アジサイの季節になって―長めの論評(七)

 政治、あるいは政治運動とはなんだろうということをよく考えた。これを論じるには一冊の本が必要かもしないが、簡潔にいえば人々の意思(心の動き)が共同意思として現象するものであるといえる。人々の意思というときは諸個人の意思の総和という面と歴史的(時間的)に積み重ねられてきた意思(ルソーの言う一般的意思のようなもの)の二つの側面を持つ。この二つは個人の意思(自己意識)としてあるが、生成の基盤は違うのである。僕がこの文章の中でしばしば用いてきた、政治情勢論的判断は時代的な政治的判断である。

  1960年を前後する段階で政治情勢論的判断として歴史的な世界の動き、その中で国家の動きは米ソ対立という枠組みとその戦争をどう理解するのかがあった。この枠組みをイデオロギー的に根拠づけるものとして「社会主義と資本主義対立―人類史の段階を画する対立論」が存在していた。少し、前はアジア解放と大東亜共栄圏をめぐる対立が世界史的段階を画するものいう論議があつた。

  国家間の対立というナショナリズム的な対立が歴史段階的な主張という衣装を持つことが避けられなくなったといえる。歴史的な段階としての国家間対立を自然なものとして主張できなくなったことであり、これには戦争の問題が存在していた。第一次世界大戦以降、国家と戦争の歴史段階が変わったという意識が流通していたのである。

  1960年前後の政治情勢論的判断という意味では吉田と岸にはアメリカの外交―安全保障戦略(共産主義圏の封じ込め、冷戦論)に同調するという共通性があった。だが、それに対する歴史判断(将来を含んだ認識)では違いがあり、吉田の方が幾分懐疑的だった。彼は早い段階で中ソの対立を予測していた。どちらもナショナリストであるが、頑固に見えた岸の方がアメリカの戦略に同調的であった。これに対して左翼陣営では共産党と社会党(総評も含め)とがあり、それに同伴する知識人がいた。こちらの政治判断はソ連圏こそが人類史の立場にあるものであり、戦争に対して平和にあると主張していた。スターリンの武力的解放路線が平和共存路線に転換を受けての主張である。当時、ソ連圏に属する国家は衛星国と呼ばれ、主体性のない国家とみなされていたが、左翼は内部で違いを含むがソ連(コミンテルン)に忠誠を誓っていた。米ソの対立の絶対性という枠組み、その現実性に疑念を唱えたのは共産主義者同盟だった。

  政治情勢論的判断に別の考えを導き入れたのである。

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