1960年に僕は上京をして大学にはいるのだが、汽車から眺めていた村々をかすかに記憶していた出征兵士を見送った光景と重ねていた。送り出された兵士や、送り出して村民たちは今、戦争についてどう思っているのだろうと知らず知らずの内に考えていたのだった。記憶も定かでない幼少期に形成された戦争の記憶は無意識も含めて僕の中で予想以上のものとしてあったのだと思う。僕の安保闘争への参加にはこれは大きく機能していたのだと思える。
新安保条約に反対する考えは当然ながらアメリカの世界戦略とそれに同調していく日本の動き、そのような日本の選択に対するものに向けられていた。戦争に対する危機感が安保闘争を支えた一つの側面であることは間違いなかった。もう一つは政治・社会的権力の強権化に対する危機感があった。この二つは<戦争>と<民主主義>をめぐる側面と言い換えてもいい。民主主義と権力についてのことは後の方で言及するが、ここではまず戦争のことについて触れる。
よく知られているように安保改定(新安保条約)に反対する運動(国民的意思表示)において二つの考えが存在した。それはこの運動の指導的立場にある部分の考えである。一つは日本共産党や社会党(総評を含む)などの革新陣営のものである。反米愛国的な考えである。(共産党と社会党などの考えに違いはあったがここでは触れない)。もう一つはブントや全学連主流派の考えでこちらは反帝反独占的な考えである。日米安保条約に反対することはアメリカの世界支配(戦略)に反対することだから、反アメリカというのは当然のこととしてある。反安保ということはアメリカの安全保障という世界支配と戦争に反対することであった。日本共産党などの反米にブントや全学連は何故に反対したか。その一つはこれがソ連(コミンテルン)の戦略から出てきたものであり、アメリカに対抗してソ連の立場に立つものだったからだ。これは保守―支配層のアメリカの側に立つ考えと裏腹だった。米ソの対立と世界支配の枠組みが絶対的で現実性とはここしかないと思われた時代だったが、反米と反ソは相似的であり、戦後世界との連なり方では同じだった。安保反対ということ自体が反米的のことを含むのであるが、戦略的に反米ということをブントや全学連が避けたのは、この立場がソ連側の世界支配の理念に連なるのを拒否していたからである。ブントや全学連は左翼(世界の現状を否定)的立場にあったが、ソ連側に立つ左翼ではなく独立左翼というべき位置を取ろうとしていたのである。