ルネサンス研究所公開シンポジウム(2012年9/22・土)<大内秀明著「ウイリャム・モリスのマルクス主義」をめぐって>に参加して
ウイリャム・モリス~宮沢賢治の文明転換の意思と実践
W・モリス~賢治、二人とも全人的解放をめざした天才です。近代文明のもたらした反自然、非人間性を反問し、環境・労働・生き方の変革をどちらも境界を越えて実践しました。
モリスが亡くなった年に賢治が生まれ、30歳のとき(死去の7年前)に発表した『農民芸術概論綱要』にモリス思想への共感を記した。という2人の「つながり」を、私は「賢治とモリスの館」大内秀明個人ミュージアムでの大内先生の講義で知りました。
「3.11仙台シンポジウム・協同の力で復興を!」2011/10/8(代表/大内秀明)に、ポスト資本主義研究会有志に道行して参加し、被災地のリーダーたちの、家族や家を失った極限での命がけの献身、ボランティア達の無私の活動、苦しみ悲しみに耐えて支え合う被災者たちの心を知り、非常に感動した翌日、「賢治とモリスの館」を訪ねて開眼したのです。
杜の都仙台を流れる広瀬川の源流.作並の「モリス館」は、(東北被災地を初夏~夏に訪ねて悲しみに暮れた私の目には)別天地のように見えました。大震災に耐えた館を囲む緑と花と背後の山!
テムズ河を遡り、「世界で一番美しいむら」コッツウォルズへの船旅―ウイリャム・モリスの『ユートピアだより』を想わせる庭は、イチイの生垣に囲まれ、モリスが愛した薔薇に似た薔薇が咲き、石の小舟にハーブが香り、野花の先に地元の工業高校生たちが作った小屋があった。その横裏はカタクリの群生地で春には姫ギフ蝶が舞う。という大内先生のお話を庭園で聞き、館内へ。
玄関横に【今もなほ 蕨生ふるや 茸いづや わが故郷の痩せ松原に】堺枯川(利彦)真筆の書、ふるさと福岡「望郷三部作」の一首があり、モリス著『理想郷』本邦初の堺利彦抄訳(平民文庫5箋)1904/明治37年刊の古書もあった。大逆事件、幸徳秋水の平民社弾圧のあと、堺利彦(獄中にいて大逆事件の冤罪を免れ、売文社を起して同志を助けた)は、ロシアボルシェビキ革命以前のモリス社会主義に共鳴していたことがわかる原本です。
ウイリャム・モリス(1834—1896イギリス人)の独特の文字の美しい書籍、精巧な初版本、ステンドグラス、デザイン画の数々、タペストリー、工夫をこらした綿と麻のカーテン、ランプ、絵タイル、家具、、、、そしてモリス思想の「グリーンダイニングルーム」へ。
青いモリスカップの珈琲とこの地の食材料理と近くの湧水と。デザートは賢治ゆかりの花農林檎焼!絶品の味を美しい器で楽しむ。この豊かさがモリスの環境藝術の一つ「ダイニングルーム」であり、本題の「キッチン・ソ―シャリズム」につながる。(と、今回新刊の本書を読んで改めて解った。)
私には非日常的豊かさでしたが、実感体験は「環境芸術」の大切な要素だと思います。
生前モリスが暮らした邸は美しいが、死後の墓は地味で質素だという話にも共感を覚えました。
W・モリスの前半生は隠れ家での多才多彩な藝術創作の日々だったが、晩年に変わった。「美が社会的要素を充たすことこそ大事だ」と考え、産業革命後の機械的過酷労働ではない、「悦びのある仕事を」。それには環境を改革することだと考えた。プルードンやキリスト教社会主義を経て、マルクス最晩年のフランス語版『資本論』を熟読した。マルクスが最も愛した末娘エリノアを支え、ドイツ語の達者なバックスからマルクス経済学と哲学を学び、社会活動に挺身した。それが「空想的社会主義」と言われ軽視され続けたのは、エンゲルスの主導権志向と『空想より科学へ』の偏りなどにあるようだ。
と館で聞いた大内講義が本書には詳しく明晰に説かれています。
モリスは日々の暮らしと手仕事を大切にした。それはキッチン(食)だけでなく、もっとも人間的領域の育児・家事・介護など、女の内での無償労働(シャドウワーク)とされてきた「命の手仕事」の価値復権につながります。女性原理に通底する思想とも言えるでしょう。
70年代後半から日本でも論じられたイヴァン・イリイチのシャドーワーク論も再検討し、「悦びのある仕事」を。日本でも法制上はほぼ男女平等になったが、現実は女性の補助労働や非雇用が増え、賃金は男の約半分、母子家庭の賃金はさらに低下した。若者の就職難も増えている。福島原発被ばくの子らの甲状腺異常も一刻も早く救わねば。原発容認や政治怠慢の復興の遅れは黙っていられない。暴力革命とは対極の変革をめざしたモリス主義が現実に役立つよう希う。
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☆ 賢治の「農民藝術概論綱要」と「羅須地人協会」のこと。
賢治は1926年春の「農民芸術概論綱要」にモリスの「芸術の回復は労働における悦びの回復でなければならない」の言葉を記している。モリスの思想・プロレタリア独裁の公式・マルクス・レーニン主義とはまったく違う自由な思想に大内秀明はハッとして調べた。すると「農民芸術概論綱要」で宮沢賢治がモリス思想への共感を述べている事を発見した。
「芸術をもて あの灰色の労働を燃せ」、そして「都人よ 来ってわれらに交われ 世界よ 他意なきわれらを容れよ」(2回くりかえされている)の言葉と「羅須地人協会」の実践に大内先生は注目した。
すでに賢治はマルクス・レーニン主義の公式論に背を向け、ロシア革命のその後を批判していた。賢治の死後激化したスターリン独裁の悲劇を見ると賢治の直観は当たっていた。賢治はモリスの「環境藝術」にぐっと来たのだろう。かれの生まれ年は明治三陸大津波、さらにその後も冷害や干ばつがひどかった。飢饉、窮乏、娘売り子売りなど住民は辛かった。惨めな「環境」を変えたいと賢治は切実に思ったに違いない。賢治はモリスを継承しながら、四次元の芸術論に発展させ、イーハト―ブ(賢治の造語・理想郷)をめざした。
☆ 賢治がめざした四次元藝術とイーハト―ブとは何か。
「農民芸術概論綱要」は10の章を立てているが系統立っておらず、短い詞(命題)の集合は直観的、詩的である。(以下抜粋)
「正しく強く生きるとは銀河系を自らの中に意識してこれに応じて行くことである」
「われらは世界のまことの幸福を索ねよう 求道すでに道である」
「いまわれらはただ労働が、生存があるばかりである」
「宗教は疲れて近代科学に置換され しかも科学は冷たく暗い」
「芸術はいまわれらを離れ然もわびしく堕落した」
「岐路と邪路とをわれらは警めねばならぬ」
というリード的な詞と「藝術をもてあの灰色の労働を燃やせ」の詞、そしてモリスの引用がある。
「Morris ◎ 明らかに有用な目的 休息自らの創造 生産/ 時間の交易物は自ら造れ 変化
能力の発展 環境の楽しいこと 好める伴侶のあること」
「ここにはわれら不断の淨い創造がある」
(「労働は創造である。人間を犠牲にして生産に仕ふるとき苦痛となる」トロツキーはこの一行のみ)
ユーモア童話や絶妙なリズムの詩を生んだ賢治は、歌や音樂、踊りや祭りが好きだった。人間だけでなく動物・植物はもちろん石とも異種交流する。小さいときから小石を集めて観察し、石に地球と宇宙を感じ、「石っ子賢治さん」と呼ばれた。動植物を人間の比喩として使わず、そのものに同化して詩・ことばをくり出すのだ。いや意識下から音や色やことばが湧き出てくるのだ。
「青い松並 萱の花 古いみちのくの断片を保て 『つめくさ灯ともす宵のひろば たがいのラルゴをうたいかわし 雲をどよもし夜風をわすれて とりいれまぢかに歳よ熟れぬ』 詞は詩であり 動作は舞踊 音は天楽 四方はかがやく風景画」(ラルゴ=ゆっくりと豊かに・音楽用語)
「おお朋だちよ いっしょに正しい力を併せ われらはすべての田園と われらのすべての生活を
第四次元の藝術に創りあげようではないか」
「春と修羅」には「これらの命題は心象や時間それ自身の性質として 第四次元延長のなかで主張されます」とあるが、四次元は見えない。
四次元は時空を超え、見えないけれど、彼方のただの幻夢ではなく、賢治は意識下の潜在力で四次元芸術を目指そうとしたのだと私は思う。大自然・宇宙マクロコスモスの摂理と呼応する心身ミクロコスモス・潜在力を、賢治は<無意識部からあふれるもの>と言う。「直観と情緒との内経験を素材としたる無意識或は有意の創造である」「無意識部から溢れるものでなければ 多く無力か詐欺である」
やむなき事を発信表現せよ、と賢治は強調する。それこそが四次元芸術に結実し、イーハト―ブ(賢治の造語、心象世界の理想郷)になると賢治は考えたのではないか。
「なべての悩みをたきぎと燃やし なべての心を心とせよ 風とゆききし雲からエネルギーをとれ」「まずもろともにかがやく宇宙の微塵となりて無方の空にちらばろう」
(息を吐き、分に合った小さめの雲を見つめると雲は消える、すーっと身体に入り楽になる感覚は当たり前の私のリアルな日常体験であり、呼吸法の「常識」となりつつあるが、この感覚かどうか?は判らない)(微塵は塵ゴミではない、命のもと)(大自然のエネルギーの中で命は生かされていることを、物質文明のマイナス要因のもとで人間は感得しにくくなった。人間はだれもがもっている潜在能力の5%~10%しか使っていないという。脳の一部の意識だけで考える、これは自我肥大の錯覚である。細胞が刻々すばやく変化していることさえ忘れがちだ。森羅万象万物万人平等は、暴力的イデオロギーではかれはしない)
「世界全体が幸福にならないうちは 個人の幸福はありえない」(これは宗教的な考えか)
賢治は仏教徒である。真の宗教は名や教義経典が違っても同根である。宗教を名乗るまやかしの人権侵害を、その「岐路と邪路を、われらは警めねばならぬ」
「前途は輝きながら嶮峻である。嶮峻のその度ごとに四次元藝術は巨大と深さを加える」
☆ 賢治のユーモア!
賢治は生前、1冊だけ童話集を出した。その『注文の多い料理店』大正12年12/20の序文がいい。
「氷砂糖をほしいくらいもたないでも、きれいにすきとおった風をたべ、桃いろの朝の日光をのむ
ことができます。はたけや森の中で、ひどいぼろのきものが、いちばんすばらしいビロードやラシャや宝石入りのきものにかわっているのをたびたび見ました。〈中略〉かしわ林の青い夕方を一人で通りがかったり、十一月の山の風の中に、ふるえながら立ったりしますと、もうどうしてもこんな気がしてならないのです」
もうどうしても、こんな「気」がする、書きたくておさえられない、という事は何か。ドキドキして読むと、山猫や黄金色ぴかぴかのどんぐり達の可笑しな活写だ。みんなの競い合い、だれが偉いかて?いちばんバカでめちゃくちゃで、なっていないのがエライ、シュン、のうまさオモシロさ!
都会人2人の山奥の料理店での言動、権威におもねる滑稽さ、逆に食われそうになって目が覚めても「一ぺん紙屑のやうになった顔だけは、東京に帰っても、お湯に入っても、なおりませんでした」
笑わずにはいられない童話たちは境界も時空も性別も自在に越えて活き、しかも鹿も鳥も電信柱もわたしたちのすぐそばにいるようだ。人生に必要なものはやっぱりユーモアなのですね。
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<覚え書き>東北の避難所で思わず「雨ニモマケズ」を口にした被災者たちの気持!とは違う賢治痛烈批判の難解なイデオロギー本も出た。「雨ニモマケズ」は自己犠牲を煽る修身の詩だと批判する人たちもいる。が、賢治は「修身」に使われる事など少しも望んでいなかった。「雨ニモマケズ」は花巻在住のキリスト者、齊藤宗次郎の事を病床で思った願いの詞だと言われている。禅寺の息子で内村鑑三の弟子になり、「国賊」として迫害されたが屈せず、デクノボウと呼ばれながら村びとの苦難に寄り添い、ついに村の皆から慕われた齊藤宗次郎を賢治は尊敬していた。賢治はこの病床で遺書も書いた。
賢治は1920~21年の国柱会(日蓮宗)布教活動も批判されている。国柱会には石原莞爾がおり、のちに板垣征四郎や東条英機も少し関係したというけれど、賢治は「満洲国」には関係ない。尊敬していた妹トシに影響されたとも言われるが、「妹の力」トシは肺結核で夭折、賢治は打ちひしがれ、昇華すべく「無声慟哭」を詠い、1924年『春と修羅』を自費出版した。これがアナキスト辻潤に賞賛され、「もうどうしても書きたくて」イ―ハトーブ童話をたくさん生み出した。
世界平和のためのエスペラント語を習得し、「労働に悦びを!」の羅須地人協会を創立、自分も百姓しながら若い農民有志とセロやオルガンを習った。農民の演奏は上達しなかったそうだが、賢治は音楽に熱中し、労働農民党にも尽くし、モリスのように花壇のデザイン、造園の仕事もした。肺の弱い賢治は病に倒れ、羅須地人協会は7カ月で中断した。
経済恐慌~満洲事変・満洲占領~治安維持法など厳しく暗い時代だった。賢治も尾行聴取され、仲間の農民を慮ったが、賢治は転向したのでなく病気で休んだのだ。かなり回復し、農地土壌改良の石灰砕石工場から熱心に乞われて技師として就職した。率先して販売活動もした。賢治を奉り美化してはならないが、事実に反した非難は良くない。
私たちの中学社会科3年間のF先生の授業は、「民主主義」と新憲法の教科書で、「春と修羅」「銀河鉄道の夜」の話が多かった。「民主主義」の中に「純心な人間になろう」というイラストつきの項があった。F先生は「純心なだけでは駄目だ。騙されない聡明な人間になれ」「叡智を養うこと」と言った。戦場の残酷な体験と原爆、沖縄の悲劇を伝え、「銀河鉄道の夜」の「命の切符」(他者を思いやる心)にふれた。「平和は自分の心の中から創り始める」ことも考えさせられた。私は「叡智」の字の書き取りをして教科書の純心を叡智と書き直した。高校の自由研究も賢治だった。10年後F先生は専門の工学に転じ、人助けの菩薩行を続け、自宅で生涯を閉じた。最後の日まで50年間私は親交を結んだ。
「3.11」のショックのあと、ふと私は思った。『銀河鉄道の夜』は時空を超えながら現実の生死を伝える「童話」だと。「ジョパンニとカンパネルラは大事なことがわかった。天に行かなくてもいいじゃないか。ここで天上よりいい所をこさえなきゃいけない、という事がわかった」
父の帰らぬ(母子家庭の)ジョパンニを苛めるザネリ、かれが激流に流される。思わず救おうとした(ジョパンニの親友の)カンパネルラが波にのまれてしまう。ザネリは助かる。生と死、命の有限、善悪を超える大自然の威力!賢治の生まれ年に起こった東北震災大津波の出来ごとではないか。
カンパネルラのお父さんは逆縁の悲しみに耐え、愛息の友人達に「うちに遊びにおいで」と言う。おとなの「人の道」、地域のリーダーの姿が「3.11」のそれに重なり、私は落涙した。
東北被災地のガレキの荒野で絶句したあと、もの忘れ名人の私の口から賢治の詩の断片がほとばしり出た。風景は涙にゆすれ「いかりの苦さ また青さ 四月の気層のひかりの底を 唾しはぎしりゆききする」 「天雲のわめきの中に湧きいでて いらだち燃ゆる サイプレス」
☆「雲からも 風からも 透明なエネルギーがそのこどもにそそぎくだれ」☆印は最近いいなと思った詩の一行です。詩の天才賢治は、絵も作曲もいい。37歳の早世が惜しまれます。
1997年初夏、デンマークの「風のがっこう」(環境問題と再生可能自然エネルギー作り研修)1期生として短期だが学び、自主的演劇音曲学校も見学した。この研修所主宰のケンジ・ステファン鈴木さん(1944年岩手県生まれ、デンマーク国籍)が言った。「私の祖父は岩手の東北砕石会社をおこし、宮沢賢治さんに技師をお願いして協力して頂きました。私の名は賢治にあやかって命名され、羅須地人協会のような活動をめざして大使館勤務をやめて、脱原発の<風のがっこう>を創ったのです」
帰国後、ケンジ・ステファンさんから「岩手のことを書いた叔父の手記です」という一文と砕石場での賢治とその仲間の写真(複写)を送って頂いた。そこに賢治の晩年の様子が記されていた。
岩石の専門家でもあった賢治は、岩手県東北砕石会社に技師として就職し、率先して営業活動もした。石灰の宣伝販売のため上京し、途中仙台で泊まった宿、襖だけの隣室のドンチャン騒ぎ(宴会)、賢治は一睡もできず、翌早朝、上野行きの汽車に乗って寝入った。9月のことで窓を開けていたので煤煙の風が吹き込み、喉を痛めて発熱、上野に着いて重いトランクを下げて歩き、夜、宿に着いて倒れた。症状重く、10日後に帰宅し、病床で11月3日に手帖に記した詞詩が「雨ニモマケズ」。1933年9月21日(前夜遅くまで農民の相談に乗り)肺炎で他界。2年後、「雨ニモマケズ」が見つかった。弟の清六さんたちの大変な尽力で賢治のたくさんの遺作が明らかになった。
賢治は自分のための健康管理は忘れていたようだが、最後まで農民庶民と共に在り、理想は捨てなかった。「永久の未完これ完成である」(農民芸術概論綱要より)
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「賢治とモリスの館」の見学(食事)は完全予約制。雪の冬期は休館
『協同の力で復興を!東北の豊かな自然を活かす』シンポジウム報告:大内秀明・半田正樹・田中史郎:変革のアソシエ 2012年1月、刊
『農民藝術概論綱要』は宮沢賢治全集10 (ちくま文庫)
『注文の多い料理店』他八篇は角川書店昭和31(1956)年版(挿絵が素敵)
〈記事出典コード〉サイトちきゅう座 http://www.chikyuza.net/
〔opinion1035:121015〕