(1)
ロシアのウクライナ侵攻から早、2か月も半ばが過ぎ、やがては3カ月に近づいている。この戦争はプーチンが構想したような電撃的にウクライナを攻略し、ゼレンスキ―に替わる傀儡政権を立てる目論見は失敗したように思う。ウクライナ側の予想を超えた抵抗によってロシア軍は後退を余儀なくされ、戦争は泥沼の長期戦の様相を取り始めている。軍事強国とみなされてきたロシアの力によれば、ウクライナの抵抗は長く続くものではないだろうというのは大方の見方であったと思う。プーチンもそのようにウクライナの人々の抵抗をみていたように思う。プーチンの誤算として取りざたされることだが、これは多くの人に指摘されるように日本の中国侵略(支那事変-日中戦争)における日本軍の初期の失敗に似ていると言われる。加藤陽子は日中戦争の初期における上海占領作戦の失敗に類似していると指摘する。
この戦争に特徴的なことはロシアのウクライナ侵攻が明瞭な侵略戦争でありながら、ロシアの戦争目的とか動機がなかなかわかりにくいということがあった。これはプーチンの国家戦略というかその中での戦争が秘されてきて(公開されず)、わかりにくいといこことがあった。僕はすべてに目を通したわけではないが、新聞、雑誌、書籍、ネット、報道などでウクライナ戦争についての見解に接した。そこで僕が目にしたものは混乱とでもいうべきものがおおかった。特に市民運動や反体制運動側から流れ出来るものにはそれが目についた。今のところこの言説はネットを通してということになるのだが、政府筋というかアメリカや西欧筋から流れてくる言説に対抗しようとしているのはわかるが、それは混乱したものというほかないものだった。世界的な反体制運動の混迷を映し出しているのだともいえるし、かつての反体制運動(大きくは西側の反体制運動)が依拠していた東側(ソ連や中国)の側から出てきた戦争故の戸惑いがあるのだといえる。今回の戦争が、アメリカと中国の対立を背景にしており、やがてそれが浮上してくる事態を想像するときに、これは興味深いことと言える。もっと普通にいえば、反体制運動(左翼や市民運動)はその根幹に据えていた反戦論(非戦論)が行きづまっているというだろう。空理空論の類で思わず失笑してしまうものも多かった。そこでは魅力ある言説が見られないと言いうことである。記号の羅列のような言説がみられるだけである。ロシアのウクライナ侵攻が明瞭でもロシアのこの戦争の目的、あるいは動機がつかみにくいという客観的な要因もさることながら、そこにはこの戦争を認識せんとする側の主体の側の戦争観に問題があるのだろうと思う。反体制や反権力運動が伝統として受け継いできた戦争観が現実の戦争を分析し、認識するには役立たないことをしりながら、そこを脱却する糸口も見いだせない事態にあるといえようか。単純に言えば社会主義者の戦争観が混迷を強いられているのに、出口を見いだせないでいることか。
僕はこの戦争の目的や動機を探索せんとして、『プーチンのイデオロギーと政治哲学』や『ナワリヌイ』を読みその書評もした。この間、その続きをと思って多くの本を読んだが、少し前に出た亀井郁夫と沼野充義の『ロシア革命100年の謎』が面白かった。これは2017年ころに出た本で今回のウクライナ戦争を言及しているわけではないのだが、ロシアの専制的権力の秘密を探っているところがあるからだ。久しぶりにウィットフォーゲルの『東洋的専制』も読んだ。これは中国の権力(政治)のことを念頭にしたが、示唆されることもおおかった。1970年の後に僕は『乾坤』という雑誌を出していて「現代中国のイデオロギー毛沢東論」を書いていた。それを思い出したが、急いで習近平の権力(政治)の分析と認識に取り掛かりたいと思っている。僕は今回のウクライナ戦争の秘密がプーチンの専制権力というところにあるとみているから、それと関連させて習近平の世界を取り出したい。小室直樹の『戦争と国際法を知らない日本人へ』もおもしろかった。これは以前に彼が書き残していたものだが、今回の戦争が国際法に違反すると言われ、現状の秩序の変更として非難されることの歴史的な根拠を考察しているところがあり、興味深かった。これはプーチンが民主的独裁と言い、習近平が民主的国際秩序という事の考察にもつながるものでもあるといえる。
(2)
今回のウクライナ戦争についてはこれが明瞭な侵略であり、これをはっきり批判し、ウクライナの人々の抵抗を無条件に支持することが差し当たっては大事なことだと考えてきた。プーチンの擁護ではないがウクライナにも戦争の要因があるという言説は後景に退かしておいた方がいいと考えてきた。この戦争がNATOの拡大だとかアメリカとロシアの戦争という言説もそうだった。これはプーチンの侵略戦争というところを曖昧にし、ウクライナの人々の抵抗の意味を曖昧にするからだ。そして戦争を戦っている現実の人たちには通ずるはずのない傍観者的な提案などにつながるからである。プーチンは悪いけどゼレンスキーも悪いというような言説と提案になって出てくる。こういうことがあるから、僕はプーチンの側から出てきたNATOの東方への拡大が戦争の要因だとか、アメリカの仕掛けた戦争を取り上げることを端においてきた。
だだ、これは歴史的な視線を入れて考えれば考察の対象になることだと考えてきた。今回の戦争で現れたアメリカの戦争ということを取り上げたい人が多いのは、プーチンの擁護ではなく、反米意識が結構強くあるということなのだが、日本の支配層は戦後に親米保守の転じ、アメリカと同じ価値観を共有するとしながらも、反米意識はそれなりに残っている。左右のイデオロギーを超えてのことである。僕は村上一郎や江藤淳、あるいは三島由紀夫などの戦中派の思想家たちのことを思い浮かべ、彼らならどう反応したか、想像した。ただ、僕はプーチンや習近平の反西欧理念、その表現としての「民主独裁」とか「民主的国際秩序」というのは歴史的に試され、敗北した考えであると認識している。かつて日本の天皇制の下で日本の軍隊が「世界で最も民主的な軍隊である」と公言していたことを想起すればいい。皇国史観や国体の物語を考えればいいと思う。だから、この戦争も負けるといっていいものだと思う。プーチンの戦争の敗北と同じように、習近平だって同じ運命をたどるだろう。
この敗北は吉本がチュウインガムを噛んでいる兵隊に足の上げ下げをそろわせることを気にかけていた軍隊が勝てるはずがないのだと言ったこと思い出す。パレードやマスゲイムのように統制された軍隊が強い軍隊だと錯覚しているのはファシズム以来の伝統だが、それは今、ロシア兵とウクライナ兵の差となっているのだろうと思う。対西欧(対自由、対民主、対人権)の思想はその軍隊の構成によく表れていて、パレードの誇示にそれを見るが、こうした専制権力の象徴は見かけほど強くはない。ここではいつも自由なんて放逸とみなされ、弱さとみなされるが、それは違うのである、規律とか統制とかを持つことの強さを専制権力は誇るが、そんな規律や統制なんて現実にはつよくない。人は現実の必要に応じて規律も統制もやる。それは自然にうまれるものだし、そういう自然から生まれた規律が一番強いのである。権力が上から強いる規律とか統制は、見かけは強く見えるが、現実には弱いのだ。そして野蛮な虐殺も演じる。僕は北朝鮮の軍事パレードを見るたびに彼らが核兵器にこだわる理由を推察する。恣意的に自由であるように見えても、人間は現実に必要なら、規律を持ち、統制もする。恣意的で自由な状態は可能であれば一番いいのだが、近代軍隊の規律や統制なんてあてにならない。ロシア兵の虐殺をみて僕はそんな感想を持った。
これは日本が敗戦によって学ばされたことであるが、だからと言って反西欧ということはなくならない。僕は先に戦中派の思想家たちのことをあげたが、この反西欧という伝統的意識は反米感情としてあるし、考慮に入れておくべきことだとは思うが、ここから先がつまりは反西欧思想の中身が問題なのだ。反西欧として東方の立場を対抗的に演じた歴史を僕らは知っている。その敗北も。だから、反西欧ということを心したかったら、その敗北も含めてそれを超えていく中身がなければならない。それは上で言った軍隊のこともその一つの例である。
プーチンがNATOの東方拡大が安全保障上の危機だというのは軍事上のことだと考えればこれは嘘だろう。ウクライナがNATOに加盟したからと言ってウクライナがロシアに戦争を仕掛けることがないことをプーチンのよく知っているはずだ。NATOとワルシャワ条約の対抗とその歴史を見ればそこ事をよく知っていると思う。それではなぜ安全を脅かすというのか。これには理由があると思う。ウクライナがNATOに加盟することではなく、民主的な政治形態(西欧流の政治、統治形態)になることはロシアの専制的政治権力にとって危機であり、それは脅威である。これは中国の台湾問題にもいえる。台湾がアメリカと提携を強め、軍事力を強めれば中国は安全保障という軍事危機になるのか、あるいは安全保障上の危機になるのか。確かに、軍事的関係は相互関係のことがあるから、他国の軍事力の拡大は自国の軍事的危機のように現象する。しかし、それがお互いの自己防衛の枠組みを持ってのことなら、自国の危機にはならない。中国はそのことがよくわかっているはずだ。中国にとって台湾が危機に映るのは台湾が自由で民主的な政権であれば、自己の専制的統治権力の危機になる。国内での民主化運動を彼らが抑圧していることをみればいい。香港をみればいい。
脅威は自己の統治権力が国民との関係で変革を迫られることであり、統治権力の存在様式の問題であって、対外的な事柄ではないのだ。この脅威を軍事的危機(安全保障の危機)にするのは問題のすり替えであり、欺瞞なのである。言ってみれば、統治権力の内的矛盾が他国の統治権力の存在によって露わになるとして、他国の統治権力に介入し、支配を企てることは筋の違う話なのだ。これを自国の安全保障の危機にするのはすり替えである。ロシアや中国の統治権力の危機は統治権力の問題として解決すべきであり、他国の統治権力が軍事力を強化するとか、しないとかは関係がないのだ。
アメリカやヨーロッパが「自由で民主制という価値観」で対抗し、独裁国家を脅かすということをアジア的(非西欧的)な国家や価値観の問題で対抗するしかなかったことはプーチンの悲劇であるが、ここは僕らには考えるべき課題でもあるように思う。戦後のアメリカとソ連はファシズムに対抗しながら、分裂と対立の関係に入った。それは経済的な対立ではなかった。アメリカは「自由と民主制という価値観」を推し進め、これに対してソ連と社会主義共同体は「社会主義という価値観」で対抗した。そこには冷戦があった。この冷戦は軍事的対立においてではなく、社会主義圏の内部崩壊で終った。そして、社会主義圏の多くは西欧圏の方に移行した。中国はこれから残ったのであるが、プーチンは西欧の価値観の方に移行するのでなく、かつての社会主義の再生ではなく西欧流の「自由で民主制」でなく、彼が「民主独裁」と称する価値観、統治権力の体制を構築した。プーチンの体制も習近平の体制もアメリカや西欧の体制と冷戦以降の対立構造を維持してきた。相互に相手の軍事的脅威を宣伝してきたのであるが、ここでプーチンや習近平の「民主独裁」や「民主的国際秩序」が西欧やアメリカの「自由と民主制」に対抗したまもるべき価値を持つのか、どうかである。プーチンや習近平の民主主義はかつてなら「社会主義」のという理念だったことを思い浮かべてくれるとよい。
僕は、これはダメだと思う。中身がないからだ。結局のところ、ロシア正教的宗教やアジア的宗教で対抗するだけだし、政治的には近代民主革命の到達点に対してアジア的な統治権力しか対置できない。その場合には近代民主革命が達成した「自由で民主的で人権的な」価値観に勝てない。この近代の価値観はそれ以前の価値観に対しては相対的優位にある、例えば侵略戦争を禁じる国際法は近代西欧の価値観であるが、これに対抗して侵略戦争を演じても勝てない。それは相対的なことであつても、普遍性への歴史の歩みという点で敗北するしかないのだ。
(3)
今回のロシアのウクライナ侵攻にあたって、興味を持ってみているのはロシアの国民はプーチンをどこまで支えているのか、それは何よってかということがある。ウクライナの人々の抵抗とロシアも国民の反抗が連帯し、戦争を終わらせることがこの戦争で考えられる最良のシナリオと考えるからでもあるが、ここは情報のこともあり、よくわからない。亀山郁夫はネットでロシア国民は嘘だと思いならプーチン出してくる物語を信じているのだと記していた。
「ソ連時代を知る国民はテレビがすべてすべて真実を伝えるとは思っていません。『だまされている』よりも、彼らが心の中で熱心に求めていた物語をテレビが流しているから喜んで受容している、というのが実態でしょう。長い年月、祖国は西側にひどい扱いを受けてが、プーチン大統領が屈辱を晴らし、ソ連のような大国に戻してくれるという期待です」(5月11日付朝日新聞、池田嘉郎)。
祖国は西側からひどい扱いを受けてきたという物語は東方の西欧からの圧泊という近代の物語であり、日本でもおなじみのものであり、戦争中の国体(皇国)の物語でもあった。習近平下の中国国民の西側側への恐怖(反発)、西側の手先批判をいうのも同じである。この物語は非西欧の世界が近代世界の西欧の思想制度を受容しながら、恐怖や反発を持ってきたことである。
僕は昔、母親になぜ戦争中に貴金属の供出に応じたのか、ときいたことがある。僕の父母は若いころ外国暮らしが長く、戦争について客観的立場を持っていたのではないかと思うところもあったからだ、母親は戦争に負ければ殺さると思っていたからと言った。ちょっと驚きだったが、これは当時の庶民の気持ちだった、と思う。負けたら殺される、というのは恐怖の共同幻想だったと思う。「祖国は長い間、西側にひどい扱いを受けてきた」という物語はこの恐怖の共同性というべきことだろう。この恐怖の共同性は戦争の幻想的基盤であるが、これを物語、つまりは国家意思に導いたというのがプーチンの戦争である。僕は明治維新期に会沢正志斎が『新論』の中で尊王攘夷を述べているところで、開国が武士階級の統治の地位を脅かすとしていたことを想起する。開国は当時の統治権力者たる武士の統治権力の危機をもたらすとしていたのである。開国によって地域住民は武士階級の統治権力を変えてしまうかもしれないという恐怖があり、その統治権力の保持のために、尊王攘夷を打ち出したというのである。ここには当時の武士階級の統治者としての地位保持の危機があり、これが武士の危機感であり、武士階級の恐怖の共同性だった。尊王攘夷は明治維新後何度も現れるが、僕の母親たちは「戦争に負けたら殺される」という恐怖の共同性が降りてきた物語を信奉する段階にきていた。西欧側にひどい扱いをうけてきたという物語には、ナチズムの侵略ということも刻みこまれていると言える。
ロシアの地域住民は西欧やアメリカの「自由と民主制、あるいは人権という価値観」を受容しながら、恐怖を持ち反発してきた。スターリン統治下でこの物語は存在してきたと言える。これに近代資本主義に対する感情を加えてもよい。かつて竹内好が評価していた近代アジアの抵抗ということを思い浮かべてもいい。
近代西欧とアメリカの達成した思想制度とはなにか。ここには資本主義もくわえてもよい。キリスト教を基盤として近代国家を作ったことである。キリスト教の神の前の平等や自由を法の前の平等に転位させ、政治国家を作ったことである。よく言われる宗教-法-政治と国家を転位させたことである。これはフランス革命やアメリカの革命を出発にした。ヨーロッパを舞台に近代化した国家(列強間)の戦争と東方への帝国主義的進出(東方諸国の植民地化)を生み出した。「自由と民主制と人権」という価値観の拡大は政治経済的な帝国主義化と戦争を伴った。東方の住民たちの恐怖と抵抗を生んできた。アジアの抵抗を生んだが、これは敗北と挫 折を繰り返してきた。だが、それは東方の人々の意識の中に消えずにあるものだ。上のところでロシアの国民が西側からひどい扱いを受けてきたという物語は東方の住民にあり、東方の多くの国がアメリカや西欧に警戒心を持ち、アメリカの戦争という意識を喚起させた理由だと思う。
プーチンの西側批判が侵略戦争を持ってするという矛盾を僕らは日中戦争に見ている。そこに批判を見ているが、ロシアとアメリカの戦争ということにも批判的だ。西欧の近代化が戦争を伴ってきたこと、それに対する抵抗が対西欧の戦争を生み続けてきたことも知っている。非西欧の戦争が自ら仕掛けた戦争に見えても、これはアメリカが仕掛けた戦争であることも知っている。今回の戦争をアメリカとロシアの戦争であり、帝国主義戦争だと認識したがるひとのことはわかる。それは近代に戦争の多くが西欧諸国やアメリカなどから仕掛けられたものであり、そのことを忘れたくないという思いがあるからだ。NATOの東方拡大やアメリカの工作が今度の戦争の原因だという認識はそこからきている。僕がそこに疑念を呈するのは、それを歴史的視座で見ることそこにずれがでてくるからだ。アメリカの戦争という場合にはアメリカ資本主義の戦争ということになったしまうこともあるが、西欧と東方の対立という図式を呼びこんでいる。
ここをしっかり検討しないで、ロシアとアメリカの戦争というのは歴史的に流布されてきた戦争観を使っての戦争の分析や認識をしていることになる。
プーチンの行動の敗北性、アメリカの戦争(アメリカ的価値観)を超えるものを認識すること欠落させているからだ。アメリカの戦争という批判はその対抗部分がアメリカ的価値観を超えるものを欠落させてきたことに無自覚だからであると言える。先の方で僕は戦後も反米意識を堅持してきた戦中派の面々をとりあがた。村上一郎、江藤淳、三島由紀夫などで前にあげた。彼らは太平洋戦争でアメリカとの戦争においては軍事的には負けたかもしれないが、価値観をめぐる面では敗北していない、それは続いているというスタンスを取った。僕はそれに共感しながらも、不満だった。なぜか、アメリカ的価値観【自由・民主・人権】を超えるものが提示できないし、そのままではかつての日本主義に帰らざるをえないと考えたからだ。三島由紀夫はその典型だった。彼はアメリカの価値観(アメリカ文化)に文化概念としての天皇を対置した、村上一郎は反米と階級論の二つを思想の核にしていたが、階級論は消え、その反米論は三島に近づいた。
アメリカ的価値観は僕らの前には戦後民主主義としてあったが、これを超えるという問題は戦前の反米論にはないことを僕は感受していた。階級論もそれを超えられないというのがもう一つあった。戦後民主主義をどう超えるかの思想の混迷は戦後思想の混迷だったが、その突破の道はかつての反米論や階級論にはないのであって、僕らに現存する(現実感覚や意識)としてある自由や民主制、あるいは人権の感覚にしかないのであり、そこしか可能性はない。
逆説的に聞こえるかもしれないが、ウクライナの人たちの抵抗は西欧諸国やアメリカの支援を受け、その価値観の同意していくようにみえてもそれを乗り越えていくものがある。その可能性がある。それは彼らが現存感覚として自由や民主制の意識を、不当な隷属、暴力を持って隷属に対抗する中でもっているからである。戦争を持ってする隷属の要求への抵抗がはらんでいるものは、現実的な自由や民主や人権への感覚であり、これは「アメリカ的価値観」を超えるものを持っているのだ。プーチンの側にではなく、ウクライナの人々の抵抗の中に、近代西欧が拡大してきた、価値観を超克するものがある。それを見なければならない。
なぜだろうか。かつてマルクスはスランス革命に始まる近代革命の果てをアメリカ国家、ヘーゲルの自由の理念にみた。それはキリスト教を基盤とする近代の国家革命(政治革命)が自由や民主制、あるいは人権という事を成立させたことである。ただ、マルクスはこれが政治国家と社会国家の二重化としてあるということして指摘した。つまり自由や民主制、また人権を政治国家(宗教的国家の転位した政治国家、幻想国家)の内部で実現したものであり、社会的国家という人々が現実に生きる生活圏では自由はなく、非民主的で差別的であるとした。いうまでもなく、民族自決のようなものも幻想的なものであり、拡大した政治国家域で通用したものである。こうした中でマルクスは政治国家の完成(世界的拡大に含む)に対して、政治国家を転倒する、あるいは社会国家におろすという形でその方向を提示した。これは社会国家の内部で自由や民主制、あるいは人権を実現することだとした。別の言葉で言えば、自由や民主制、人権をイデオロギーとして実現するのではなく、現実の世界で実現することとした。ネグリのいう構成的権力である。構成的権力憲法制定権力であり、自由や民主や人権が大衆(市民、地域住民)の意思として出てきたものであり、革命の源泉だった。しかし、出来上がった、構成された権力(法や憲法や自由、民主というイデオロギー)は革命の源泉たる構成権力とは疎遠な状態になった、これはマルクスがいう政治国家での実現であって、現実の社会には抑圧も差別も、強権(国家的暴力)も、戦争も残したことであるということだった。僕らが戦後民主主義下で直面したじたいだった。マルクスはこの転倒とか、降ろすとかを提起した。それはイデオロギーのうちにではなく絶えざる市民や住民の体制に反抗する運動のうちに。現実の反体制運動や活動内にあるとした。これはマルクスが観念論に対して唯物論を提起したことであるが、この場合の唯物論は現実的意識ということであり、イデオロギーという観念的意識に対したものだ。現実(現存)意識としての自由や民主や人権の問題を提起したのである。ぼくはかつてそれを恣意的自由のこととして提示し直したことがある。
マルクスはこれを示唆する知見を残したが、理論的なものは残さなかった。政治革命論としては残さなかった。遺稿というべき『ヘーゲル法哲学批判ノート』として残しただけだった。だから、マルクスを受け継いだとする面々(マルクス主義)は混乱した。要するにマルクスは近代国家が自由や民主制や人権を政治国家の内部で幻想として実現しても、現実には自由はなく、非民主的で非人権的なことが横行しているとしたのであり、国家としては暴力的で強権的な支配を残し、戦争も残した。このマルクスの指摘はキリスト教圏外(東方)では強権的で暴力的 な支配が存続したことを意味する。アジアの抵抗はマルクスのいう政治国家の転倒という課題と結びつくかということが問題として意識された部分もあった。竹内好は中国の近代化の中にその結合の幻を見た典型だった。それは日本の西欧への抵抗の挫折を乗り越えるものとしてイメージされた美しい幻想だった。そして、それは挫折した。
マルクス主義は政治国家を生みながら、現実(社会国家、市民社会)で抑圧的、差別的非人権的なものが残るのは階級関係に原因がるとした。マルクスの社会革命としてのプロレタリア革命だった。マルクス主義はこれを絶対化し、領域を拡大した。史的唯物論や唯物史観として。これは経済過程を絶対化することで政治革命の独自性、歴史性を部分化してしまった。すべては階級的(経済的)な政治権力のせいであり、資本主義を打倒することが、マルクスの言う社会国家の中で自由や民主制あるいは人権を実現することであるとした。階級の解放を根底に持つ革命運動としてこれは現象した。レーニンはこの階級闘争と東方の抵抗結び東方革命とした。このマルクス主義はマルクスのいう社会国家における自由や民主制、人権の実現をはずした。それを彼らは法や憲法がブルジョワイデオロギーであると批判したことに象徴される。マルクスが政治国家の内でしか実現していない自由や民主や人権を、またネグリの言う構成された権力の構成的権力からの疎遠状態をすべて階級関係と階級的権力に還元してしまった。自由や民主や人権が現実にお生活圏で実現することを外してしまった。非戦ということも。ここは微妙な問題だったがずれは大きなものとなった。これはM・フーコーのいう階級という概念の史的限界なのだと思う。自由や民主制や人権の問題は階級問題というよりは権力問題なのだ。戦争もそうである。マルクス主義はそこを外してしまった。
マルクスの完成された近代国家の批判は「自由で民主的で人権という価値観」を持つ国家への批判であり、アメリカ民主主義が戦争を内包していることの限界の批判である。ただ、この批判は西側にたいする東方の抵抗として繰り返されてきたもの、あるいは階級的なものとして展開されてきたものの延長線上にはない。それには環が抜けている。プーチンいう民主独裁も、習近平の民主的国際秩序もその点では同じである。それはマルクスの言う現実の中に、自由や民主制や人権を実現していくものを持たないからであり、彼らいう民主はキリスト教の代わりにロシア正教や宗教化した社会主義を対置したにすぎないからだである。
〈記事出典コード〉サイトちきゅう座http://www.chikyuza.net/
〔opinion12078 :220530〕