のぶりんとマルクスとの対話シリーズ 第2弾

前回に引き続き、再びマルクスさんとのぶりんの対話

「ここで更につっこんで考えたいのは“価値”そのものの問題、すなわち価値論なんですね。マルクスさんは価値論について厳密に定義をしたわけではないでしょう?」

「私が語ったのは労働価値説だ。労働によって価値が作り出される。すなわち人間の持つ生産力によって人間は自然的存在から人間的なものへと飛翔するのだ。これは資本論草稿にも書いたことだが、人間の食欲というものの消費は牙や爪によって生肉に食らいつくようなものではなく、フォークやナイフによって消費される。したがって生産の様式によって人間はその自身の欲求による消費の方法までをも生産しているのだ。すなわち全てが価値として生産されているのであり、これを労働価値説の根拠と私は考えた。で、それが資本制度に組み込まれることによって、労働価値の剰余の部分が常に出てくることをあの膨大なノートの中で立証しようと考えたのだ。」

「まあ一つの分析の方法として剰余価値論は有効だと思いますよ。ただそれはあくまで一つの側面ですよね。日本では置塩信雄氏や森嶋通夫氏のような人がいましてね、僕も詳しくはわからないんですけど、マルクスさんの価値論研究を数学的に検証した研究がありますね。だから剰余価値の生産という事態はやはり事実としてひとつの側面を担っているのであって、その方法自体は有効ですよね。」

「うむ、その日本人の研究者については私もわからぬが、剰余価値そのものが事実であることがある意味、ある観点から証明されたというだけであって、結局私の論拠は崩れてはいまい。だが君が訊きたいのはもっと別の説明、“価値”そのものであるようだが。」

「そうですね、価値とは何か。そこから考えてみるのが大事かなと思うんです。というのは人間の幸福はやはり価値の創出だと思うんですね。この点については同意を見ることができると思うんですけど、じゃあその価値の本質は何かということに問題をシフトさせた方がよいだろうと思います。カントとかの問題も吟味する必要があるでしょうかね」

「価値論を考えるためにはカントから始めなければならぬのかい? ずいぶん時間がかかる作業だと思うが。だが説明はきちんとできなければならぬというのが私の立場だ。要するに西洋の哲学史というのは『神の存在に論拠など要らぬ!』という論に対し、様々な論理的な根拠や反駁を繰り返してきた歴史なのだから。」

「じゃあとりあえず始めましょう。価値論の西洋哲学的な文脈はけっこういろいろな流れがあるんですよね。」

「まず1つ目として宗教哲学の面ではないかな。」

「新カント派のヴィンデルバントという人は、カントの真・善・美の3価値に加えて“聖”という価値を設けたようですけど、これについて、またカントの価値についてどうマルクスさんは考えるのかしら?」

「価値とは生産されるものだ。フォイエルバッハが説明したように神とは人間の営為ではないのかな。神が人間を創ったのではなく、人間が神を作ったのだろう。たとえフォイエルバッハ以前、ヘーゲルに返ったとしても、ヘーゲル本人は神は歴史の最終的な局面で現れるに過ぎないのだから、ヘーゲルにしてもフォイエルバッハにしても神とかヌミノーゼの問題は価値には入らないのではないのかな。」

「つまりマルクスさんとしてはあくまで労働価値説に固執されるわけですね」

「固執といわれるとやや旗色が悪いが、そもそも価値の生産とは、消費の方法の生産でもあるわけで、同時にその時代の生産様式も同時に表現していることになる。」

「たとえば絵を見て“美しい”と思う価値がありますよね。また風景を見て“美しい”と思う価値もありますよね。絵は人間によって生産されたものと考えてよいと思うんですけど、空は違うのではないですか?」

「いや、それは違う。たとえば『空が美しい』と言うことができるとしよう。そうするとその美しさというのは誰にとっての美しさなのかね? それはその時、その空を見ている人々の感じている美しさなのではないのかね? それは視点の設定によってある瞬間、例えば夕暮れ時でも構わないが、それが『美しい』と感じられる感性の創出による生産なのではないのかな? たとえば写真芸術というのがあるが、写真はただ現実の像をある一定の視点から切り取り、複写したものに過ぎない。けれどもそれに価値があるとするならば現実をただ切り取っただけの写真とはいったい何なのかね? つまり視点の設定とはすなわち現実の自然をある一定の態度を持って分節し、認識できる範疇に持ち込んだものだろう。つまりそこでもまた価値の創出ということが行われているのだ。土地というものも、ただの地球の表面なのかもしれないが、立地の条件や広さ、周囲の環境によってその価値を変える。もしそうだとすれば土地というものでさえも、ある一定の視点によって見られた商品的な側面を拭い切れまい。」

「言われることはすごくよくわかります。ただ話を聞いていると美的な価値や善的な価値は、どうしても商品価値として現れてしまうという事態をマルクスさんは見つめているようですね。」

「この世に商品にならないものが何かあるかね? 全てが商品価値として値段が測られてしまうではないか。つまり価値には使用価値という側面を持っているのだが、同時に我々の生きる社会においてはどうしても“交換価値”という側面に変容してしまうのだ。」

「ところで使用価値も交換価値も現に存在する価値ですよね」

「そうだ、どちらも存在する価値だ。」

「交換価値はなくなった方がよいと考えますか?」

「なくなった方がよいという理想を考えたことがあるというのは確かに事実だ。しかしながら貨幣をいっさいなくしてしまい、交換価値を消滅させてしまう事態を、急には考えられまい。現に存在する社会のシステムがあるわけで、そういった社会を急進的に変えることは要するに社会に混乱をきたすことだからだ。だから変革というものは常に漸進主義的でなければならないだろう。これも私が『ゴータ綱領批判』の中で似たような趣旨の内容を述べたはずだが。」

「僕もそう思いますね。ではなぜそういう事態を急に考えられないのでしょうね。僕が思うのは交換価値というものは一つの抽象であり、記号化なのだと思うんですよ。でもそういった記号化そのものが存在するからこそ、市場の交換ということが成立する。それを段階的に廃止するために統制経済を敷く必要があると思いますか?」

「一つの方法として当時なら考えたかもしれないが、恐らくないだろう。しかし人間が人間として価値を享受するためには、いったん資本に支配されるような労働力の商品化という事態を暴かなければならないというのが私の生きた時代の課題ではあったのだよ。」

「とすると利益というのは、当面のところ存在しなければならない個人的な価値と言うことはできませんか?」

「それは価値本来が持っていた人間性を捨象してできた仮の価値であるから、それを価値と呼ぶことは抵抗が残る。しかしながらここはまあ譲歩できる範囲だ。それを仮の価値とするなら、それは構うまい。」

「個人的な見解なんですけどね、この貨幣の価値というのは完全にゼロ度にすることはできないと思うんです。それが仮の価値でしかないということは言えるとしてもですよ。」

「なんだかのぶりん君の誘導尋問に踊らされているような気がする。君も相当の詭弁家だなあ、危険だ。でもそれはあくまで交換価値であり、それが“利益である”とか“利的な価値である”と言うことはできても、その価値の持つ物神性は結局数字でしかない。人間の幸福は数字で取引ができるのかな? できないのではないかな?」

「確かに自分でも危険だと思います(笑)。また言われる趣旨もわかりますよ。ただここで共通理解しておきたいのは、利益と言うものが仮の価値の形態だとしても、とりあえず現行の社会の中で流通する一定の社会価値として存在する社会的なものだということです。」

「価値で社会的でないものなどあり得ない。唯一社会的でないのは美的な価値かもしれぬが、世界の中でたった一人の人間にしかわからない絵画の美しさなど、恐らく価値とは呼ばれまい。価値がある絵画ならば、いずれは正当にそれなりに評価されるべきだし、そうでなければそれは価値があるとは呼べまい。」

「ところで真理というのは価値なんですかね。」

「その質問はヘーゲル君にしてもらいたい。ヘーゲル君は真理というものが人類の進歩の発展のその度に現れる社会相だと考えた。つまり真理であるはずの神は、まだ顕現していないが、その発展途上の上での表出なのだと彼は思ったわけだ。しかしそれを価値であるという風に断言するのは、人々に盲従を強いるに等しい。百歩譲って神が正しいと言えども、説明されない論拠のないまま、価値を受け入れさせることは詐欺ではないか。」

「ところでそれは説明できるんですか」

「私は説明しようとしなかった。なぜならその必要がなかったし、そんなことに私の関心はなかったからだ。」

「説明しようとした人はいるんですか?」

「ああ、たぶんデカルト君、スピノザ君、そしてカント君だろうね。デカルトの説明は現代ではあまり意味をなさないが、スピノザ君はよく読まれるべきだろう。」

「ほうほう……、スピノザさんはどんなことを述べたのですか?」

「のぶりん君はまだスピノザを読んでいないのかね? 我々諸個人は神の部分的な現れであり、宗教の権威的な神の定義を根底から覆したのがスピノザだ。確かにヘーゲルによってスピノザは『真理を示したが、理解はさせなかった』という評価を受けたが、私はその評価は少し違うと思う。つまりヘーゲルとスピノザはだいぶ似ており、違うところはヘーゲルが各人の人間が社会的な過程を経ていく中で人類史は神に至ると考えたのに対し、スピノザは具体的な教化を受けながら個人がそれぞれの具体性の中で神を見出すとしたのだ。すなわち彼は人間の情念や心の働き、魂の問題などを考えながら、それが各人のそれぞれの天分に応じて神の顕現であると考えた。思惟とその延長は、スピノザによれば自己原因としての『唯一の実体』――要するに神だが――を構成する属性であるとされる。だから個人は個人のそれぞれの天分に応じて神を顕現できる文脈にも読めるのではないかな。私はずいぶんスピノザを読んだぞ」

「さすがお詳しいですね。でもそのスピノザの言う真理というのは価値なんですかね?」

「まあそれを価値と言うなら価値だが、価値と言わないなら価値ではない(笑)」

「それじゃあ困りますよ(笑)……うーん、参ったな。でも真理を“示した”という評価をヘーゲルはスピノザにしているわけですね。」

「私からみれば、ヘーゲルはスピノザを上手に利用したに過ぎないように見えるのだが」

「でも待ってくださいよ、スピノザ的な真理の説明に共感するところがマルクスさんは多そうですね。それはどうしてなんですか?」

「そりゃスピノザは未完成かもしれないが、ヘーゲルみたいに完成させちまったらまずいだろう(笑)。いつか人類の歴史が完結するから、今の個人は黙って指をくわえてガマンしろなんて私には言えない。目の前で苦しんでいる人間がいる時に、『いつか理想は完結するから、政治も官僚もいつかちゃんと是正してくれるからガマンしてくれよ』なんて……そんなことを、のぶりん君は苦しんでいる人を目の前にして言えるかな? 私には言えない。だからこそ個人の可能性というか、各人の自由な発展が歴史を創る原動力になるという私の論拠に力を与えることができるのはヘーゲルよりもむしろスピノザの方なのだ。」

「だとするなら、真理というものはマルクスさんにあっては価値の問題の蚊帳の外にあるということですか?」

「真理が価値であろうが、価値であるまいが、そんなことはわからないのだ。ただ真理が人間によって生産されて分節化され、なんらかの美的な、もしくは善的な価値を有する時にそれは価値と呼べるのだ。だからこそ価値は、その時代の人間の生産関係に依存しているのだと思うのだがね」

「ところで人間の幸福というのは価値の創出ですか」

「私の言葉で言えば、幸福とはそれぞれの人間が生み出す価値が、それぞれの人間に等しく与えられる社会こそが真の幸福の社会だ。だとするならば幸福とは価値の創出だと考えても別段差し支えはない。」

「だとすると価値を創出する力の根拠が必要になりますよね」

「それは社会的存在としての人間だろう。人間だけが価値を創出させることができるのだから。だからこそサン=シモンは労働が人間のただ一つの価値であるという宗教を作ろうとしたのだ。まあ彼は失敗したのだが。」

「え? サン=シモンさんは宗教を作ろうとしたのですか?」

「そんなことは私の関心外だ。ただこれだけは言っておく。私は宗教そのものを否定したことも肯定したこともない。ただその時代の宗教的な精神というものは、おうおうにして教会的な権威やドグマとして現れる。それは宗教者が人間の人間的な事態を無視して、ヘーゲル的な思考方法に囚われているからだ。そのような社会の上部構造は、人間たちのアソシアシオンによって変革されざるを得まい。庶民だってバカではない。いつまでも自分たちをバカなままにさせておく宗教的な権威に安易に支配されたままでいるはずがあるまい。それが彼らの人間の個性の自由な発現、人間諸個人の生産力の自由な発展を促し、倫理的なアソシアシオンとして機能するのであれば、それは個人が自身で幸福を築き上げることが真の意味の宗教になる。大切なことはそのようなアソシアシオンの構築なのであって、革命をしようとか、上部構造を破壊しようとかすることではない。上部構造を爆破しても、社会のアソシアシオンがそのままなら何も変わらない。大事なことは自分たちのアソシアシオンの構築の意味を理解し、そして行動する人間の再結集だろう。」

「個人的に真理というのは、カントの言う『もの自体』の概念と被るような気がするんですね。というのはカントは著書の中で、『世界が有限である』というテーゼも『世界は無限である』というテーゼも同時並行に証明してしまったじゃないですか。カントは両方の相反するはずの2つのテーゼが同時に証明できることから、真理というものを認識するはずの人間の理性に一定の限界があるということを証明してしまった人なのだと思うんですね。ヘーゲルにあっては真理は『神』とか『精神』という言葉に置きかえられていますが、要するにカントからヘーゲルへの思想史の移行の意義というのは、『認識し得ないもの』から『最終的には認識し得るもの』への転換だと思うんですね。ただヘーゲルはいつそれが完成するのかということを明確に言わなかった――まあ、言えなかったんでしょうけど(笑)――また国家が最終的な人倫存在の完成にもっとも近い形態であると考えた。そしてマルクスさんもこれを否定はしたけども、いつかゴールが仮定されるというヘーゲルの思考方法を踏襲したことは否めないんじゃないんですか?」

「私はそのゴールについては語っていないぞ。『最終的な目的地』とか、『最終的には』という表現を使ったことは事実だが、その状態については未来においてどうなるのかなんて誰にわかる? だから私は沈黙したのだ。まあここでの論点はカントの『もの自体』というものがヘーゲルの言うような『神』の概念と意味的に被るのかということだが、私にはどちらも言葉による生産物に見える。神の概念を定義するのは、その時代の生きた人間たちの社会的な関係態だろう。だからこそヘーゲルが生きた時代の文脈の中で、彼はそういう風な意味で神を考えざるを得なかったわけだ。そういう意味でヘーゲルは時代を乗り越えられなかったのかもしれない。ただ『もの自体』というのものをカントは認識し得ないものとしている。ただそうすると人間は真理に到達できないということになるが」

「でも真理って到達すべきものなんですかね? そこが少し疑問ですけど」

「要するに西洋哲学の歴史においては、神とか真理というものが巨大なものとして存在していて、それを説明した方がよいのか、あるいはただ信じればいいのか、そういうことを喧喧諤諤と議論していたのが私達の時代の文脈だったのだ。私の意見を繰り返すならば、真理は別に私の関心外の問題なのだ。ただ真理と称されるものがただのドグマとなり、人間の自由な意識や生産力を圧迫するならば、私はこれらを排撃しなければなるまい。」

「議論が長くなりそうですね。今日はこのへんで寝るとしますか。」

「続きはまた後日にでもな。」

〈記事出典コード〉サイトちきゅう座 http://www.chikyuza.net/

〔study457:120315〕