「ちきゅう座」で何回かアメリカ大使W.モンゴメリーの著書『歓呼が静まる時』を紹介した。
彼は、2000年中半、ユーゴスラヴィア(当時セルビアとモンテネグロの連邦国家)のセルビア大統領ミロシェヴィチの「独裁」体制を打倒する為に行動基地、作戦基地をハンガリーの首都ブタペストに設立した。アメリカ国務省のバルカン問題担当特別補佐官ジム・オブラヤンの指令であった。1999年3月から6月にわたる対セルビアNATO大空爆さえミロシェヴィチ体制を打倒出来なかったからだ。彼は、セルビア内の反対派諸党派を団結させて、見事にその任務を達成し、2001年6月28日に、ミロシェヴィチをハーグ旧ユーゴスラヴィア戦犯国際法廷に送り付ける事に成功した。彼の記述によれば、モンゴメリーは、2001年だけでセルビアに1億ドル、モンテネグロに8700万ドルを支出した。
ミロシェヴィチ打倒運動の際に成功裡に活用され、そしてその後、ウクライナ、ベラルーシ、ロシア、ジョージア(グルジア)、北アフリカ諸国で、独裁あるいは「独裁」体制打倒で使用された運動の戦術戦略指南書がある。ジーン・シャープ博士著『独裁体制から民主主義へ 権力に対抗するための教科書』(ちくま学芸文庫)がそれである。
その「あとがきにかえて」において、博士自身が次のように書いている。
――〔ポーランド系のアメリカ人の社会学者〕がミロシェヴィッチ時代のベオグラードにコピーを一部持ち帰り、市民イニシャティブという組織に手渡した。市民イニシャティブは、セルビア語に翻訳して出版した。ミロシェヴィッチ政権崩壊後にセルビアを訪れた際、抵抗運動にこの小冊子が大きな影響力を持っていたと知らされた。もう一つ重要だったのは、退役アメリカ陸軍大佐のロバート・ヘルヴィーがハンガリーのブタペストで20人のセルビア人の若者を対象に非暴力闘争のワークショップを行い、非暴力闘争の特性と可能性について伝えたことだろう。・・・・・・。この若者達は後にミロシェヴィッチを倒した非暴力闘争を率いた「オトポール」という組織になったのである。(pp.140-141)
ここに記されているように、それぞれの国で民衆自身が自発的・内発的に横暴な国家権力に対して抵抗運動から打倒運動を展開する上で、ジーン・シャープ博士の指南書が活用されただけならば、何の問題もない。彼の「非暴力行動198の方法」が非暴力にとどまらず、暴力革命の序曲になったにしても、それは、それぞれの国、市民、民族、階級における権力側と反権力側、両者の自己責任と言えよう。
しかしながら、博士自身が書いているように、退役陸軍大佐がセルビア人青年達に闘争のノーハウを隣国の首都ブタペストで伝授したとなると、事はそう単純ではない。他国への内政干渉の負担意識が全く欠如している。そしてまた、アメリカ大使が暴露しているように、他国内の「民主化」闘争に1年間に1億8700万ドルを使用したと言う事実の内部にジーン・シャープ博士の指南書を位置付けてみると、事はそう単純ではない。それは、もはや内発的・自発的運動ではなく、革命の輸出に変質している。かつて、国際共産主義運動の思想的・イデオロギー的引力が強力であった時、西欧・北米・日本の指導層は、革命の輸出、すなわち革命の輸入を恐れた。しかしながら、社会主義の「祖国」に、輸出・輸入をサポートする経済力がなかった。時にあった場合も飢餓輸出に類するものであった。更に、肝腎要めの思想・イデオロギーさえ、スターリン主義に変質して、輸出財としての魅力を失ってしまった。
社会主義崩壊後、民主主義・自由主義のアメリカ革命は、どこかでトロツキーの世界革命論・永久革命論と接触・化合して、アメリカ革命の輸出・輸入が始まったようである。しかも、輸出支援財力は、人口65万人のモンテネグロにミロシェヴィチ打倒陣営に引き込むためだけに1年間で8700万ドルを支出した例が物語るように、十分にある。
こう考えると、事は他人事ではない。
将来、日本国において日米安保体制全廃の新党が民主的に選挙で政権をとったり、あるいは自民党が自己改革して日米安保廃絶の党旨をかかげるようになったりした場合、「市民主義」・「民主主義」の諸党派が民族主義的「独裁」体制打倒を旗印にジーン・シャープ博士の「非暴力行動198の方法」を活用するようになる不幸な可能性もなきにしもあらずであろう。日米安保体制下の日本がアメリカ世界革命輸出のかがやかしい成功例であったと再認識されているとすれば、アメリカは、かかる「独裁」化阻止の諸「市民主義」派を支援するにちがいない。
平成28年11月27日
〈記事出典コード〉サイトちきゅう座 http://www.chikyuza.net/
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