令和3年・2021年葉月10日(火)に個人用電算機画面を介してルネサンス研究所の研究集会が行われた。報告者は酒井隆史氏である。デヴィッド・グレーバー/アントレイ・グルバチッチ「新版クロポトキン『相互扶助論』(近刊)序文」の英語原文と氏による訳文が資料として提供され、かつ氏のグレーバー解釈が肉声で語られた。私=岩田の心にひっかかった所だけについて若干述べておこう。
クロポトキンの抗争と団結
酒井氏は、グレーバーがクロポトキン『相互扶助論』(近刊)序文において、クロポトキンの主張「抗争と団結の本来〔のあるべき〕割合を回復すること、restore the real proportion between conflict and union」を高く評価している所に、共鳴すると語る。しかしながら、通常、思想の概念的純化を自己の課題の一つとする人文知識人は、社会問題をconflict原点に傾くか、union原点に傾くか、になりがちである。現実の割合は、実務家によって決められる。力関係である。
この文脈で、私=岩田は、自分のトリアーデ体系表を思い起こす。第1系列社会:交換→自由→私有→市場メカニズム・・・。第2系列社会:再分配→平等→国有→計画システム・・・。第3系列社会:互酬→友愛→共有→協議ネットワーク…。以上は、光(表)に着目した系列規定であるが、闇(裏)に着目すれば、第1系列に不安と象徴死の自殺、第2系列に不満と象徴死の他殺、第3系列に不信と象徴死の兄弟殺しが付きまとう。私=岩田にとって、conflictし、かつunionするを求めるのは、このような三種の社会編成様式である。
注視すべきは、三つの系列の中で、国家が明示的に登場しているのは、第2系列だけである。第1系列と第2系列では国家の姿が見えない。しかるに、第1系列の場合、国家は、系列秩序全体の守衛者として登場でき、系列秩序自体によって求められる。第1系列社会の内的論理が十分に発現できる故。第2系列の場合、国家が国有の主体であり、同時に系列秩序全体の守護者の役割を果たす。第3系列の場合、系列秩序全体の防衛者として働く国家なる社会装置を形成しがたい。無理にそのような国家を実装すれば、社会=国家となってしまって、ファシズムに転落し、系列秩序全体に矛盾する。
要するに、国家と言う視座に立てば、第1系列の国家は、私的所有者と相性が良く、機能しやすい。第2系列の国家は、体制守護の役割と国有機能の担い手の役割と言う二重負担の故に、身軽に機能しにくい。第3系列の国家は、系列秩序の防衛上必要不可欠でありながら、系列秩序の内的論理から反撥され、出現しがたい。それ故、第一種の国家と第二種の国家が協働して、第3系列の秩序を保障するような、三系列間のメタ秩序が生成されることがなかったので、第3系列の社会編成は、旧ユーゴスラヴィアにおける1974年憲法・1976年連合労働法体系の壮大ではあったが、余りに短期に終わった社会実験以外に現代社会史に姿を見せることはなかった。
私=岩田のトリアーデ体系論から離れて、conflictとunionの関係を考えると、毛沢東の弁証法論が念頭に浮かぶ。中国経済研究の大老中兼和津次氏の『毛沢東論』(名古屋大学出版会、令和3年・2021年)によれば、「1960年代に論争となる楊献珍(中央党校校長)の『二が合わさって一となる〔合二而一〕』を批判し、毛は『一が分かれて二になる〔一分為二〕』論を展開するが…。」(p.17)「彼はこう述べている。『いつも団結一致を重んじるばかりで闘争を重んじないのは、マルクス・レーニン主義ではない。団結は闘争を経てはじめて団結できるのだ。党内、階級、人民、すべて同じことだ。団結は闘争に転化し、ふたたび団結する』」(p.17)
ここで毛沢東は、conflictとunionの時間的局面転換を論じる。従って、両者間の「本来〔あるべき〕割合」を語るとすれば、夫々の時間的配分比例となろう。それに対して、酒井氏、グレーバー、クロポトキンは、社会主体のconflict志向とunion志向の強度の比を考えているようである。
カンディアロンクと社会進歩
酒井氏が紹介するアメリカ・インディアンの政治家カンディアロンクKandiaronkが近代ヨーロッパの新社会概念形成の転機となった史実は、私の今まで知らなかったことだ。以下、酒井氏による訳文の関連個所を示す。
――ヒューロン-ウェンダット族の政治家であるカンディアロンクKandiaronkは、ヨーロッパへの訪問の経験があり、フランス人、イギリス人入植者の社会を熟知していた。そのかれが、1680年代、ケベックのフランス人総督とその側近の一人であるラオンタン〔男爵〕と一連の討論をおこなっている。そのなかでかれは、このような主張をおこなっている。すなわち、刑法をはじめとする国家の全機能が存在するのは、けっして人間の根本的な欠陥に起因するものではない。そうではなく私有財産や貨幣といった制度が存在するからであり、それらの制度は、その性質上、強制的な手段が必要となるような行動を人々に起こさせるものだ、と。平等であることが実質ある自由の条件であるとかれは主張した。これらの議論はのちにラオンタンLahontanによって本にまとめられ、18世紀の最初の数十年に大成功を収めた。この本は戯曲化され、パリで20年間上演される。啓蒙主義の思想家たちは、こぞって、書き物において模倣した。やがて、こうした議論――そして、フランス社会に対するより広い広範な土着的批判indigenous critique――が強力になったため、テュルゴーやアダム・スミスのような既存の社会秩序の擁護者は、事実上、直接的な反撃として社会進化という観念を発明するよう余儀なくされた。――
アメリカ・インディアンの社会観による前期資本主義的ヨーロッパ社会秩序批判への防衛的反撃として社会進化の観念が誕生し、やがて、歴史の段階論、そして左派的人士の多くがいだく進歩主義歴史観に結実した。酒井氏はそのように説く。
ルネサンス研究所の研究集会で、近代的進歩的歴史観の形成にアメリカ・インディアンの社会観が直接的契機をなしていたと説く事は、ルネサンス研究所自体への一批判でもある。社会問題と社会哲学をテーマとする思考集団がその思索の歴史的源泉を主にルネサンスに求めている事を誇らかに研究所の名称は物語っている。ところが、酒井氏/グレーバー氏によれば、ルネサンス的文明だけからは、社会進化論、社会発展段階論、より良い未来社会論を導き出し得ない事になる。土着的批判が不可欠だった。ルネサンス研究所には、ヨーロッパ近代思想の有力分派マルクス思想に立って、日本的土着に触れたくない気風が濃いのではなかろうか。すくなくとも、カンディアロンクのように自分達の土着思想でヨーロッパ近代思想を批判することはない。
私=岩田の旧著『社会主義の経済システム』(昭和50年・1975年、新評論)第1章「現代社会の認識論――社会科学的知性の運命」第4節「現代社会における社会科学的認識のジレンマ」において、以下のように書いたことがある。伊藤勝彦編『知性の歴史』(昭和47年・1972年、新曜社、pp.139-140)による。
――中世の解体(=当時の〈現代〉)の中から生まれた近代が中世より優越しているという自覚はあった。しかし、近代と古代の優劣は?近代の歴史時代としての確立のためには、もうひとつ古代に比しての近代の優位性が論証されねばならなかった。かくして、17世紀の半ばから18世紀の初めにかけて、フランスとイギリスにおいて〈古代近代論争〉が行われ、当時の一流の思想家・論客のほとんどすべてが古代党と近代党に二分して、古代人と近代人の優劣を論じあった。この論争の結果、古代人より一段とすすんだ近代人という優越にめざめ、古代的普遍より、中世的普遍よりはるかに普遍的な世界という近代の自覚が確立された。――(p.50)
私=岩田の素人的直観では、殆ど同時代的な事件である〈古代近代論争〉と「広範な土着的批判」が「社会進化の観念」をヨーロッパ近代に誕生させたのではないか。すなわち、英仏ヨーロッパの時間的優性と空間的優性の確認。
インディアン・ジェノサイドと市民革命の表裏一体性
かかる近代思想形成にある種劇的な役割を果たしながら、現実のアメリカ・インディアンの近代史は、悲惨極まりないものであった。イギリスで清教徒革命、第一次エンクロージャー、第二次エンクロージャー、産業革命等の社会的諸コンフリクトが発生するたびに、母国で生命と生活の危機にさらされた、そして王政・貴族政を批判する民主的精神を持つ多くのイギリス人貧困者集団が家族ともども、北米の新天地に定住植民を断行した。その巨大圧力に抗しきれず、先住定着者のインディアン諸部族は、惨殺され、居住地を奪われ、所謂居留地に封じ込められる。フランス人のカナダ植民もまたイギリス人ほどに残忍非情ではないにせよ、国内の社会的諸対立の放出・発散の形である点では同質である。北西部ヨーロッパの社会革命と北米移民の連鎖に続いて、中央ヨーロッパの社会革命、例えば、1848年革命と大量の中央ヨーロッパ諸民族出身者の北米移民、そして19世紀末から東欧とロシアの社会政治経済変動と結びつく北米への脱出的移民。
19世紀中半までは、北アメリカへの大量脱出的定着志向の移民によって、資本主義化と自由主義的かつ民主主義的市民社会化は、それに必然的に伴う社会的諸集団間対立の高内圧を自由民主の原則を否定せずに処理できたので、スムーズに進行した。それ以降は、すなわち東欧・ロシアの移民の場合は、国内矛盾を民主化・自由化の社会制度で処理できるレベルに弱める程に大量ではなかった。ヨーロッパ人が入植し始めた頃、5百万人から1千万人ほど生活していたと推計される北アメリカのインディアン諸部族は、19世紀末にわずか25万人になっていたのである。すなわち、その頃になって北アメリカに移民した人々を待っていたのは、「先住」の定着ヨーロッパ人であって、新着移民がその人達の土地や生命を勝手に奪ってよいような存在ではなく、新着移民の側が到着した地域の法と制度に従わねばならなくなっていた。
要するに、人類普遍的価値の発源地・根拠地を自負する北米西欧の自由民主主義社会は、人類史上稀にしか見られない数多くのインディアン諸部族の文字通りジェノサイド(族滅・族戮)の土台上に築かれていた。
インディアン・ジェノサイドの2例
阿部珠理著『メイキング・オブ・アメリカ 格差社会アメリカの成り立ち』(彩流社、2016年・平成28年)からジェノサイドの一例を例示する。
――メタカム(ワンパノアグ族長)は、植民地の拡大にしたがって、武器を捨て、彼等の土地を明け渡し、イギリス法にしたがって税金を払うという条約にサインするよう迫られた。メタカムは、ニプマック、ナガランセット族と連合してイギリス植民地に対抗した。これが部族を超えて白人に立ち向かった、インディアンの大連合の初めてのケースである。1675年、戦いが始まった当初は、メタカムは入植民地を攻撃し、イギリス人に大きな被害を及ぼした。しかし「大きな沼地の戦い」を機に、劣勢に立たされる。その戦いでイギリス人たちは、ピクォート攻略の際の残忍さを再現し、何百人の女、子供、さらにインディアンと結婚したイギリス人まで虐殺した。翌1676年8月、イギリス人達は、ついに矢折れ弓尽きたメタカムを沼地に追いつめ殺した。メタカムは首を刎ねられ、肢体はバラバラにされた。その後25年にわたって、メタカムの首はプリマスの広場の竿にぶら下げられ、曝された。ピューリタンたちにとっての「罪人」を、死しても彼らが赦すことはない。――(pp.72-73)
前例は、アメリカ独立前、インディアン部族とイギリス人の関係で起こった事件だ。次にアメリカ独立後のインディアン部族の悲劇を例示する。市川守弘著『アイヌの法的地位と国の不正義 遺骨返還問題と〈アメリカインディアン法〉から考える〈アイヌ先住権〉』(寿郎社、平成31年・2019年)
――1820年代からのインディアンの移住政策である。アンドリュー・ジャクソン(1767-1845)という第七代大統領が始めた政策で、ミシシッピー川から東側のインディアンをミシシッピー川の西側に移住させる、というものだった。……。……。しかし先祖からの土地を離れることを望むインディアンなどいるはずはなく、インディアンからすれば、増加する白人に追い出されるようなかたちで移住に同意せざるを得なかった……。チェロキーインディアンのように移住承諾派と移住拒否派に分かれるインディアンもいた。……、ねばった挙句最後に移住政策をのまざるを得なくなった移住拒否派は時期が遅れて真冬に移住することになり、厳冬下四〇〇〇キロほどの道を裸足で歩いて行かざるを得ず、半数近くの人が飢えと寒さで死亡した。……。……アンドリュー・ジャクソンは、19世紀初頭の米英戦争の英雄といわれ、またクリークインディアンの大量虐殺でも有名である。――(pp.119-120)
無国家社会の痛恨
私=岩田の第3系列社会に属すると言えるアメリカ・インディアン部族の政治経済社会では、無文字社会であって、土地は誰のものでもなく、つまり共有でも、私有でも、国家が存在しないから国有でもない。意思決定は、合議制民主により、族長と言われ、酋長と呼ばれた大物と言えど、調整者、世話役、象徴的代表者であって、決して最終的意思決定者でもなく、命令権者でもない。経済財は、共用か私用かを問わず、共有であったようだ。軍事組織に関しても、武装し戦闘能力にたけた者は多くいても、最高司令官の命令一下彼の手足の如く動く者達ではない。たしかに、アメリカ・インディアンの政治家カンディアロンクKandiaronkがケベックのフランス人総督の前で行った議論は、インディアン社会のリアリティに基づいていた。
今日の日本や北米西欧社会のアナーキスト諸氏が高く評価するに値する。しかしながら、カンディアロンクとフランス人植民地指導者との間にかかる討論が平和的に実行し得たのは、フランスの植民政策が農業移民の大量入植ではなく、インディアン諸部族と政治的に同盟し、物々交換的貿易に傾斜していたからである。イギリスのように自国の余剰人口の北米における自営農化を目指す大量入植の場合にはインディアン諸部族の非国家的防衛組織では全く対処できなかった。
1680年代にフランス人と前記のような討論をしたKandiaronkは、1676年のメタカムの悲劇を知っていたはずだ。ヨーロッパの国家観念を学習して、アメリカ・インディアンの諸多部族を若干の民族類似実態に転形し、そして民族国家類似、国民国家類似を形成し、自分達の領土を守り、自分達の伝統と歴史を記述できる文字を創設すると言うような志向性がカンディアロンク等知欧インディアン政治家の念頭に浮かばなかったのであろうか。
そんな想念の誕生さえ、社会進化論によれば、歴史の発展段階を飛び越すことであり、起こり得ないことであるが。しかしながら、私=岩田のトリアーデ体系論では、第1系列、第2系列、そして第3系列が三種節合してはじめて、生産諸力・諸技術の質と量、人々の欲求・必要の質と量に適合する社会が生まれるのだ。
タシナ・ワンプリの話
さて、かなり妄想の境域に入って来たので、ここで現代の話にもどろう。川上徹著『戦後左翼たちの誕生と衰亡』(同時代社、平成26年・2016年)から一つの知られざる「事実」に関する証言を引用する。タシナ・ワンプリ、そのルーツを中央アジアにもち、どう言う訳か、少女時代をアメリカ・シャイアン居留地で育てられた。アメリカから逃れて、日本国籍をとって、日本に暮らす。ワンプリは語る。但し、私=岩田は、この証言の真偽を確認するすべをもたぬ。川上氏を信頼するが…。
1968年2月、アメリカ・インディアン部族の武装集団が南ダコタ州のある町を襲った。総勢200人の騎馬隊であった。深夜、雪降る時。
――…最初は大成功だった。私?学生時代だったけれども、立つべき時は今だと思った。学校では…。部族の言葉で話すと、〈汚い言葉を洗う〉と言われ、口の中を石鹸でかき回された屈辱が思い出された。積年の恨みを晴らすような気分で襲撃隊に加わった。――
――この町は…。特に部族たちの恨みをかっていたんだね。まず、われわれは商工会会長、町長、裁判所長官の自宅を襲った。暖かい寝室で寝ていたところを雪の中に引っ張り出し、それからその家を焼き、町を焼いた。二ヶ月間は白人たちは手出しができなかったよ。――
――でもね、これの仕返しが凄かったよ。軍によって潰された。300人ほどが虐殺された。ほとんどが手首から切り落とされていた。……。連邦軍、州兵軍は命令がなければ動けないけれど、自警団と名乗っている民兵はやりたい放題でした。勝手に殺す無法者たちだった。――(pp.50-51)
最後に一言。数多くのインディアン諸部族の絶滅の主因は、イギリス人等白人による殺戮と言うよりも、旧大陸人が持ち込んだ天然痘のような、インディアンが全く免疫を持っていなかった様々の病気であった、と強調される。異様である。諸部族の社会秩序が外部からの持続的侵略によって、動揺し弱体化していなかったならば、たとえば、やがて「三密」回避等の社会的対策に気付き、部族間・部族内対応が実施できたはずだ。史実の語るほどに、インディアンを大量病死させなかったであろう。反実仮想だが。それにまた、私のような日本国民は、1763年ポンティアック戦争においてアマースト男爵指揮下のイギリス軍が実行した対インディアン・天然痘膿塗毛布ギフト作戦、歴史上最初の細菌戦・生物化学戦について何も知らないできた。事実不識だ。
最後の最後にもう一言。戯曲化され、18世紀パリで20年間上演されたと言われるカンディアロンクとラオンタンの討論を東京の劇場で観たいものだ。
令和3年8月14日(土)
〈記事出典コード〉サイトちきゅう座 https://chikyuza.net/
〔opinion11212:210818〕