普天間基地周辺の航空写真から、今回、立ち寄った場所を書き込んで作成してみた。
キャンプ瑞慶覧(ずけらん)は、キャンプフォスターとも呼ばれている。赤い線の内側が宜野湾市となる。以下を参考にした。詳しくは「まちのど真ん中にある普天間飛行場」(宜野湾市基地対策課 2016年3月)http://www.city.ginowan.okinawa.jp/cms/sisei/base/05/2016pamphlet/2016panfumatome.pdf
チヂフチャーガマ(浦添市牧港)
嘉数の高台から国道330号に戻って、チヂフチャーガマに向かう。こ こは浦添市だが、1945年3月23日の空襲以降、宜野湾村嘉数の住民の半数以上が避難したガマである。その後、日本軍にこのガマから追い出され、それで も残った年寄りや幼児を抱えた家族らが米軍の投降の呼びかけにも応ずることが出来ず、5月になって毒ガスが投げ込まれ、多くの犠牲者が出たという。
鍾乳洞が発達した洞穴で、1986年に市の指定史跡となった
佐真下(さました)のガマ(宜野湾市真栄原)
この壕は、総延長153mもある鍾乳洞で、1944年か らは、日本軍の陣地壕として使用されていた。1945年3月下旬米軍の空襲が始まると、日本軍は周辺の民家のすべてを焼き払ったという。いま、かつての佐 真下集落は、現在一部普天間基地に没収されていて、地名としては真栄原となっている。 壕入口の「産川」は、かつては住民の飲料水ともなっていた。
手前が「偲 石十三大隊第三中隊之英霊」(1977年)、奥が「昇華之塔」(1966年)
我如古(がねこ)の戦跡
我如古 の交差点を何度通ったことだろう。運転手のKさんは、ここ数年、この辺りには来たことがないと言い、まるで街の様相が変わってしまっているとのことであっ た。細い路地を走らせ、地図や案内書にある壕などを探してくださるのだが、なかなか見つからない。車を降りて、庭先の方や商店の方に尋ねても「知らない」 「十数年住んでいるが、聞いたことがない」「もしかしたら・・・」という返事が多いといい、確実な情報が得られないとも。そして、ようやく我如古公民館を 見つけ、見当をつけるとができた。この辺りは、もうしっかりと家が建て込み、確かに新しいアパートやマンションも多い。激戦地であったことなど、すでに知 る人は少ないのだろうか。公民館の人の話だと、かつての「いのちのツナ」でもあった湧き水の跡や壕などは、直近まで家が建ったり、民家の庭先になったり、 その上にすでに家が建ったりしていることもあるそうだ。
71年前、米軍と日本軍から追い詰められて、逃げ惑い、命を落とした多くの地元の人たち、まだ、遺骨の収集ができないまま、あるいは不発弾を抱えたまま開発が進んでしまったところも多いと聞く。
今回、たまたま訪ねることができた慰霊碑には、ひたすら祈るしかなく、その非力を詫びるような気持ちであった。少なくとも沖縄戦の実態を少しでも知り、多くの人たちにも知ってもらいたいという思いばかりが先走るのであった。
戦没者のための慰霊の塔(1989年)
我如古の辺りは、新しいマンションやアパートが建て込んできているそうだ
1892年石工と住民総出で整備された井戸で、生活用水、若水、産水として利用されていた集落の聖地でもある
つぎの資料の棒グラフは、「沖縄戦における宜野湾村各字(あざ)人口(1944年10月)と戦没者数である。今回、訪ねることができた嘉数、佐真下、我如古は、戦没者がの割合が高い。
「沖縄戦戦後70年企画展・宜野湾 戦後の復興とくらし」(宜野湾市立博物館 2015年7月)8頁から
沖縄国際大学ヘリ墜落事件(宜野湾市宜野湾2丁目)
2004 年8月13日、普天間飛行場の米軍海兵隊のヘリコプターが、沖縄国際大学の本館に墜落した。乗員に負傷者は出たが、大学は夏季休暇で被害者はいなかった。 事件の処理は、日本の警察・消防・行政・大学の関係者をすべて排除して行われた。日米地位協定に阻まれ事件の全容解明には至っていない。現在、新たに建て 直され、焼け残った一本の木だけが残っている。
宜野湾市立博物館
慰霊の日に合わせての企画展が開催中なので、寄ってみた。街の模型図で、普天間飛行場の大きさとその存在の深刻さを目の当たりする。戦前の宜野湾村の光景が各種の写真で見ることができ、記録としての写真の重要性も知ることになる。
昨年と今開催中の展示カタログを紹介しておこう。
緑の灯りが点灯する通りは、並松街道と言われ、首里に続く松並木だった。沖縄戦で焼き払われただけでなく、今は、普天間飛行場の真ん中を縦断している
佐喜眞美術館(宜野湾市上原)
佐喜眞美術館を見学、ここには丸山位里・俊に よる「沖縄戦の図」(4×8・5m、1984年)があることで知られている。私もそのくらいのことしか知らなかったが、今夏はルオー展を開催中であった。 まず、美術館に迫って、基地のフェンスがあるのに驚かされる。それもそのはず、館長の佐喜眞道夫さんが、大変な苦労をされて、基地の一部を返還させて、 1994年11月23日のオープンにこぎつけている(参照『アートで平和をつくる 沖縄・佐喜眞美術館の軌跡』(佐喜眞道夫 岩波ブックレット 1914 年7月)。
展望台から見える、基地内の墓所
美術館を出ると右手に佐喜眞家の亀甲墓がある
普天間宮
宜野湾市コースの最後は、普天間宮であった。ここにも、大きな洞穴遺跡があって、戦時中は避難壕として使用されている。その背後に迫っているのは、キャンプ瑞慶覧である。
彼女らを撮ったわけではないのだが、去り際に振り向いて写したら・・・
初出:「内野光子のブログ」2016.07.24より許可を得て転載
http://dmituko.cocolog-nifty.com/utino/2016/06/post-167c.html
記事出典コード〉サイトちきゅう座http://www.chikyuza.net/
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