アベノミクス=アベノポリティクスの吉報と凶報――自殺者大減と経産省前「放火」高札

著者: 岩田昌征 いわたまさゆき : 千葉大学名誉教授
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平成27年・2015年12月23日の「ちきゅう座」「評論・紹介・意見」欄に「朗報・自殺者減はアベノミクスの効果か?」を書いた。今回は「朗報」と言うより「吉報」かも知れない。

1月20日(金)の東京新聞夕刊によれば、「自殺者7年連続で減」である。平成28年・2016年の年間自殺者は、2万1764人で平成27年・2015年より2261人だけ少ない。減少率は9.4%で警察庁が昭和43年・1978年に統計をとり出して以来最大の減少率。自殺者数が2万2000人を下回るのも平成2年・1994年以来22年ぶりだそうだ。私が「吉報」とした由縁である。

自殺の動機では、健康問題や経済・生活問題の減少が目立ったと言う。

平成10年・1998年に自殺者が一挙に1万人増大して、3万人台になった。平成24年・2012年まで連続14年間3万2000人から3万3000人の人々が自殺していた。

私=岩田による経済システムのトリアーデ体系論では、理論的かつ現実的に作動可能な三種の経済システム、すなわち市場経済、計画経済、協議経済は、近代理念面においてそれぞれに自由、平等、友愛をメインにかかげ、社会心理面において不安、不満、不和(不信)を内蔵し、極限的不幸として自殺、他殺、兄弟殺しに向う。市場メカニズムの象徴死が自殺なのである。市場競争化がネオリベ的に極度に押し進められと、常民競争者は自殺の急増の形で悲鳴をあげる。

アベノミクスは、知者世界において評判は余り良くない。十分に理由があるにちがいない。しかしながら、自殺者数減少グラフがアベノミクス期と重なる事実は、軽視してなるまい。常民社会は、アベノミクスを自殺者減という実存的様式で評価しているのかも知れない。

「吉報」の正反対の「凶報」とも言うべきニュースがとどいた。

それは、後期高齢者M氏の逮捕にかかわる。経産省ポケットパークのテントが撤去された後も経産省前で原発再稼働に抗議アッピールして来たM氏が正月16日に身柄拘束逮捕された。私=岩田は、「ちきゅう座」「評論・紹介・意見」欄、平成27年・2015年2月8日の拙文「必見『日本と原発』」に論じておいたように、M氏等の原発全廃論に全面賛成する者ではない。しかしながら、未曾有の超大震災に還元出来ない未曾有の原子力大事故に原因する福島常民社会の解体に抗議して、生活再建におわれる被害者達以外の誰かが現代の佐倉惣五郎や田中正造となって経産省に象徴される原子力エリート市民社会に対して言挙げしつづける姿に義理的にも人情的にも共鳴する所が私にはある。

そんな誰かがM氏である。東京メトロの霞が関地下鉄11番出口――抗議声明ビラでは13番となっているが、現場で確認したところ11番であった。――附近で、愛煙家M氏がタバコを吸っていて、それが冬の枯草にうつって、ボヤになったと言う。エレベーター入口の外壁をすこしばかり焦した。私も昨日31日の午後3時過ぎ頃、現場のコンクリート製外壁にうっすらと煤の跡が残っているのを視認した。

この件を口実にして、「建造物損壊」の容疑で逮捕され、その後10日間も勾留された。その上にM氏の自宅も警察官10人を動員して、家宅捜査されたと言う。ここまでは、典型的な不当捜査である。だからと言って、私が「凶報」と認識したのは、この不当捜査の件ではない。

現場に2ヶ所、経済産業省庁舎防火管理者による「重要なお知らせ」の高札がたてられており、「1月16日15時40分頃、当省敷地内で放火事案が発生しました。」と対外的に報知していた。「放火」の二文字は朱書きであった。

M氏の責任度を最高度に見積もっても、単純な不注意、あるいは高齢から来る不注意によるタバコ火の不始末である。火事と言っても、幸いにして少々の枯草がもえた程度だ。それを「放火」だと断定して、世間に堂々と訴える、すなわち、M氏を放火犯と断定する「庁舎防火管理者」とはそも何者だ。放火と失火とでは全く意味が異なる。

江戸時代で言えば、失火は大名火消し、町火消しの対象だ。放火は「火付け盗賊改め」長谷川平蔵による切り捨て御免の世界だ。

タバコ火の不始末を「放火」であると朱書きで広報するセンスは、フクシマの原発事故にについて、「あれは地震や津波の故ではない。経産大臣か東電社長が意図的に原子炉に強力爆薬を仕掛けたからだ。」と妄想する反原発論者がいたとすれば、そんな妄想のセンスに等しい。ここには、「国家の品格」、すくなくとも「官僚の品格」が消えている。私が「凶報」と見た由縁である。

アベノポリティクスは、原発再稼働に軸足をおいている。それが一部官僚に脳軟化を発症させたのであろうか。

上記の文で、「原子力村」としばしば称される特殊社会を「原子力エリート市民社会」と表現しておいた。「村」と言えば、血縁・地縁だ。しかしながら原子力産業をめぐる特殊社会は、金縁・知縁である。「村」でなく、一種の「市民社会」である。

平成29年2月1日

〈記事出典コード〉サイトちきゅう座 http://www.chikyuza.net/

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