アラビア世界の中心、エジプト「革命」の意味

著者: 浅川 修史 あさかわ・しゅうし : 在野研究者
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 米国はエジプトのムバラク政権を見捨てたようだ。各種の報道によると、オバマ米大統領は1月29日から30日にかけて、トルコなど周辺3カ国と連合王国(UK)の首脳と電話会談を行い、「エジプト国民が求める政府への秩序ある移行」を要求したという。ムバラク政権にとって最後の盾ともいうべき軍隊も民衆への発砲や鎮圧を控えているという。

 1981年以来30年も続いたムバラク政権も終焉のときを迎えている。今後の関心は後継者が誰になるのか、米国とイスラエルとの協調路線が続くのか、最大野党のムスリム同胞団がどの程度影響力を増やすのか、という点に移っている。中東やイスラム圏を分析するうえで重要な視点である、「富と権力」がどう再配分されるのか、ということにも関心が集まる。

 アラブ連盟に加盟する国家はパレスチナ自治政府を含めて22カ国ある。その中で最大の影響力を持つのがエジプトである。石油があまり出ないのでお金はないが、「アラブの盟主」である。影響力の源泉は大きな人口、アラブ各国への人材派遣、文化、教育、軍隊、メディアなど水準の高さである。ムハマンド・アリー朝(1805年ころから1953年)がフランスの革命の衝撃によって、アラビア世界で最初に西洋化、世俗化、産業振興を実施した成果である。西洋化に着手した時期は日本より早い。

 イスラム法(シャーリア)が支配的であった中東・北アフリカで初めてフランス民法典にならったエジプト民法典を創設した(1891年)歴史的意味は大きい。エジプトの民法典は周辺のイラク、リビア、シリア、ヨルダンにも採用されている。意外に知られていないがスエズ運河の建設に着手したのもムハマンド・アリー朝である。

 先駆的なムハンマド・アリー朝だが、スエズ運河や都市建設などを連合王国やフランスからの借款で実行するなどの過大な投資がたたって破産(1875年)。以後「管財人」である連合王国やフランスの影響下に置かれるが、1882年からは事実上、連合王国の支配下に置かれる。この王朝が倒れるのは、1952年の軍事クーデターに因る。

 余談だが西洋化を真剣に進め、近代的で外敵と戦える軍隊を作ったアラビア世界の王国は、王様から見れば飼い犬同然の青年将校によって打倒されている。エジプトのムハマンド・アリー朝(1952年)、イラクのハーシム朝(1958年)、リビア王国(1969年)である。この教訓からかサウジアラビアのサウド家はまともに戦える国軍をあえて作らず、国軍と同じ規模の国家警備隊に治安などを依存している。イラク軍が迫った湾岸戦争など大規模有事に際には王国の存続をアメリカ合衆国に依存(アウトソーシング)する仕組みである。そのために石油の販売はドル建てにして、米国の石油価格政策にも協力し、米国の兵器を購入し、米国政府要人との人間関係維持に緻密な神経を払っている。米国に多くの留学生も送り込んでいる。米国との人間関係の深さ、濃さは日本の比ではないとしばしば指摘される。

 話は脇道に入ったが、エジプトの政変劇の欧米での関心の高さは、こうしたエジプトのアラビア世界での存在感の大きさにある。

 今後のエジプトがどうなるのか。エジプトの中心は軍隊であり、軍隊が経済的な利権を持っている国家である。この利権を野党だった勢力(ムスリム同胞団など)にどの程度再配分できるのかで、今後の姿が見えてくるだろう。

 現在はイラン革命(1979年)の初期の段階に似ている。米国がシャー(国王)を見捨てた結果、王制が倒れ、最初は世俗派、西欧型知識人、ツデー党(イラン共産党)、宗教勢力などありとあらゆる反対派が大同団結して新政権を作った。その後、ホメイニというイスラム法学者というより、むしろ天才的な政治指導者によって、他の勢力が段階的に排除され、最終的にイスラム法学者の支配が確立された。イスラム法学者の背後にいたのが伝統的なバザール商人(ブルジョア)や地主である。イスラム法学者自身がバザール商人とは切っても切れない存在で、歴代婚姻関係を結んでいる。また、信者から土地の寄進を受けてきた地主でもある。

 筆者はエジプト社会の内部構造に詳しくないが、エルバラダイ元IAEA事務局長(2005年ノーベル平和賞受賞者)など欧米に受けが良い人物がムバラクの後継者になり、ムバラクほど明確な態度はとれないが、米国とイスラエルとの協調関係を継続する路線を選ぶのではないかと推測する。

 一方でムスリム同胞団にも一定の政治活動の自由を認めたうえで、利権を配分してなだめなければならないとも推測する。その後の展開はムスリム同胞団の腕の見せ所になる。ムスリム同胞団は民衆への慈善活動など草の根運動に卓越し、驚嘆すべき頑健な組織だが、イスラム法学理論や論争・扇動活動、政治的手腕では、イランのシーア派イスラム法学者のほうが優っているように見える。エジプト国軍も解体したわけではなく、現段階ではエジプト「革命」がイラン型・イスラム革命の方向に向かうことはほとんどないと予想する。

 ムハマンド・アリー朝やナセル政権以来の世俗化=脱イスラム教化は強固である。ムスリム同胞団に反対する立場のコプト教徒(イスラム化以前から存在する単性派のキリスト教徒で人口の10%を占める)も無視できない政治勢力だ。

 とはいえ、「ジャスミン革命」から始まった民衆抵抗がアラビア世界の本丸であるエジプトに波及した意味は大きく、今後中東・北アフリカの風景を変えることになる。

〈記事出典コード〉サイトちきゅう座 http://www.chikyuza.net/
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