わたしの八月十五日~薄れゆく記憶をとどめたくて(2)変電所への機銃掃射を見た

 疎開先の佐原での落ち着き先が、仁井宿の馬市場跡の管理さんの家だった。前回は、8月15日の薄れた思い出をたどった。

そして、それよりどのくらい前だったのか。「変電所」への「キジュウソウシャ(機銃掃射)」の様子を、この目で見ている。まだ、私の背丈では、窓には届かないはずだから、母か兄かに抱っこされて覗いた窓の先、たしかに幾つもの「ショウイダン(焼夷弾)」が斜めに落ちて来るのを見たのである。大人たちが騒いでいたので、「ワタシも見たい」とせがんだのかもしれない。夜のような気もするし、昼間だったのか、棒状のバクダンが斜めに流れで落ちていくのを瞬間的に見たのだ。何日のことだったのか、佐原市の市史でも見れば出てくるだろうか。

ネットの限りでは、確かな情報は出てこないので、あきらめかけたころ、「終戦のころの思い出」の寄稿を集めているサイトがあった。そこに、谷口敏夫さんという方が、仁井宿の変電所への爆撃で、家族を亡くされたことを書かれていたのである。http://www.s-s-m.jp/hiroba/zuisou/shusen_04.htm

谷口さんご自身は、1943年9月、中学校3年の2学期に予科練を志願、土浦海軍航空隊に入隊し、1945年4月に鹿島海軍航空隊の飛行練習生課程を修了し実戦部隊の霞ヶ浦海軍航空隊に転属し、6月頃から筑波山麓の真壁の農家に民宿して、そば畑をつぶして飛行場を作る作業に従事していた。7月20日過ぎに上官から、佐原の実家が空襲に遭い、家族が怪我をされているからと知らされ7月24日に帰省すると、7月4日の爆撃で、弟さんが即死、母上は重傷のまま亡くなり、葬式も済んでいた。父上は、東京電灯(後の関東配電、現在の東京電力)勤務で当時は銚子営業所に通勤されていて、変電所前の社宅に家族で住まわれていたという。

私が見たのは、この7月4日の爆撃ではなかったのか。正午前で、警戒警報の直後で、谷口さんのお宅では、小学校から帰ったばかりの弟さんと母上を亡くし、妹さんも大怪我で回復まで苦しんだという。すぐそばで、こんな悲劇があったことは知らずにいた。大人たちは知っていたのだろうか。そんな話は、後にも聞いたことがなかった。爆撃機は、P51 ムスタングだったという。

降伏が伸びていたら、この疎開先の佐原の町も焼け野原になっていたかもしれない。7月7日、千葉市では、「七夕空襲」で多くの犠牲者を出している。6月10日の日立航空機工場の被害と合わせて、死傷者1595人、千葉市街の7割が焼失している。

 

初出:「内野光子のブログ」2017.08.23より許可を得て転載

http://dmituko.cocolog-nifty.com/utino/2017/08/post-9e0f.html

〈記事出典コード〉サイトちきゅう座  https://chikyuza.net/

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