流れの速い渓流では自浄作用で水がきれいに保たれる。流れの遅い、あるいはほとんどないところでは、水がよどんで汚れたままになる。きれいな水にしか棲めない生き物もいるし、よどんだ(人間の目には汚れた)水を好んで棲む生き物もいる。生き物としてどちらが上とか下はない。
業界(企業)にも水の流れに似たようなところがあって、いつも激流のような感じで非常に変化の速い業界(企業)もあれば、十年一日の如く、変化らしい変化のない業界(企業)もある。どちらの業界(企業)の方を良しとするかは、個人の好き嫌いや志向ででしかない。
変化が少ない業界の変化の少ない企業で長年同じような仕事をし続けると、どのような文化や体質、思考や志向になりがちか、ちょっと考えてみようと思う。
そこでは、日常業務でバタバタすることはないし、業務から直接受けるストレスも少ない。組織内で言い合いが起きることも少なく、人間的には穏やかな人が多い。対人関係に気を配り、物腰も話しぶりも申し分のない、如才のない社会人に見える。
しかし、そのような穏やかなところにも、あるいは、だからこそなのかもしれないが、それだけで終わらない人たちもいる。無風状態のような業界では、共通の競争相手を外に求められない。結果的に、日々競争相手と感じることができるのは直接仕事で関係する同僚になる。
ところが、十年一日の如くのところでは同僚と差をつけようにも、大きな差がでるようなこともない。大きな変化もなければ、大変な仕事もない。ローリスクもローリターンで、誰がやっても今までと似たような結果にしかならない。
似たような結果では能力の違いがはっきりしない。そんなところでは、処世術の優劣が将来を決定する最大要因になり、仕事より上司や同僚との付き合いが大事になる。阿る術の優劣が雌雄を決する社会と言ったらいいだろう。
一見表面的には良好な人間関係を保ちながら、水面下で策を弄し、同僚を出し抜こうとする陰湿なタイプに日があたる。典型的な小官吏集団が形成され、些細なことに、特に自らのマイナスにつながりかねないようなことに対しては過剰とも思える反応をしながら、決められたことを決められたように、昨日と同じように今日が繰り返される。
変化の少ない環境で似たようなことをしてきた人たちが仕事を通して積みうる経験、会得し得る社会認識、専門業務を遂行してゆくために必要な知識などは、変化の多い環境にいた人たちが得るものに比べて、明らかに少なく偏ったものになってしまう。知識だけではなくストレスやプレッシャーに対する耐性や、困難な事柄に立ち向かい、問題を解決してゆくために必須の精神的な強靭さでは比較することに意味のないほど両者の間には違いが生まれる。
変化の少ない環境でゆっくりやりたいと思うのは個人の自由。他人がとやかくいうことではない。ただし、その自由が生み出すものに対する責任(限られた知識と能力)は取らざるを得ない。ここには、取らないという選択肢を選ぶ自由はない。ましてや変化の激しい環境で培った他人の能力に嫉妬するなど、醜悪以外のなにものでもない。
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