アダム・スミスの読者、バーンズ

 以下の文章は筆者の野沢が千葉大学在職中の1997年、千葉大学附属図書館に収められたアダム・スミスコレクションに付けた「アダム・スミスコレクション解題目録」所収の解説文である。最初は冊子体であったが、本年2022年になって同図書館が電子化して公開した。それを契機にして筆者が書いた「解説 アダム・スミスの読者、バーンズ」の部分を「ちきゅう座」に投稿することにした。一つの読み物として受けとめていただければ幸いである。

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 本コレクションは「経済学の父」アダム・スミスを中心とした本を収めている。どの本もそれを読む人を捉え、時代を動かし、そして今日に生き続けてきた古典である。だが古典は始めから古典としてあったのではない。古典はそれと出会って自己の拠るべき書とした人々によって古典とされていく。本コレクションの中心をなすスミスの二つの本、『道徳感情論』 (1759年)と『国富論』 (1776年)もそうであった。
 スミスといえば、ああ、あの「見えざる手」の市場的均衡論者かというほどに、有名である。実はこの通俗的解釈ほどスミスを誤解するものは無いのであるが、その誤解を解くことはこの解説の課題ではない。ここでは解説の欄を借りて、これまでスミスの本を自己の古典としてきた沢山の人のなかから、その一例を取り上げ、今日われわれが古典を読んでいくさいの何らかの示唆を得てみようと思うのである。
 「蛍の光」はわが国では誰でも知っている歌である。それはすっかり日本の文化に溶け込んでいるのだが、元はスコットランドの民謡であり、それも 18世紀のスコットランド の国民的詩人、ロバート・バーンズによって採集された旋律である。現在でもバーンズは スコットランドの人々によって愛され、毎年 1月25日の彼の誕生日になると、それを祝う会が各地で催されている。そのバーンズが社会科学者スミスの熱心な読者であった。バーンズは 1759年、スコットランドの片田舎のアロウエーで貧農の子として生まれ、 借地経営で生計を立てながら、詩作をしていった人物である。1786年の 27オの時、彼は 次のような「幻」という詩を書いた。
 ……北国の冬の夕方、詩人は疲れた身体で農作業から帰り、炉端ですっかり滅入っていた。生活はいっこう楽にならないし、詩作といえば、 少しばかりのものがあるだけ。人の言うことを聞いていて、こんな農業や詩作に心を悩まさないでおれば、今頃は商売で成功していたであろうのに。いったい俺は何をしているのだ。こんな片田舎に埋もれたままでいいのか。もう一切詩など作るものか……詩人に精神的な危機が訪れていたのである。
 その時であった。カチャリと戸の錠が鳴り、一人の美しい女神が入ってきたのである。 女神は額に緑の枝と紅い実の柊をはわせ、格子縞のローブをその綺麗な脚に垂らせていた。スコットランドを象徴するものが現れ出たのである。そして彼女は「ようこそ! 霊感を授けられた私のいとしい詩人よ! 貴方が見ているのはこの地の詩神です」と語りかけ、 スコットランドの豊かな河や雄大な岳、誇るべき学芸や武勇を見せて、もう自分の身を嘆くのは止めよと励ましていく。貴方はこのエアの地方から出てスコットランドの詩人となるべき者なのだ。だから神の摂理に身を任せ、人間としての尊厳を忘れず、詩作に一層精進せよ。そう言って、女神は柊の冠を詩人の頭にかむらせてやる。
 この詩 「幻」を書くことによって、バーンズは自覚するのである。小農の慕らしは楽でない、社会的地位も低い。しかし、百姓言葉も混じるスコットランド語を用いて、スコッ トランドの詩人となることが自分の本分なのだ。イングランドの新古典派風の洗練された詩を模倣することが自分の仕事なのではない、と。そう自分の運命を受容することで、その後のバーンズは次々と傑作を生みだし、スコットランドの「詩聖」となっていく。
 このようにバーンズがバーンズとなっていくためには、精神の危機を経なければならなかった。その過程のなかで彼はスミスの最初の本と出会うことになる。「幻」の 3年前の 1783年のことである。バーンズは父親のもとで農業に携わりながら、少しでも自分の境遇を改善しようとしていた。彼は詩作の能力を現わし、その芸術上の価値が正当に評価されることを求めていた。彼には野心があったのである。同時に、彼は自分の行為についても、世間的な評価に惑わされずに、内面的な良心で統御していきたいと望んでいた。彼は自律的な個体たらんとしていたのである。けれども彼は結婚話に破れ、体調も良くなかった。父親は父親で地代額をめぐって地主と争っていて、この時の心労がもとで翌年には亡くなっていく。こんな時であったから、精神的に不安定となり、現在だけは自分のものになるのだからとして、プレイボーイ的に情事に走る。そして相手を傷つける。
こういう時に彼はスミスの『道徳感情論』と出会うのである。彼は備忘録に書き留める。「私はあの賢哲のスミス氏の言うことにまったく同意する。彼はあの素晴らしい『道徳感情論』で、悔恨は人間の心を苦しめるもっとも痛ましい感情であると言っている。自分のせいで起きたのではない悲惨なことに対しては、普通の調子の男らしさでかなり耐えることができるだろう。しかし、自分の愚かさや罪のせいで悲惨な不幸をもたらした時に、男らしく堅固に耐え、同時にその不始末に対して改悛の気持ちをもつことは、自己統制という高貴な努力である。」そう書いた後で、彼は次のような人間観察を続ける。順境の時には騎るな。それは単に運が良いだけのことで生ずるのだから。反対に、逆境にあっては嘆くな。それはただ運がなかっただけのことなのだから、と。バーンズは変転する人生の 嵐のなかで失速することなく、なんとか平衡を得ようとしていたのである。
 当時の道徳界を支配していたのは宗教改革後の長老派の教会であり、それは選民思想の立場にたって人々に厳格な倫理を要求していた。それに対してバーンズは人間性に敏感で、人間的な弱さから愚行を犯してしまう者を弁護して言 う。「貴方がたはその地位を彼らの 地位と比較して、/その交換に身震いなさるのです。/けれどもちょっとでもいいから公 平な眼で見て下さい。/何がこの大きな相違を作るのでしょう。/割引しなさい、犯す機会の無かったお蔭である /貴方がたの誇るあの聖潔を」(中村為治訳「余りに善なる人、言い換えれば厳重に義なる人へ送る言葉」より) その「公平な眼」は心中の良心である。けれどもその良心も弱いと、これまた人間性に通じたバーンズは見るのである。「私は人が悉く悪者であるとは言いません。/本当の頑な悪人、/人間の立法の他なんら己を拘束 するものをもっていない者は、/少数に限られているのです。/けれども 、ああ! 人は 極めて弱いのです、/そして少しも信用が置けません。/もしわれと自ら動揺する天秤を揺り動かすならば、/とうていそれを正しく合わせることはできません!」(同氏訳「ある若き友への書簡」より) そこでなおも上級審が求められるとすれば、それは神以外には無い。バーンズはそのことを前掲の「余りに善なる人」のなかで認める。
 人は世間の中で何を基準にして生きていったらよいのか。このバーンズの切実な問に対してスミスの『道徳感情論」が応える。この本はホップズ以来のイギリス道徳哲学の伝統 の上にたって、利己的諸個人が集まる近代市民社会のなかで秩序はいかにして成立するか、人の感情や行為を判定する基準は何か、そのことを探究した本である。その探究は 1759 年の初版から彼の死の年1790年の第 6版に至るまで持続し、その第 6版になって、「公平で事情に精通した観察者」による「共感」こそが当事者の行為の正確な判定基準であると 明示される。が、バーンズと同じく、スミスも現実にはその基準を守ることは難しいとみなす。良心は世論より優れているとしても、大声の世論の前では動揺する。そこでスミス は最終審を設けざるを得なくなる。そして人間の成しうることは、未だ不完全な法律を人間の心中の精確な法意識に適応させ、良心をより強く鍛えていくことであるとしていく。 ここにイギリス経験論哲学者スミスの人間学の一つの精髄がある。このスミスと同様の「道徳感情論」をバーンズは自分の詩的言語で表出していた。これまでの『道徳感情論」の研究者の誰よりも的確な人間理解をもって。そして第 6版がでる 前年の 1789年に、ある書簡体詩のなかで、彼はスミスを共感的感情の理論で傑出した「聖哲」だと称賛するのであった。
 「道徳感情論』と出会った 3年後、バーンズは『スコットランド方言を主とした詩集』を出す。これが成功した。そこで彼は首都エディンバラに出て税関の職を探す。税官吏になれば、安定的な収入が得られ、詩作のための時間も得られると思ったからである。この時スミスはその『道徳感情論』と『国富論』の 2つの立派な英語の本で既にヨーロッパ中の名声を得ており、エディンバラにいて関税委員の職にあった。その彼がバーンズに興味を持ち、バーンズのパトロンとなって就戦の世話をしようとする。この両者の間を結びつけようとしたのがダンロップ夫人という人なのだが、この時の彼女の工作は成功しなかった。結局バーンズは他の人の斡旋によって間接税担当官に任命されることになる。
 次にバーンズは『国富論』と出会う。ようやく不安定な農業経営から脱して間接税の役人になってからしばらくした 1789年、フランス革命を間近に控えていた時のことである。バーンズはある人への手紙の中で、スミスを今度は「あの卓越した男」と呼び、『国富論』について次のように述べた。「私はどんな人にもスミス氏がその本で示している知性の半分でも認めることが出来ませんでした。彼の本が書かれて以来これまで世界の幾つかの地域でなされてきた、そして今でもなされている注目すべき変革のありさまについて、私は彼ほどの知識を得たいものと切望しています。」 バーンズは『国富論』のどこに感嘆したのであろうか。そのことを直接示す資料は見当たらないのであるが、だがそれを客観的に推測していく作業は出来るのである。
 バーンズが述べているように、スコットランドでも、特に 1775年のアメリカ独立戦争以降は急激な社会変革の時であった。その時代を彼は借地農業者として生き抜いてきたのである。 1766年から88年までの22年間、彼は父親を手伝い、そして自立して小農場を経営してきていた。そこでこの彼を時代の中に位置づけてみよう。
 18世紀の後半、周知のように、イギリスで農業革命が進行し、封建的な所有が近代的なそれに移行していく。スコットランドでも同様で、技術革新と企業家精神が原動力となって、土地の囲い込みが進み、大土地所有や大借地経営が生まれていく。そして従来の土地利用方式であったラン・リグ制(――イングランドでは開放混在地制)が消滅していく。それに代わって、近代的な土地所有のもと、石垣で囲まれた農場で働く農民が出現し、伝統的な共同体規制に縛られずに自分の判断で合理的な耕作と栽培の方法を決められるようになっていた。バーンズの父親もこの変動期の中で小農場の賃借り経営を開始したのである。しかし、まだ完全に個別的な経営をなすまでには至らず、坪耕や収穫のさいには近隣で労力を提供しあう共同体規制の中にいた。
 スコットランドの農業革命を剌激したのは、18世紀初めのイングランドとの合邦であった。これはスコットランドからそれまでの政治的独立を奪う代わりに経済的な利益を与えた重大事件であった。合邦がスコットランドの肉牛にロンドンの大市場を与えたのである。そのことで牧草地の囲い込みと牧草の人工的栽培が始まる。バーンズの周辺でも 1760年代には牧草栽培が普及する。また同じ年代に、地主による改良や実験も広がり、当時の先端的工場キャロン鉄工場は軽量の湾曲撥土板の犂を制作するようになる。ところでこの上からの貴族的改良のすべてが成功したわけではなく、それが先進地からの外面的な輸入に終わる場合もあった。その土地の地質や地勢に合わない囲い込みをしても、予期した収穫をあげることはできない。それなのに、地主は改良地であることを名目に地代の引き上げを要求し、その失敗のつけを借地人に負わせがちであった。バーンズもこの不合理な仕打ちに会うことがあったのである。
 この農業革命で利益を得たのは誰か。それは費用と収益の計算にうるさい企業家的農業者であった。これに対して、従来のヨーマンリ的農民は誠実で勤勉であるとしても、慣習に縛られて先見の明もなく、資本も持たなかった。だから、たとえ囲い込みで土地を得たとしても、企業家と競争する力はなく、止むなくその土地を売らざるを得なかった。この士地の購入者には農村の地主だけでなく 、時代の動きを反映して、都市の金融業者や工場主も含まれていた。バーンズが借地人として最後に借りることになった農場の地主は、この部類に属するスコットランド銀行の理事であった。またこの囲い込みによる経営の合理化は、農村に余剰の人口を生み、失業者を発生させる。だが失業者が地主に対して「労働の許可を与えてくれと願う」ことがあっても、それははねつけられた。そのことをバーンズは知っている。こうして、農業の将来に希望をもてない中小農や失業者は都市に幸運と仕事を求めて出ていくことになる。
 以上のような近代化の激しい流れに巻き込まれて、バーンズは苦闘する。彼は独立心が強かったから、合邦がスコットランド近代化の出発点であるとしても 、それが政治的独立を捨てた限りでは、批判されるべきものであった。この点で彼は合邦に批判的なナショナリストや、合邦以前のスチュアート朝を支持する反動的なジャコバイト派と同じ心性を持っていた。けれども、没落せずに生活と経営を安定させていくためには、合邦を契機に進展する技術革新を取り入れていく必要があった。そこで彼は有名な J. タルの農業書を読み、 収益の計算をし、自ら市場にも出かけていく。また彼は先進的な農業地域の国境地方を旅行し、動力脱殻機の発明者と会って見聞を広めている。さらに彼は、除石や排水等で耕地 を改善したり、他品種の家畜を外部から実験的に導入したりと 、かなり積極的に営農をしていくのである。
 技術的にだけではない。バーンズ は新しい人間関係をももって土地に対して働きかけていこうとする。彼は少し暮らし向きが良くなって使用人を雇えるようになった時でも、青い巾広のボンネットを被って一人の労働者といった身なりをし、彼らと交わっていた。彼はまた、経済的合理性を取り入れる一方で、慣習や迷信に囚われている村人と親密でいようとしていた。バーンズにその使用人を提供し、伝統に埋もれて暮らしていたのが小屋住み農である。彼らは上流社会から土百姓と卑しめられていたのであるが、バーンズはその彼らによる農場の石垣作りや溝堀りの仕事にも労働の尊厳を見いだしていく。彼の幾つかの詩、「小屋住みの士曜日の晩」や「私や持ってる私の妻を」、「二匹の犬」等をみると、 彼の理想は階級差別のない社会で人々の正直な労働が報われ、自立的な勤労者がその労働の成果を公正に交換しあうことであるとわかるのである。そこでは借地人が土地の差配人から契約と法律をたてに地代の支払いを迫られることはない。そこでは貨幣は人間としての独立のためにのみ使われ、頷主的な浪費や資本投下のために使われることがない。したがってこういう社会では、ルソーが描いたように、誰も人の主人となることはなく 、誰も人の奴隷となることはないのである。一—だが現実は異なる。バーンズは詩人として成功して、税官吏になろうとした時でも、農夫はやはり農夫のままでいる方がよいと言われることがあり、階級社会の壁に突き当たる。自分の思うようには人生の設計は描けないことを、彼は経験させられていく。
 以上のようなバーンズが「国富論』を読んでいくのである。『国富論』は、封建社会の身分制と重商主義の国家干渉から自由となった市民による資本制社会への移行を、理論的に分析している。バーンズは等価交換の社会を理想としていたから、スミスのようにその平等社会から資本と労働の対立する階級社会に移行する(――領有法則の転変)ことを理論的に見通すことはできなかったが、それでも『国富論』は彼や彼の家族および隣人が経験した社会変動を大きな文脈の中で位置づけてやる内容をもっていたのである。自分たちが苦しめられてきた地代とは何か、それはどのようにして決められるものなのか。地代と農産物の価格との関係は? 穀物と肉または馬鈴薯の価格の間には何らかの関係があるのか? 他の所得である利潤や賃金を決めるものは? また なぜ農村から人は都市に出て行くのか、都市と農村との利害は対立するのか? 自分逹小農はどこへ行くのか? このように問おうとすれば出てくる疑問に対して、スミスの本は その分業論・価値論・価格論・分配論から資本蓄積論・再生産論・資本投下自然的順序論 に至るまでの全体系をもって答を用意している本であった。そしてそれは、庶民が勤勉や節約で地位改善の欲望を満たしていくには、最低限所有権の安全が制度的に彼らに保障されていなければならないと、指摘している本でもあった。
 また『国富論』はイギリス一国のレベルでの経済分析に止まってはいない。それは 16 世紀の大航海時代以来展開されてきた世界史を舞台に、ヨーロッパ以外の非ヨーロッパの 諸国民の富をも展望するという、大変に視野の広い本である。バーンズは精神的な危機の時に、遥かな西インドに逃避しようと一時考えることがあった。『国富論』はそんなことをも経験した彼に何か因縁的なものを感じさせたであろうか、そんな問を立てたくなる。
 さらに『国富論』は、資本主義の発展は生産力の発展をもたらすとしても、人間の政治能力や知的判断力の涵養を妨げると言い及び、それを矯正するにはどうしたらよいかと考えてもいるのである。
 このように、『国富論』は広く、深い。知的好奇心も社会的関心も旺盛であったバーンズは、スミスのこの部分になんらか反応しなかったであろうか。 いずれにしても、『国富論』はバーンズの小農経営を社会的にも歴史的にも大きく位置づける経済学の地図を持っていた。このことだけは確かである。バーンズは『国富論』によって読まれた、それは『道徳感情論」の場合と同じく、自己認識のための拠るべき書となった、だから彼は『国富論』の知的な分析に感嘆させられてしまったと、そう推定できるのである。 スミスの本だけに限らない。どの本も、その内容は異なるが、バーンズが経験したように出会いということを経ることで、それは古典とされていく。

〈記事出典コード〉サイトちきゅう座 https://chikyuza.net/
〔study1229:220823〕