ふたたびの沖縄、慰霊の日の摩文仁へ(7)伊江島4

伊江島での滞在時間は4時間半、タクシーには3時間弱乗っていたことになる。記録にとどめたいことはたくさんあったように思ったが、メモや記憶が追い付かない年齢となったか。

芳魂の塔・公益質屋跡

つぎに車を停めたのが、「芳魂之塔」で、伊江中学校の隣になる。伊江島3500人の慰霊の塔で、墓名碑は、「平和の礎」と同じように黒御影で、ここは縦書きとなっていた。

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そのすぐ近くには、「公益質屋跡」という戦跡があると、写真などでも見たことがあるのだが、よく理解できていなかった。そもそも「公益質屋」というのは、 昭和初期、市町村、社会福祉法人によって設立された庶民金融機関で、伊江島では村役場が管理運営していた。蔵のように頑丈に作られていたので、激しい戦闘 による砲弾の跡を残しながらも、その外形をとどめていたという。当時の地上戦を思わせる戦跡は、今ではここくらいしか見られないといい、村の文化財として 保存されている。

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マーガ
 こ こは、運転手さんが車を停めてくれたところだ。少し日照りが続くと、水不足に見舞われるのが島の常だったという。大いなる井戸、水汲み場であったところ で、今は、巨樹のかげになって、実に涼しげな公園になっていた。手押しポンプに手をかけると、少しぬるい水が出てきた。私たちも熱中症予防で「こまめに」 ペットボトルを口にし、何本目だったか。本当にサイクリングなどにしなくてよかった。第一、人っ子ひとり通らない道に迷っただろうし、この日差しでは30分も持たなかっただろう。

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被爆慰霊碑
  出発点の港に戻ってきた。港の少し手前の公園の中にある「被爆慰霊碑」というのは、「被曝」ではなく、「被爆」だったのだ。敗戦後、米軍は、沖縄戦で未使 用の爆弾を北海岸に集積し、それを上陸用舟艇で、爆弾を島外に運び出す作業を行っていた。爆弾は水納島(みんなじま)との間の海中に投棄していた。1948年8月6日、その船が伊江港の桟橋を離れようとしたとき、荷崩れで、大爆発となったのだ。桟橋は別の連絡船が着いたばかりで下船の客、出迎えの人でごった返していて、102人もの犠牲者を出した事故となった。沖縄戦を生き延びた村民も多く、米軍に補償を請求したが、わずかな見舞金が出されただけだったという。この惨事には、言葉も出ないほどのくやしさを、いまの私さえ感じるほどである。

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伊江島の島めぐりもこれで終わった。地図を見ると、まだ回り切れないところもあった。フェリー乗船までお茶でもと思って探すが店がない。お土産さんのベンチでソフトクリームとサイダーのおいしかったこと。伊江島のお土産は?ホテルで食しましょうとパッションフルーツ5個入り270円をまず買った。落花生が特産というが、千葉県の人間には今一つ。

少し、時間にゆとりをもって、バス停に向かった。木陰がまったくないので、わずかなバスストップの表示板や植え込みの陰で、二人連れと離れてお一人とが 待っていた。あと一緒にフェリーを降りた男性とまた出会い、それに私たちだったのだが、このあと大変なことになったのである。

なかなかバスがやってこず、夫は営業所に電話すると、「少し渋滞しているかもしれないが、こちらではわからない」という返事。それでも20分 近く遅れてやってきた。バスの入り口近くにいた男性と私たちが乗り込むと、なんと、私が補助席の最後で、「乗れません」と断られているのだ。先に待ってい た三人の女性が乗れなかったのだ。迷っているうちにバスは発車、なんか申し訳ないような気持ちだった。それにしても、車内は、皆さん海水浴帰りの雰囲気の 人ばかりであった。乗り損ねた人たちは、那覇直行便には間があるので、路線バスで、名護まで行かれたのだろうかと心配であった。

 

初出:「内野光子のブログ」2016.07.19より許可を得て転載

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記事出典コード〉サイトちきゅう座http://www.chikyuza.net/
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