ブラックだとかブラックバイトという話は随分前から聞いていたが、「ゆるブラック」は最近初めて耳にした。隠居を決め込んでることもあって、巷の話題を耳にするにもずいぶん時間がかかるようになってしまった。はじめて聞いたとき、言わんとすることはわかる、上手いこと言うもんだと妙に感心してした。ところがいくらもしないうちに、「ゆる」がそのまま「ブラック」とは言いきれないケースも多いんじゃないかと気になりだした。「ゆる」から生まれる時間的、精神的ゆとりを何にどう使うかは、本質的には個人の自由だろう。豊かな個人生活に使う人もいれば、副業に精を出す人もいるだろう。なかには、将来の職業的、あるは社会的立場を考えて、技能や知識のさらなる向上に活用する人もいるだろう。
ここで「ゆるブラック」の解説をする気はない。Googleで「ゆるブラック」と入力して検索すれば、似たような説明が幾つもでてくる。どれもことの一端しかみていないようにみえるが、分かりやすいものを書き写しておく。
「『楽だけれど、成長はできないし収入も上がらない』というのがゆるブラック企業の最大の特徴です。 残業はほぼなく、毎日定時に退社することができるので楽な職場と思われやすいです。 しかし、『できることをひたすら同じように毎日繰り返す』ため、難しい業務や高いスキルを求められる業務がなく、スキルアップは期待できません」
主旨から外れるが、ひと言いっておきたい。
最近「スキル」という言葉によく出くわすが、それは能力とは違う。スキルには小手先の、表面的な処理能力までの意味しかない。なぜ経験と理解に基づく「能力」という言葉を使わないのか。スキルをいっている人たちのうわっつらの仕事の仕方とそれを生み出すちゃちな能力を反映しているとしか思えないんだが、どうなんだろう。
スキルをうんぬん、何を言っているんだと思う人もいるかもしれない。分かりやすい例を一つあげておく。プレゼンテーションスキルという人がいるが、そこでいうスキルとはなんなのか?スキルをもってして内容のないプレゼンテーションが意味のあるものになることはない。意味のあるプレゼンテーションは、それを生み出す人としての知識と能力が生み出すものであって、スキルから生まれるものではない。
「ゆるブラック」どころか、人によってはホワイトと呼ぶかもしれない薄っちゃけた灰色のところ身を置いたこともある。誰が見ても正真正銘のブラックとしかいいようのない広島の会社に招かれて、半年ほどにしても自殺を考えるほど苦しんだこともある。そこではアメリカの会社で組織を牽引して十三年も走り続けた経験は生きなかった。失業保険を頂戴することになるなんて想像したこともなかったが、幼稚園に通っている子供もいたから死ぬわけにもいかない。
日米欧の製造業を渡り歩けば、騙されたとしか言いようのないことを避けきれない。ときには、しないほうがいいどころか、しちゃいけない苦労をし続けなければならない立場に追い込まれることもある。「ゆる」と「ブラック」の関係について、実体験をいくつかあげておく。個人のくだらない経験だが、何かの参考にはなるかもしれない。
「ゆるブラックー日立精機」
東京高専で工作機械を教えてくれた教授が東芝機械のOBだった。東芝機械に行こうと思って相談にいったら、現役時代に輝いていた日立精機のイメージが強くのこっていたのだろう、日立精機の方がいいからと勧められた。
日立精機は戦前から名門といわれていた一部上場の工作機械メーカだが、就職した七十二年には、コンピュータを活用した制御技術の取り込みに後れを取って、先の見えないところだった。
子会社や付き合いの長い商社を頼ってのことだろうが、期末の押し込み出荷を乗り切るために、サービス残業が当たり前になっていた。その反動もあって期初めはみんな腑抜けのようになって、やることもないし、やる気も起きない。
三六協定もあるし労働組合もあったが、そんなも会社のおかれた状況を持ち出されたら、何の力にもならない。定年退職や転職で辞めていく人もいたが、うすっ暗いホワイトからちょっと「ゆるブラック」に近い会社で、とんでもないミスを犯しても左遷されるだけで馘にはならない。
半額八掛が当たり前の過当競争の落ちこぼれ。そんなところで偉くなっても、世間並みの所得など望むべくもない。覇気のある人は一人また一人と転職していって、転職のリスクを恐れる人たちと転職が難しい人たちが残った。昨日があったように今日がある。そして明日は昨日の繰り返し。それでいい、それしかないと思ってしまえば、それでいいというところだった。
最初に配属された技術研究所開発設計課は現行機種とは一線を画した次世代の機械を設計する部署だった。階下に試作工場をもち、開発内容は社内でも機密。本社工場の隅にあったが、生産ラインからは隔絶された世界だった。やった事のない、使ったことのない技術を積極的に検証することが奨励されていたから、あれこれ手を出しては失敗していた。会社の時間と金で随分勉強させて頂いた。
思想問題から五年後にはアメリカ支社のニューヨーク本社に島流しになった。ろくに機械に触ったこともなかったのが、十年前の機械の修理や新製品の据え付けに中西部まで走り回った。英語もわからないし、技術的も怪しいのがなんの経験もなく、チャレンジと失敗の毎日だったが、日本とは違う社会のありようを知り、使える英語を習得する機会を頂戴した。
「ゆるブラック?ーテクニカルサービス(技術翻訳会社)」
八十二年の夏、十年お世話になった日立精機を辞めて、技術翻訳者を目指して見習い翻訳者として雇ってもらった。高専の機械工学科を卒業して、工作機械メーカの、名ばかりにしても世間一般ではエンジニアで通った。そこで三年半、様々な技術書類の翻訳をしながら、英語と日本語で技術や科学知識を吸収していった。時間が自由になるから同時通訳の養成校にまで通って、英語の実力を培った。
任された仕事をきちんとあげれば、いつどこで仕事をしていようがかまわない翻訳という自由業、身分の保証はないが自由はある。ただ遊んでいる余裕はない。誰のためでもない、将来への怖れから、その自由を自分の将来にかけた。
字面翻訳でもなんとかやっていけるという視点でみれば、「ゆるブラック」だが、本質的はプロがプロとして仕事を求められるところで、能力のない人には仕事が回ってこない。その視点ではブラックとも言える。
「ゆるブラックーABジャパン」
八十年代の中頃、日本のパートナーと共同で工作機械専用の制御装置CNC(Computerized Numerical Controller)の開発を進めていたアメリカの産業用制御機器メーカの日本支社に招かれた。英語と日本語で工作機械を知っているということからだった。マーケティングとしてCNCの開発から、汎用モータの制御、そして市場開拓へと突き進んでいった。最後は画像処理にまでフィールドが広がって、将来の転職の幅が広がった。
「極ブラックーコグネックス」
半導体や電子部品の製造や検査工程で使用する画像処理システム市場で世界を制覇した感のある画像処理システム専業メーカだった。Good is no enough, must be excellentという標語が示すように並みの人では生きのこれない。営業として雇われて、三週間で解雇なんてことも当たり前のように起きる。強くずる賢く、周りのことなんか知ったことかという自分のことしか考えないような人たちも多い。
楽な仕事はなかった。いつもギリギリ。目の前の、そしてその先の可能性を今日という日にかけて走り続けていた。どこにいっても、何をどう見て何をするべきなのか、何をできるのかのもとには、どんな状況でも「ゆるブラック」にしていった自分がいた。
「ゆるブラック」にする考えのない人や、おかれた状況に対応できない人たちは、「ゆるブラック」でさえブラックと呼ぶかもしれない。お茶を濁すようなことをしていれば、たとえホワイトでも遠からずレイオフになる。
ブラックじゃ疲れて倒れるだけだが、「ゆるブラック」なら生きようを広げられる。インターネットが当たり前になった今日、「ゆるブラック企業」で当面の生活の基盤を確保しておいて、そこでの昇進や昇給を求めずに、副業で所得を求める生活スタイルが増えているだろう。昇進すれば責任ばかりが重くなって、大した見返りがあるわけでもない。昇進したところで定年はやってくる。であれば、「ゆるブラック」であることを幸いに、副業に精を出すのもありだろうし、豊か個人生活に重点を置いた生き方もあるじゃないか。
「ゆるブラック」でなにが悪い?社会はすべからく「ゆるブラック」であるべきだと思っている。
2022/9/3
Private homepage “My commonsense” (http://mycommonsense.ninja-web.net/)にアップした拙稿に加筆、編集
〈記事出典コード〉サイトちきゅう座 https://chikyuza.net/
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