地 獄 を さ ま よ う 魂
――高橋たか子・洗礼まで――
目 次
【Ⅰ】 作家の特徴 (4/5掲載分)
―『渺茫』によって―
【Ⅱ】 わたしが真犯人なの――?(今回掲載分)
―「ロンリー・ウーマン」―
第一章 乾いた響き
第二章 なりすまし
第三章 「それは私です」
【Ⅲ】 眩めく灼熱を歩いたのだ
―『空の果てまで』―
第一章 エピソードいくつか
第二章 哲学少女
第三章 第一の犯行
第四章 第二の犯行
第五章 火急の自分
【Ⅳ】 心性への侵犯
―『誘惑者』―
第一章 言いようもない
第二章 私、不安だわ
第三章 ロマンのかけらもない
第四章 なんでもできる
第五章 詰襟の学生
【Ⅴ】 自分探しの旅路
―「奇妙な縁」―
第一章 老女るりこ
第二章 出会い
第三章 幻影
第四章 羽岡フレーズ
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『ロンリー・ウーマン』は、五編の短編を一本にまとめた長編連作である。各編は独立した短編として読んでも、十分内容の濃い作品となっているが、各編にはいく人かの共通した人物が登場していて、描かれた内容にごく緩い連続性があり、五編が一つのテーマの下に統一された長編としても成立している。この形式は、前の句のどこかを捉えて次の句を作ることにより、前句にない新しい内容を生み出す俳諧の連句を思わせる。『ロンリー・ウーマン』にはこの手法の趣がある。
『ロンリー・ウーマン』五編は発表された順に、「ロンリー・ウーマン」(1974年、作家42歳)、「お告げ」(75年)、「狐火」(76年)、「吊橋」、「不思議な縁」(77年)の四年間に亘っている。この四年間は作家の個人生活の面でも、創作の面でも大きな展開をみせた時期であった。作家は75年にカトリックの洗礼を受けた。創作面では、76年には作家の代表作『誘惑者』が、第四回泉鏡花賞を受賞した。『誘惑者』は【Ⅴ】で検討を予定している。『ロンリー・ウーマン』は、作家がこのように大きな転換をみせた時期にまたがっている点に注目したい。第一編から第五編にかけて、作品の展開の仕方、手法にはすこしずつ変化が認められる。本章では同集所収の同名短編「ロンリー・ウーマン」を検討しよう。
第一章 乾いた響き
作家が描く女性たちは、常に不安に脅かされながら孤独に生きている。彼女たちの不安と孤独は、時代の政治や経済に直接影響された即物的な位相のものではなくて、生の根源に根ざすものである。彼女たちは内面の促しによって、不安を抱え、孤独の深みへと進んで行く。彼女たちはいわば、自己の内面というパンドラの函を開けてしまった人びとなのである。彼女たちは自己の内面の暗部を呼び出して、次第に現実の世界から、超現実の世界へと歩みを進める。創作の立場からすれば、作家は登場人物たちを常に不安と孤独の中に住まわせて、彼女らに内面の凝視を余儀なくさせる。日常の自我と内面の自我、言い換えれば社会的規制の下にある自我と生々しい欲望の下にある自我、この両者の乖離が増幅して、もはや二つが並存できなくなった時、彼女らは超現実へ移行する。前者から後者への心理的移行を、作家がどれほど説得力をもって描ききれるか、そこに作家の力量がかかっている。結論を先取りすれば、本編はいくつか難点が指摘される『空の果てまで』の刊行からわずか一年後の作品であるが、主人公「咲子」を見事に描ききっている。
さて、タイトルとなった「ロンリー・ウーマン」という言葉である。行論の関係上、まずそれに言及しなければならない。
ある二月の寒い夜、咲子は押入れ中の衣装函から肩掛けを取り出した。衣装函の底に古新聞が敷かれてあった。そこに、家庭欄の記事“ロンリー・ウーマン”という見出しが読みとれた。
イギリスの霧深い街ロンドンでは、ある種の女たちを時折見かける。もう若いというのではなく、さりとて老けたというのではないが、年齢の見定めがたい女たちである。彼女たちは大抵一人で歩いている。霧のために陽の射さない、黄ばんだ街を、すこし前かがみになった姿勢で、とことこ靴音をたててすすんでいく。何もすることがない人のように、この大都会の只中をうろついている。彼女たちは何処にいても、かならず見分けがついた。みな一様に、同じしるしを顕わしていたからである。荒廃したものとなまなましいものとの奇妙な混淆が認められるのであった。(少略)そのしるしは、彼女たちが笑っている時にも、そこだけが笑いから取り残されて見てとれた。彼女たちが食事をしている時も、そのしるしは、かがめた背中に痣のように浮き出ていた。彼女たちは社会のどんな階層にもいた。彼女たちは自身で階層を成しているわけではなかった。だが、彼女たちを名ざすには、たった一つの言葉しかない。ロンドンという大都市で、彼女たちはロンリー・ウーマンと呼ばれていた。(『ロンリー・ウーマン』所収 集英社文庫 p31~2 以下引用は同じ)
この記事は、作家の創作なのだろうか。『空の果てまで』は実際に起こった事件によって、作品が構想された。『誘惑者』の執筆も現実に起こった事件に基づいている。この記事は、現地駐在の女性記者がいかにも書きそうな内容になっている。作家はこの新聞記事に触発されて、「ロンリー・ウーマン」の構想を得たのかもしれない。
この記事はロンドンの一風俗をスケッチしたものだ。「もう若いというのではなく、さりとて老けたというのではない」ミドルエイジの女性たちがすこし前かがみになって、とことこと歩く姿は、ロンドンに限らず、パリや東京で現今でも見られる情景のひとつである。この記事のポイントは、「荒廃したものとなまなましいものとの奇妙な混淆」が、誰にとってもそれと分るように、まるで「痣」のように背中に浮き出ている箇所だ。「なまなましいもの」とは、女性たちが実現しようとして、果たせずに抱え込んだ欲求の深さである。それらは、職場での性差別であろうし、虚ろなルーティンな毎日の生活であろうし、性の欲望でもあろうし、将来への漠とした不安でもあろう。女性たちはそれらの欲望が決して十全に実現できないことを自覚している。ここから、この女性たちの内面生活の「荒廃」が始まる。実現できない欲望を抱えたまま生きてゆく彼女らには、“諦め”と“忍従”しか残されていないのか。楽しいこと、喜ばしいものから取り残された彼女たち、これから長く陰湿な暗さを耐えねばならないのか――、これが「ロンリー・ウーマン」の運命なのであろうか。
本編主人公・咲子はこの記事をどのように読んだのであろうか? 「部屋のまん中かに突っ立ったまま、咲子はもう一度その言葉(ロンリー・ウーマン)を口にした。その言葉が意識に強く貼りついていた。記事の中で言われている陰湿さはなく、むしろ乾いた響きで、その言葉を咲子は口にした」(p32) 「乾いた響き」、ここがポイントである。咲子はこの記事から、女の宿命といった暗さは読みとらなかった。むろん、晴朗な明るさを受け取ったはずはない。果たして、この「乾いた響き」はロンリー・ウーマンである咲子をどこへ導くのであろうか。
作家は小説の冒頭部分によほどの苦心をみせている。冒頭の2~3ページまでで、主題の在りかを暗示したり、主人公の状況の切迫さを予告したりする。【Ⅰ】で論及した「 渺茫」の冒頭がそうであった。【Ⅳ】で検討する『誘惑者』の冒頭も秀逸である。本編の冒頭を見てみよう。
咲子は自分が夢のなかで、長い呻き声をたてているのを、ぼんやり意識していた。それは躯の奥の,どこか茫漠としたところから、何かを絞りあげるふうに出てきて、口の近くに達するのだが、どうしてもそれが口の外に出てしまわない辛さが伴っている。呻き声は、一定の間をおいて、繰返し繰返しのぼってきた。口から出ないのに、音となって聞えている。音が一刻一刻大きくなってきて、その迫ってくる胸ぐるしさに、咲子は目を醒ました。(p7)
半ば眠っており、半ば意識が動き始めている不安定な状態の中で、ひとは自分の赤々裸な姿を知ることがある。眠りから目覚めへ向かう薄明の時間が、昼間、識ることのできない心の有り様をあからさまに語る。ナイトメアー(nightmare)という語がある。睡眠中魔女に襲われたひとは、窒息するのではあるまいかと思われるほど恐ろしい夢を見て、寝苦しさのあまり目を醒ます。咲子はナイトメアーを見て息苦しい呻き声を出したのであろう。その呻き声は「まるで、どすぐろい獣が生きていて、発しているような、自分のものとも思われない」ような淫らで、生々しいものだった。その苦しい声は、口許まで来ているのだが、どうしても音として声にならない。しかも、その苦しい声は一定のリズムを伴って、一刻一刻と大きな音になってゆくのだ。――すると、咲子はその声が実は自分の声ではなくて、消防自動車のサイレンである事にようやく気がついて、眠りがはっきり醒めた。咲子はベッドに仰向けになって、近づいてくるサイレンの不気味な響きを聴きながら、先ほどの寝苦しい夢を思い返していた。
夢が告げ知らせる咲子の内部の異常と、火事という外部の変事とが、咲子の不透明な意識の中で融合して、彼女の心身を縛りあげる。闇夜を裂いて近づいてくるサイレンの音によって、たった今見たナイトメアーがますます恐ろしいものになってゆく。咲子の精神の危機が、繰り返し鳴るサイレンの音によって倍化されて、咲子の意識を縛る。咲子の内的危機と外部の変事が一体化して同時に進行する。こうして、冒頭の一ページたらずの叙述が本編の基調を形成する。
咲子は山火事かと思った。いや、隣家が燃えているのかと思ったが、火事はかなり離れた小学校であった。夜更けにだれもいない学校から火が出るのは不審火ではあるまいかと思いつつ、そこで納得すると咲子は再び重い眠りの中へ落ちた。
夜が明けた。体育館が全焼していた。幸いに、昨夜は風がなかったので、火は山林にまで移らずに済んだ。だが、隣家の一人暮らしの老女は、この火事で早朝から気を昂らせて、だれかれとなく相手をつかまえては喋りまくっている。老女は語尾をきんきんと上げながら、長い間雨がないのだからタバコの残り火一つで山火事になりかねないと声を高くする。いつも和服を上品に着こなしている白髪の老女は興奮を抑えようともせずに、
「そりゃ五十二日も雨が降らないからですよ。こんなに喉までからからになるほど乾いていれば、ぽっと火ぐらい出ますよ」(p12)
「何しろ、私は内蔵までからからになっているんですからね」(p13)
この白髪の老女は本編の第二章「お告げ」にも登場するのだが、ここではいわば狂言回しの役を演じている。咲子は近所の人たちが話す、「長い間雨がない」、「晴天続きだ」、「乾燥しきった家や山」と言った断片を耳にしながら、出勤の途を駅へ向かう。途中で見た体育館は完全に燃え尽きていた。もしも体育館に人がいたら、その死体は焼け落ちた建物と区別がつかないくらい黒焦げになってしまっていただろうと思いつつ、ふと空を見上げると、そこには「残酷なほどの青空」が広がっていた。
咲子は老女の言い回しに心を惹かれた。「喉までからから」、「内臓までからから」という表現がひっかかる。老女はこうもいっている、いまに「みなさんの口からぽっぽっと火が」出ますよ。咲子には、異常乾燥が単なる天気具合とは思えない。その点で咲子は老女の言い回しに共感できた。咲子は、晴天続きがもたらした乾きを、“心”の乾きとして受けとめている。昨夜の火災が、乾ききった咲子の精神と連動しようとしている。咲子は空を仰ぎ見た。空は残酷なほどに青く澄みわたっていた。むろん、青空が残酷なはずはない。が、咲子の内心の有り様が、残酷という心象を生み出したのだ。作家の眼は、残酷な青空の中に、咲子の刺々しくギラつく欲望の行きつく先を見ている。
第二章 なりすまし
咲子は大学を卒業後すぐ会社勤めを始めて今年で六年目である。上司から与えられる仕事は、自分の掌を見るように容易に済ますことができる。が、その仕事は上司のための下準備か資料集めが主であって、彼女の能力が発揮できるような、やりがいのある仕事は回ってこなかった。同期の男子社員は3~4年もすると、早くも咲子の上の地位にいる。会社の総務は、人件費削減のために彼女の「寿退社」を望んでいるのではあるまいかと勘ぐりたくなる――、大会社によく見られる図である。
咲子はとっくに興味を失った一日の仕事を終えて、寒い夜道を自宅へ向かっている。家の近くまで来たところで、咲子は背後に人の気配を感じて振り返った。中年男がまっすぐ咲子に近づいて「警察の者ですが—-」と告げた。私服の警官が現場周辺の聞き込みをしているらしい。今回の事件で咲子は初めて警察の者と接触した。勤務を持つ咲子には、近所の世間話や噂話はめったに聞く機会がなかった。火事に対する興味に惹かれて、彼女は自宅の門扉越しに、私服の話に応じた。私服は咲子の警戒心を解くためかよく喋る。放火です、同じ手口が他にも二件あって、どれも小学校で、石油を使っています、一つの学校に二回も放火してます、それに昼間もありました—–という刑事の話によって、咲子ははじめて事件の輪郭を知ることができた。咲子は想像力を刺激された。警察の現捜査段階では、犯人は大人か未成年者か、常習者か変質者か、男か女か等まだ絞り込まれていないようだった。ところが咲子は驚くべきことを刑事に言ってしまう。
「誰がやったのですか」
咲子は妙に気持ちが高ぶってくるのを感じながら言った。
「それがわかってれば、夜更けにこんなところに立ってはいませんよ」
「いいえ、男か女か、ということ」
咲子は一瞬、自分の中をのぞき込む気持になった。
「変なこと言いますね。わかってなければ、男も女もないですよ」
「私は女だろうと思います」(p17)
咲子には、聞き込み中の刑事に不用意な話をしてしまったという実感はない。咲子という女性は、一時の感情に駆られて、軽はずみな話をする女性ではなかった。「私は女だと思います」と言った直後、彼女は一瞬自分の心の中をのぞき込もうとした、と作家は記している。なぜ咲子は犯人が「女だ」と思ったのだろうか。女はこの社会で特別に抑圧され、差別され、鬱屈を強いられている存在なのだ、つねづね考えていた。だから抑圧による欲望の突出が放火を生んだのだ、と咲子は判断したのであろう。犯人は「女だろうと思います」と刑事に言ってしまったために、警察との煩わしさに巻き込まれはしまいかという、誰でもする警戒心は、咲子にもあったはずである。だが、それ以上に、咲子にはこの放火事件の犯人が、世の中の喜ばしさから取り残された例の「ロンリー・ウーマン」であって欲しい、という思いが勝ったのだ。実はこの瞬間、つまり犯人は女でしょう、と言った瞬間、咲子にとってこの事件は「対岸の火災」ではなく、彼女の内面に深くリンクする放火事件となったのである。後日咲子は「火事が自分の内部へ忍びこんで来た」ともいっている。
私服刑事は咲子の話に、にわかに興味を抱いた。
「ほほう、なぜ」
「ふとそんな気がしただけですけど」
「だが、断定的におっしゃる。誰か怪しい者でも、昨夜ごらんになったんですね」(p17~8)
と強く言った。玄関先の立ち話しなので咲子は話を切り上げようとしたが、刑事は「もう少しお訊ねしたい」と食い下がってきた。咲子はハンドバックから鍵を取り出しながら、「明日いらしてください。土曜で、休みですから」と言ってドアーを閉めた。
翌日の土曜日、咲子は散歩がてら火災現場へ足を向けた。途中で、和服を端正に着た老女が、気ぜわしい甲高い声で近所の人たちと話しこんでいるのに会った。火事の話であろう。咲子はその時ふと、この老女の心の内部にも自分と同じような気持ちの異常な昂ぶりがあるのに気づいた。そういえば、大きな建物に一人住まいしている老女の部屋から、時々人の声とは思えない喋り声が聞えるが、あれは一体なんだろう――、咲子はそんなことをぼんやり考えながら、老女の脇をすり抜けた。
火事の現場では、焼けてむき出しになった鉄骨だけが、青空の下で陰惨に突っ立っていた。咲子は焼け落ちた体育館の無残な姿を見ながら、
燃えあがる体育館のなかに閉じこめられたまま、甲高い悲鳴をあげている幼児たち(p21)
出口のない焦熱地獄のなかで、悲鳴をあげながら焼かれている、おびただしい幼児たち(p25)
のイメージを脳裏にうかべていた。このイメージは咲子に執拗にからみついて、これからも本編に現れる。幼児焼死の残酷なイメージは、どこからやって来たのだろうか? 咲子についていえば、幼児特有の疳走った声や、学校での子供のざわめきが好きになれない、という記述はあるが、幼児焼死につながるような強烈なイメージがどこから生まれたものなのかは、本編では明らかにされていない。
作家の“子供”についての特異な見解については、これまで論及(「渺茫」の清子参照)してきたので再考は避けるが、上の引にからめて、咲子については一点だけ確認しておきたい。
この場合、上記のような惨劇のシーンが咲子の脳裏を突然よぎったわけではなかろう。子供たちが火災によって生きながら殺されるサディスティクな場面を、彼女は日ごろから想い描いていては、そこから性的な快感を得ていたはずである。作家は“欲情”については慎重に筆を避けているが、このような加虐的な夢想は、欲情抜きには語れない。ここでは、咲子の内向した欲望の深さを知るべきである。
咲子が散歩から自宅へ戻ると、前夜約束したように刑事が待っていた。刑事は当然咲子に強い関心を示している。刑事の一直線に伸びる強い視線を意識しながら、咲子は玄関の上がり框で対応した。高橋たか子という作家は、鋭い論理によって人間心理を描く点で優れた作品を残したが、会話によって登場人物を活写する点でも、なかなかの手腕を見せている。本編のこの場面での二人のやり取りにも味わい深いものがある。ちなみに、若い女性の恋愛妄想を描いた『怒りの子』は京都弁の日常会話を縦横に駆使して、発表当初から話題を呼んだ。
二人の会話は本編p23からp30まで続く。刑事は咲子に「たしか女とおっしゃいましたね」と話の口火を切った。それに対して咲き子は「言いましたわ。それで、その女が、いったいどんな風に事を起こしたのですか」と逆に刑事に訊ねた。聞き込みをしている刑事が逆に質問される立場に立たされている。先に記したように、警察では犯人が男だか女だか判断しかねていた。だが咲子は、そんな捜査当局の悩みをはるかに越えて、犯行の動機にまで話を進めてしまう。
「小学校ばかりねらってるんですって?」
「ええ、これで三件目です」
「なぜ?」
「それは放火犯に訊いてみなければ」
「私にはわかりますわ」
「あなたに?」
「わかるんです」(p24)
刑事の方は咲子の「わかるんです」を聞いて、緊張のあまり息を飲んだ。犯人像のみならず、動機まで話をしだすとなれば、「今、目の前にいるこの女が犯人に違いない」と思うのは当然である。他方、咲子の方は、半ば無意識のうちに、自分のストーリーを作って犯人に“なりすまそう”としている。「わかるんです」と断言したその瞬間から、彼女の暗い想念にはブレーキが利かなくなっていた。彼女の「わかるんです」との断言には、もちろんなんの証拠もない。この放火事件が女の仕業であって欲しいという咲子の願望を、強調したまでなのである。放火犯が女であって欲しいという咲子の願望の強さが以下の引用文ではっきりする(なお、引用では地の文は省いてある)。
「でも、その二件目とやら、昼だったのでしょう。小学生がまだ建物のなかに一杯いる時間に、放火したのでしょ。一件目と同じ犯人なのですか」
「さっき言ったでしょう、手口が同じなのです」
「石油ですね」
「ポケット・ウイウキーの空瓶に石油をいれて持っていったようです。空瓶がかならず残ってましてね。点火すると、さっと逃げさる」
「さっと逃げ去る? なぜ?」
「当たり前でしょ」
「その女は、そうはしませんでしたよ」
「女って、あなたはあいかわらず、女にこだわりますね」
「その女はね、まだ小学生がわいわい騒いでいる時間にね、石油をふりかけて火をつけると、それから、ゆっくり廊下を歩いていきましたよ」(p27~8)
咲子の暗い想念には、完全にブレーキが外れてしまっているのがよく分るであろう。まるで咲子が現場を目撃したかのように、彼女は犯人になりすまして、犯行の細部を饒舌に語っている。咲子の話で注目されるのは、この事件が、世間を騒がせてその様子をこっそり「よろこぶ」愉快犯や、むしゃくしゃして何かぱっつとやりたくなった粗暴犯の仕業ではなく、昼日中、目撃されるのも恐れずにゆうゆうと実行に及ぶ“確信犯”の犯行だ、と言っているところである。
咲子の喋りには、たぶんに自己顕示欲がからんでいる。日ごろ社会の片隅で忘れ去られたようにひっそりと生きてきた咲子に、自己を語る場はめったにあるものではない。作家は咲子に同情を示して、「咲子は珍しく饒舌になっていく自分を意識した」と記している。確かに咲子に自己顕示欲もあろうが、しかし彼女の放火に対する基本的な確信は既に記したように、社会に対する復讐である。その意味で、犯行は確信犯によるものでなければならなかった。刑事はいつまでも咲子に尋問される立場に立っていなかった。刑事は咲子に「ほほう、大変な推理ですね」(p28)と言った。
「大変な」とは、大胆なというほどの皮肉をまじえたコメントなのだが、それ以上に、そこまで大胆に推理するとなれば、“あなたの身に、ただでは済まない大変なことが起こりますよ”と言外に匂わせている。「大変な推理」は、犯人はこの女だという刑事の心証を示している。刑事はさらに、「どなたにも一応訊ねているのですが」と前置きして、「お宅は石油ストーヴを使っていますか」、「自転車はありますか」と訊ねて、咲子へ鋭い視線を送った。刑事にこう質問されて咲子は急に胸騒ぎを覚えた。
胸さわぎを聴き取るふうに、咲子は自分の中をのぞきこんだ。どこか暗く凹んだ底のほうから、夢で聞いた、あの呻き声が立ちのぼってくるかのようだった。呻き声をたてているのが放火犯であるような、そんな感覚のたゆたいのなかで、咲子はぼんや立っていた。(p29)
こうしてこの短編は、ここで、冒頭の「夢魔」の部分と重なる。真夜中に火災現場へ急行する消防車が鳴らすサイレンの音と、咲子の内面を領有する重く、暗い情念が一つになって、もしやあの呻き声が真犯人ではあるまいか、と咲子は思い始める。そう思うと咲子は、恐ろしさで総毛立つほどの激しい身震いを感じながらも、他方で、その思いは暗く淀んだ咲子の内部を刺し貫く一条の強い光にも見えたに違いない。
咲子はその夜の十時頃、急に思い立って外へ出る気になった。「犯人」が石油の入ったウイスキーの小瓶をポケットにしのばせ、古びた自転車に乗って、犯人が底冷えのする住宅街をうろついているのではあるまいか、と思ったのである。彼女は毛皮の肩掛け探すために衣装箱を開けた。箱の底にきちんとたたまれた古新聞が咲子の目に留まった。その新聞記事こそ、冒頭で紹介した「ロンリー・ウーマン」の記事である。読みおわって彼女は、陰湿な調子ではなく、むしろ乾いた響きで、「ロンリーウーマン」と呟いた。――乾いた響き、それは放火を連想させる響きであるとともに、社会に対する復讐の快感をも含んだ響きである。
第三章 「それは、私です」
快晴、微風、寒冷の日曜日の朝であった。咲子は買物も兼ねて町へ散歩に出た。近所の主婦たちのひそひそ話をやり過ごして歩いて行く。朝から妙に喉が渇く。強い渇きを我慢しながら、バスに乗って駅前で降りた。寒気の中で青空がぴーんとはりつめている。「ああ、喉が渇く、真冬なのにどうしてこうなのだろう」と呟きながら歩いていると、突然、階段の上のほうで「やっぱり来ましたね」と男の声がした。
「やっぱり?」
と、咲子が眼をあげると、例の刑事が白い広い階段を下りてくるのが見え、そこは警察署なのであった。
「あなたは人がわるいですよ。情報をお持ちのくせに、隠してられて、ちらちらお見せになる。放火犯らしい人物について御存知なんですね」
刑事は上がってくるように手で合図した。強引に呼んでる気配がある。(p36~7)
作家はなんの説明もせずに、いきなり「そこは警察署なのであった」と書いている。咲子は散歩のつもりで外出したのであった。ここ数日というもの、火事、放火で頭が一杯になっていた咲子は事件のことを考え考えするうちに、知らず知らずのうちに警察署に足が向いてしまった、ということなのであろうか。上記引用文から察する限り、咲子が発作的に警察に出頭したとは考えられない。それとも「見えざる手」が彼女を警察へ導いたのだろうか。
実は、咲子の次の一言が本編のもっとも重要な所なのである。既述したように、咲子は金曜日の夜刑事の聞き込みを受けて、放火犯になりすまして刑事に応対した。土曜日の午前中も同様に振舞った。なりすますことによって、咲子は彼女の暗い想念を挑発的に、警察と言う社会機構へぶつけたのであった。ここまではいわば咲子の演技であった。ところが、警察署の応接室で刑事と向き合った坐った時、
「私がしました―――」(p40)
と、一度ならず口の中で呟いている。「私が火を付けました。犯人は私です」と大っぴらに言わないまでにも、放火犯が自分であることを咲子は自ら認めたのである。ここまでくると、咲子はなりすましから本物へ転化している。なりすましから本物への転化、これが本編のポイントだと筆者は考えているが、作家はこの肝心な部分について十分に書き込んでいない。以下、筆者の問題意識に沿って本編を検討しよう。
刑事は咲子にひとつひとつ確認させて、調書の作成にかかっている。
(刑事;)一件目(の放火)は一月二十九日の夜、十時ごろ。
(咲子;)「その夜、私は家にいましたけれど、家主は留守だし、誰も私が家にいたことを知りませんわ」(p38)
(二件目は;)二月三日、土曜日の午前十一時頃(省略)
(咲子;)「土曜日って会社お休みですから。(省略)でも休みだから、家にいました。一歩も外へ出なかったなんて、誰も証明くれませんもの」(同上)
咲子は自らアリバイの不在を喋っている。事件にふさわしい用語を使って、この時の咲子の行動を整理すれば、咲子は警察署へ自ら出頭して、任意で刑事の聴取に応じて、アリバイ不在を自供したとなろう。なりすましの咲子が消えて、真犯人の咲子が出現した。
作家は演技としての放火犯から、本物の放火犯として現れる咲子の心理の変化を語っていない。なるほど作家は、殺風景な応接室(実は取調室)を叙しながら、事件の概要を喋り始めた咲子の心理を、「血でも吐きそうな胸ぐるしさをおぼえた」、「真赤に灼けた鉄のような感触が、喉をつたって躯の中枢へ落下していった」(同上)と記してはいる。だが、もっとも重要ははずの演技者から本物への咲子の心理の葛藤、両者のせめぎあいは語っていない。演技者から本物への咲子の心理的苦悩が生々しく描写されていれば、本編はもっと厚みのある普遍的課題、すなわち「分身」という意識の二重性に迫る事ができたであろう。参考までに記せば、作家は本編で「なりすまし」、「分身」という表現は用いていない。筆者が本編の解明のため便宜としたまでである。
本編に戻って、刑事は改めて、咲子へ「並岡さんといいましたね」と訊ねた。これに対して、咲子は「私は山川と申します。山川咲子です」と告げた。「並岡」は実は、咲子に住まいを貸している家主の姓であった。咲子は近所の人びとの間でも、並岡で通っていたのだが、作家は、咲子が刑事と対決するこの場面で、彼女の姓を明らかにした。これは何を意味するのであろうか? 事件の演技者として振舞っている限り、山川咲子は鈴木でも佐藤でも差し支えないのである。演技者である限り、「咲子」は一般名詞にすぎない。咲子が真犯人として登場するのを待って、作家ははじめて、「山川咲子」という人物を特定したのである。この場面以降、放火事件は「なりすまし」の迂回路なしに、直接「山川咲子」の事件として成立したのである。司法は山川咲子に刑事責任を問うであろう。咲子の立場に立てば咲子は自分自身の内面の問題として、この事件にかかわる事となったのである。
咲子は半ば放心状態のなかで、刑事に供述する――、
「最初は闇のなかに立ちあがる炎をたのしむだけだったのです。それ自体がうつくしいのですからね」(p39)
「夜の火事から昼の火事へと犯人の気持が変わった。ああ、それは、子供たちのせいですわ」(p40)
山川咲子は刑事が差し出したコップを手にして、一気に水を飲んだ。「ああ、喉が渇く」。
本編は、緻密に構成された、まとまりの良い短編である。作中人物は、和服の老婆を入れても三人である。事件は、金曜日の明け方に始まって、日曜日の午前中に一応の結末を得る。この明瞭にして単純な構成は、緊迫したストーリー展開と濃密な心理描写の筆致によって裏打ちされている。咲子と刑事のアップテンポな、短い会話のやりとりは、緊迫したストーリーを盛りあげてくれる。また、本稿では触れなかったが、作家は最後のページで、和服の老婆に短編小説によくある「落ち」を語らせている。
しかし、本編を成功させた最大の要因は、なんと言っても、主人公咲子を直接の放火犯に仕立て上げなかった点にあろう。咲子を直接の犯人とした場合には、作家には一連の事件や登場人物について、読者が「なるほど」と納得する最低限度の合理性が要求される。作家は、咲子を観念上の放火犯、筆者の用語を使えば、「なりすまし」犯とすることによって、そのような制約を免れたれた。作家は、咲子をなりすまし放火犯にすることによって、彼女に自由奔放な火事のイメージを可能にさせたのである。本編のキーフレーズになっている「放火犯は女ですよ」という咲子の主張も、なりすまし犯であるがゆえに成立したプロットである。昼間体育館に閉じ込められた学童たちが焼死するサディスチックなイメージも、同様である。咲子は放火の真犯人の行動をあれやこれや想像し、寧猛な炎を上げて焼尽する火事現場を空想しては、気持ちを昂ぶらせる。その昂奮がさらに放火のイメージをサディスチックな方向へ展開させて行く。
ところで、筆者は咲子を「なりすまし」犯として扱ってきたが、実は、咲子が真犯人だった、と解釈する余地もないではない。なにしろ咲子自身が「(私が放火)しなかったという証拠はどこにもない、自転車もある、ウイスキーの空瓶もある、石油ストーヴ用の石油もある」と密かに呟いているのだから。しかしこのように読むと、本編は底の浅い愉快犯の放火事件で終ってしまう。筆者は、本編を不十分ながら意識の二重性を扱った心理小説として読み、敢えて咲子を「なりすまし」と解釈した。
――では、犯人でもない咲子はなぜ自ら警察署へ出頭したのであろうか? この点については、作家はわずかなことしか記していないので、その理由は読者が推測する以外にはない。最後にその点に触れて本稿の結論としたい。
“視姦”という語がある。異性を見て、色情を感取したときには、それは強姦も同然である、という極めて高度にストイックな精神態度を指す。咲子にも、そのように高度な心的体験が生じたのではなかろうか。咲子は刑事との接触の過程で、彼女なりの犯人像を造っていった。しかもその犯人像は次第に過激になって行った。本論稿でたびたび指摘したように、咲子によれば犯人は「女」、それも偏執癖を思わせる「しつこい女」であった。夜間校舎が炎上するのを見て、苦しいほどに胸が締め付けられて昂奮する「女」であった。昼日中、中学校に放火した犯人は、周囲から十分目撃される立場にありながら、大胆にもゆっくりと現場を立ち去る「女」であった。しかも、体育館に閉じ込められたいたいけな子供たちが、大勢焼死するのを望む「女」であった。
咲子は一連の放火事件をこのように想い描いたのである。咲子の深層心理に即して推測すれば、彼女は一連の放火事件をこのように追体験したと言ってよい。意識の深層においてこれほどに深刻に放火事件を追体験した山川咲子は、たとえ放火という実行行為に及ばずとも、心性において真犯人と同断である、と言えまいか。
咲子は自ら真犯人であることを自覚して警察へ出頭した。そうする事によって、咲子をロンリー・ウーマンとして世の中の片隅へ追いやろうとする社会に対して、身ひとつを以て異議の申し立てを行ったのである。
――さてその後、咲子はどうなったのであろうか? 本編では作家は何も記していない。だが、連作最後の一篇「不思議な縁」の最終場面に、山川咲子は遺書を身につけた自殺体となって読者の前に現われるのである。(了)
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