦とケインズ理論なんじゃないのかしら」

「ケインズっていうのはいったいどういう人なんだい? よく知らないのだが」

「いや、僕だって知りませんよ。ただアダム・スミスの言うような『神の見えざる手』が働いているとはケインズには思えなかったみたいですよ。ただだからといって彼は社会主義に接近しなかったのね。彼はいろんな理論を述べて政府が経済の中に手を出すことを容認したかっこうになったみたいだよ。だからマルクスさんの言っていることは、意外とケインズの言いたかったことと触れ合う部分があるんじゃないのかな」

「私がわからないのは、ハイエクやミルトン・フリードマンらの自由主義だね。私に言わせれば、それはただの放任ではないかね。そのような放任が自由であると称して、それの最大限の自由の適用が自然に市場に倫理を形成するとは、あまりに自由主義経済というものに楽観的なものの見方なのではないかな。そもそも私が指摘したはずの、労働そのものが使命的に持っているはずの本来の価値や使用価値が失われているという社会的事実には目を背けているじゃないか」

「いやあ、でもね、実際お金がなかったら生きていけないでしょ? そりゃマルクスさんは1844年の草稿で確か『貨幣は異なるものどもを強引に接吻させる』みたいなことを書いてたと思うんですけど、そのような交換価値を生み出して、そしてそれの等価の交換可能性ということを前提にしなければ、そもそも僕たちの生きる社会的な現実があり得ないじゃないのさ。」

「でもそのような豊かさというのは、本当に本来の人間的な豊かさと言えるのかな。豊かさとは人間自身が自分で作り上げるものなのではないのかな。他人に自身の価値生産の力を分け与えて、自分の生産力を商品価値に貶めてしまう、そんな事態は人間的と果たして言えるか、私はにわかに認めがたいのだが」

「でもね、一つ落とし穴があると思うのね。それは僕たちが資本主義という社会に生きなければならないということを事実と認めた上で言うのだけど、そもそもマルクスさんが『資本論』の中で展開した剰余価値というものが、人間の幸福や不幸の問題に直結するのかどうかという問題なんですよ」

「しかしながら剰余価値というものが生まれ、そこから本来の人間が持っているはずの生産力とも言うべき価値創造能力が蹂躙されている事態は看過し難い。」

「そりゃそうですね。かわいそうな人はかわいそう。しかしながらそこでいうところの剰余の“価値”とは何なんでしょうね? その“価値”そのものがもはや顛倒を起こしているような気もするんです」

「どういうことか説明してごらん」

「だんだん問題の核心部分が価値論にあるような気がしてきたんだけども、産業革命前後の歴史的文脈において、民衆の幸福と不幸は、労働条件の過酷さというものに支配されていたような気はします。だけど僕たちの現代の社会というのはもっと複雑でしょう。」

「そうだ、複雑だ。あまりに複雑だ。だからこそ真の平等というものは、実現しようとしてしまえば常に原理主義的になってしまいかねない。これはルソーの『人間不平等起原論』などを読めばよくわかるのだが。」

「だから富の再分配なんて言っても、それが人間の幸福と不幸には直結しないんですよ。」

「私もそんなことを言ったおぼえはないぞ。」

「マルクスさんは富の再分配を主張したのではないんですか」

「私がそんなことをどこで述べた? 富の再分配で公平にお金を渡すなどということを私は『ゴータ綱領批判』では書いてはいない。むしろ私の論はこうだ。『ある一定の額のお金が、別の人にとっては十分であっても、他の人にあっては様々な状況から不足であるという事態も考えられる。だから最初の変革は平等の権利の実現というよりも不平等の実現にならざるを得ない』これはちゃんと『ゴータ綱領批判』の中で同趣旨のことを述べているはずだが」

「そうそう、そうですよね。だから何を持って“真の平等”とするのかっていう問題なんですよ」

「私も私の生きる歴史的文脈の中でそのようなことを考えたはずだが、どういうわけだか、私の立論は全て社会主義のシステムの中に組み込まれてしまい、吸収合併されてしまったみたいだな。」

「結局、権利というのは異なっていいんでしょうね」

「人間は皆、平等だと思っている。そう信じることは倫理的な必然性からかもしれないが、それはそれでもいい。ただ自分が社会性の囚人に堕してしまう事態だけは避けなければならない。」

「だったらむしろマルクスさんの言いたかったのは、革命ではないんじゃないですか」

「私がいつどこで“革命”が、事態打開のために唯一必要な仕事であると言ったかね。人間が抑圧されて不幸に泣いている社会なら、自然になんらかの動機から人間的なものを取り戻そうとする運動が起こるべくして起こるのではないかな? なぜなら人間は人間的に生きることを求めるからだ」

「なんだか話を聞いているうちに、自分の今後の課題が見えてきたような気がします。もう少し日にちをあけてから、またこの対談再開しましょうよ。」

「うむ、いい考えだ。これこそまさに真の意味での弁証法と言えるものなのかも知れぬからな。私の立論の中に何か方程式があるとか、公式があるとか勘違いしている大バカ者がいるが、弁証法を人間の生きる社会の中の対話として、生きた現実のものとして考えようとしたのは私とヘーゲル左派が最初なのではないのかな? だとすればこのような対話こそが真の弁証法であり、この中で生きる現実と葛藤しつつ切り結んでいく思想が開かれるものと思う」

〈記事出典コード〉サイトちきゅう座 http://www.chikyuza.net/

〔study454:120313〕