アジサイの季節になって―長めの論評(十五)

著者: 三上 治 みかみおさむ : 社会運動家・評論家
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 「戦争は政治の延長である」とはあまりにも有名な言葉であるが、政治(国家)につて戦争は避けられない不可欠のものだというのがナショナリズムである。国民の安全と財産を守るために軍隊が必要であり、絶えず戦争に備える必要があると。安全と財産を守る戦争なんてあるかという疑問は多くの人が抱くものだと思う。だが、軍隊は国民の安全と財産を守らない(?)とまではなかなか言いきれないのが現状だろうが、軍隊が国民の安全を守ることはないというのが、太平洋戦争で国民が得た大きな経験の核心にあることではないのか。沖縄ではこのことはことのほか深かったのだと思う。侵略など起きないとは言えない。その場合は自分で事にあたり、軍事を組織して戦うことはあっても国家の常備軍なんてあてにできない。軍隊なんて役に立たない。

 戦争についての常識を否定する考えは、まだ孤立していても世界性を持ち広がりがある。軍隊(常備軍)を持たない国家という常識を離れた国家が存在しえる時代になりつつある。そこへいたるには中間経路として、段階的なことが必要でもこの究極的なイメージは基盤を得ている。沖縄の地域住民のナショナルな戦争観はこれと同じ質だと推察される。この沖縄人々の戦争についての思いが本土復帰しても実現はしないだろうということが、沖縄独立論や南島論の背後に存した。この戦争観は国家に対する国民の自立性がなければ実現できないし、国民の自立性は日本では<国家と国民の一体性>という意識を破らないと生成されない。ナショナルな意識や感情が表出意識として登場するには、それらが不断に別のものに変えられてきたナショナリズムから自立し、自由になっていなければならない。ナショナルなものとナショナリズムの構造的違いを自覚的に把握していないと、ナショナルなものはナシュナリズムに取り込まれるか溶解していくのである。沖縄復帰論をその意図はともかく結果としてはそうなって行くと見えたのである。沖縄地域住民がかつて日本のウルトラナショナリズムに同化させられた戦前―戦中の経験を踏まえ、また日本国に本土復帰で失うものを否定するにはどうすればいいのか。沖縄地域住民のナショナルな意識を自立的に表現するには本土復帰論を超えるものが必要である。そうでなければ「沖縄が帰らないと戦後は終わらない」という佐藤首相の言葉を超えられない。沖縄には天皇統治(国体)が日本に成立する以前の古い共同意識[時間意識]があり、それは天皇制を相対化できる。天皇制的な日本のナショナリズムから自立し、自由になる基盤たりえるということだった。

〈記事出典コード〉サイトちきゅう座 http://www.chikyuza.net/
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