よく調べましたね

著者: 藤澤 豊 ふじさわゆたか : ビジネス傭兵
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読書感想文を書こうなんて考えたこともない。小学校では書かされた記憶があるが、何を書いたか覚えていない。先生にどう思われようが気にもしてなかったから、適当に書いて終わりにしてたんだと思う。歳はとったが、感想文なんてガラでもない。まして書評なんてする能力もないし、そんな大それたことをする勇気もない。ただ、これはと思う本にでくわすと一言言いたくなる。

 

知人に薦められて『近代日本150年』山本義隆著(岩波新書)を読んだ。『日本における近代国家の成立』E.H.ノーマン著(岩波文庫)を読んだときを思い出した。体裁は新書に文庫なのに重くて、読み流せるようなものではなかった。どちらも山のような参考文献に基づいて書かれているが、「近代国家の成立」では驚くほど引用が抑制されている。

「150年」は、事実の積み重ねが濃すぎて疲れた。ページをめくる手が重くなって、何ページも読み続けられなかった。とんでもない時間をかけて調べて、検証した成果が詰まっている。どのページにも資料集めに苦労された跡が溢れている。調べ尽くした自信が生み出す、できることならしまっておいてほしい陰がある。精魂費やした、それこそ命をかけた作業の末に捩じり出してきたような凄みがある。

 

「150年」は調べ上げて書かれたもので、書名の「150年」の後ろに大文字の「史」が付いている。歴史的な事実を重ね合わせて、歴史はこうして作られてきたという史実が書かれている。史実以上でもなければ以下でもない、史実そのもの。内容が正しければ正しいほど、それは事実であって創作どころか解釈さえ入り込む余地がない。その分というのもおかしな言いかたになるが、『近代日本150年』は、過去の事実の集大成で、けっしてその域をでることはない。調べられる事実とは過去のことでしかない。

 

人文科学系の学問では、有意義な資料を見つけることに多くの時間がさかれ、そのために多大な努力が積み重なれてきた。新発見の一次資料を手に入られれば、未発見の種の恐竜の化石を見つけたかのように、見つけたというだけで一躍学界で地歩を築くきっかけを手にできる。手にした資料から従来までのもとは、いくらかでも違った視点で論文を書ければ、それで学者として研究者としてなりたつ時代が続いてきた。

新しい知識を手にできるかできないかは、学界の中でいかに知識を得やすい立場にいられるかで決まることが多い。血のにじむような努力の上に、いくらかの運が働いたにしても、それなりの組織の一員でなければ、新しい知識にありつくのは難しい(と部外者が勝手に想像している)。

 

ところがインターネットで入手しえる知識がとんでもない勢いで増え続けている。どこに行くこともなく、どの先生にご指導を仰ぐこともなく、独力で知識や情報を漁れるようになった。調べることが、知ることに学者として研究者としての過半の時間をかけてきたものが、インターネットに接続されたPCさえあれば、すべてではないにしても、必要なときに必要とする情報を入手できる時代になった。

 

高名な先生に師事して、先生が敷かれたレールの延長線でしか研究できない時代でもなくなった。まして巷の一私人、先生のご指導など仰ぎたくとも仰ぎようもない。自分の考えで、判断で解釈して、何を知らなければ先に進めないのか、試行錯誤を繰り返しながらしか、やりようがない。それでも、かつてはそれなりの組織に所属しなければ、存在することさえ知り得なかった情報や知識が、巷の一私人でも手が届くようになってきた。
調べ易くなった分、調べ上げた事実を積み上げることによってでは、かつてのように価値を生み出しにくくなった、は言い過ぎにしても、かつてのようにそれがほとんどすべてを決める時代ではなくなった。調べ上げた過去の事実をどう解釈して、どのような視点から何をどう考えて、将来を描き得るかに本来の価値がある。その本来の価値に比べれば、調べあげた過去、そのために気の遠くなるような作業をされてこられたのには敬服するが、そこで一言感想をと訊かれたら、「ご苦労さまでした。よく調べられましたね」という以外になんと言ったらいいのかわからない。

 

フランシス・ベーコンの名言「知は力なり」は、今でもその通りで何も間違いじゃない。何事も知ることから始まる。ただ調べて知り得るのは過去の事実や知識でしかない。知るためにかける時間(や金)より将来を思う方に時間をかけられる時代になった。

インターネットの発展がそれを可能にした。それは、市井の人たちだけではなく、学者や研究者にとっても同じことが言えると思うのだが、どうだろう先生。

 

「由らしむべし,知らしむべからず」の腐れ官僚でもあるまいし、まさか情報や知識をできるかぎり独占して、権威や集団としての利益を守らなきゃなんて考えてるわけじゃないでしょうね。

私蔵した知識を全部、まるごとインターネットに無償公開したとしても、先生の先生たる確なるのも、残ってますよね。まさか先祖代々の資産家が資産を失ったようなことにはならいですよね。ならば、思い切って全部公開してみたらどうでしょう。

ベーコンをもじって言わせていただければ、「知識は知っていただくためにある。それも今や無償で」あたりになるか。

Private homepage “My commonsense” (http://mycommonsense.ninja-web.net/)にアップした拙稿に加筆、編集

 

〈記事出典コード〉サイトちきゅう座  https://chikyuza.net/
〔opinion9528:200311〕