《目次》
はじめに
Ⅰ 背景
1 ウクライナとロシア
a ロシア革命まで
b ソ連時代
c 独立後
2 アメリカ・NATOとロシア
3 ウクライナとNATO
Ⅱ 最近の動向
1 開戦
2 戦争
3 停戦交渉
おわりに
*********
はじめに
「ウクライナ戦争をめぐって」という小文をこのホームページにアップロードしてから1ヵ月ほど経つ*1。その間に、現実の動向としても目まぐるしい変化があり、それらに関わる各種情報も、とても消化吸収しきれない勢いで急増している。それらの中には、相互撞着するものも多く、どのように受けとめるかを考えるのは容易ではない。前稿でも書いたように、私は十年ほど前から歴史研究に専念するようになり、現状分析からは基本的に撤退したため、現下の情勢について独自の情報源をもっているわけでもなければ、特に鋭い分析ができたり、有効な提言ができるわけでもない。それでも、ロシア帝国/ソ連/継承諸国の近現代史研究に長らく携わってきた者として、このような深刻な事態の展開に無関心でいることは許されないと考えて、不十分ながらポツリポツリと情報を集め、自分なりの考察の試みを続けている。前稿から1ヵ月ほど経ったこの時点で、ある程度自分の頭を整理して「再論」を書いてみようと思うに至ったが、前稿と大きく違う考えに到達したというわけではない。本稿は大まかには前稿とほぼ重なる観点に立つものだが、あちこちで増補を行ない、より整理した形で現在の私の見方を提示してみようとしたものである。依然として事態は混沌としているし、ことの性質上、私があまり通じていない事項についても敢えて仮説的な論を立てたりしているので、本来あるべき研究者の基準からすれば、とても堅実とは言えないこと、そのことと関係して、将来あれこれの修正を必要と感じる可能性があることを断わっておきたい。
主題が主題であるため、評価の問題にも触れないわけにはいかない。SNS上では、「どっちもどっち」と言ってよいかどうかをめぐって、いろんな言説が飛び交っている。敢えて私見を述べるなら、世の中には、「どっちもどっち」という言い方を絶対にしてはいけない事項と、「特定のアクターだけを悪者と決めつけるのではなく、幅広く多面的に考える必要がある」というべき事項とがあり、両者をどう区別するかが重要ではないかと思う。今回の事態の場合、戦争そのものについては、ロシアが一方的に仕掛けた以上、「明らかにロシアが悪い」と断じるべきであり、「どっちもどっち」という言い方は絶対にできない。他方、その背景や付随事項についてはもう少し広い視野で多面的に考える必要がある。この小文では背景や付随事項にかなりの紙幅をさき、そうした個所では、日本ではあまり知られていないロシア側の見方をわりと詳しく紹介ないし説明したりする――「紹介/説明」は「是認」や「支持」を意味しない――が、だからといって戦争そのものについて「どっちもどっち」論をとるものでは断じてない。別の例でアナロジーしていうなら、第一次世界大戦の戦後処理がドイツに厳しすぎた面があり、それがナチ政権成立の遠因の一つとなったと指摘するからといって、ナチ・ドイツのさまざまな犯罪的所業を弁明したり免罪することにはならないのと同様である*2。
Ⅰ 背景
1 ウクライナとロシア
一般論として、「民族」というものは大昔から一貫して同じものとして存続してきたものではないということはよく指摘されるとおりである。かといって、前近代には何の根源もなく、近代の到来とともに突然生まれたとするのも極論であり、曲折した歴史の過程の中で、いろいろなステップを踏んで徐々に形成されてきたとみるべきだろう。このことはウクライナとロシアについても当てはまる。
このたびの戦争の少し前に公表されたプーチンの論文は、ウクライナとロシア(およびベラルーシ)はもともと一体だったという認識に立って、いまやその本来的な全一性に戻ろうとしているのだと主張しており、これは多くの人から途方もない暴論と受けとめられている。確かに、これは強引な極論であり、それ自体に賛同することは決してできない。他面、だからといって、「ウクライナ人」という概念が昔からロシア人と明確に区別される存在として確立していたかに想定するなら、逆の極端に走ることになる。では、いつ頃、どのようにして今日の「民族」概念が成立したのだろうか。この問いに一義的な回答があるわけではなく、歴史を通じていろんなステップがあった。以下では、そうした歴史を駆け足で概観してみたい。
なお、やや余談めくが、ドストエフスキーとかソルジェニツィンのような人たちにも汎スラヴ主義的な発想があったし、特にソルジェニツィンの歴史観・民族観にはプーチンと似たところがある。その意味で、プーチンの主張は、そのものとして肯定することはできないにしても、それほど突飛で孤立した議論というわけではない。
a ロシア革命まで
後に「ロシア人」「ウクライナ人」「ベラルーシ人」と見なされるようになる人々は東スラヴ系の言語を話し、東方正教を奉じるという点で緩やかな共通性を持っていた。だからといって、そこに確固たる一体性があったというわけではないが、とにかく緩やかな共通性があったことは確かである。
東スラヴ最初の国家キエフ・ルーシがモンゴル=タタール勢力によって滅ぼされた後、東ルーシ(後のロシア)は多数の公国分立状態となり、西ルーシ(後のウクライナとベラルーシ)はポーランド=リトアニア連合王国の支配下に入り、その関係でカトリックの影響が及ぶようになった。言語的には、西スラヴ系であるポーランド語の要素がある程度持ち込まれた。こうして、東ルーシ(後のロシア)と西ルーシ(後のウクライナとベラルーシ)の間に一定の分岐が生じた(その分岐の意味をどう評価するかは、まさしく歴史認識上の論争点である)。また、黒海沿岸はクリミヤ=ハン国やオスマン帝国の勢力圏だったことから、トルコ=タタール系の要素もこの地に浸透した。
なお、日本では《ロシアは大国、ポーランドやリトアニアは小国》という対比が常識的に広まっているが、17世紀頃まではむしろ逆であり、一時はポーランドがモスクワまで占領したこともある。そのため、ロシアから見るとポーランドは「軽んじてよい小国」ではなく、むしろ「恐るべき大国」と映る面がある*3。また、ウクライナ人やベラルーシ人の農民はポーランド人領主のもとで働くという関係にあったので、ポーランド人とウクライナ人が立場を同じくしていたわけではない。その後も、ポーランド(人)とウクライナ(人)の関係は微妙なものであり続けた。
16世紀に台頭したモスクワ大公国(後のロシア帝国)は17-19世紀を通じて領土を拡大した。数千年の歴史を誇りとする古い帝国に比べれば、かなり若い帝国である。18世紀の三次にわたるポーランド分割で、ウクライナ人、ベラルーシ人の住む地域の大部分がロシア帝国に入った*4。こうして、ロシア帝国は東スラヴ系住民の住む地域の大半を包括するようになった(但し、西端はその外にとどまった)。
一般論となるが、帝国というものは近代国民国家と違って、必ずしも住民の均質化を目指しはしない。その統治下には多様な宗教や多様な言語をもつ雑多な人々が住んでいるが、そのうちのいずれかを唯一絶対として、それ以外を根絶して住民全体を均質化するなどということは不可能だし、統治の密度の低い前近代にあっては、その必要性もなかった。民主主義とか平等とかいった観念が普及する以前の時代であるため、平等で民主的な統合が目指されたわけではないが、不平等を前提した上での多民族・多宗教・多言語の包摂メカニズムがつくられた。ハプスブルク帝国はドイツ人だけの帝国ではなかったし、オスマン帝国はトルコ人だけの帝国でもムスリムだけの帝国でもなかった。ロシア帝国も同様であり、そこにおける「ロシア」を指す形容詞「ロシースカヤ」は、民族的ロシア人を意味する「ルスカヤ」よりも広く、その領土内のすべての人々を指していた。
いま述べたのは帝国の一般論だが、ウクライナの場合、ロシアと異なる歴史的経路で帝国に包摂されたとはいえ、言語・宗教・風俗習慣などにおいて高度の親近性があったから、相互に「他者」なのかどうかをにわかに確定することのできない微妙な関係があった。
ロシア人とウクライナ人はよく兄弟になぞらえられる。兄弟が必ず仲良いと決まっているわけではなく、「兄」が「弟」に「上から目線」で接することに対して、「弟」が「ウザい」と感じて反撥するといったことがあるのは当然である。と同時に、「兄」を打倒してしまおうというほどの敵対関係に至ることもあまりなく、仲良い関係と喧嘩する関係の両面が交互にやってきたり、あるいは同時共存したりする。ウクライナ人が「自分たちは軽んじられている」と感じることはよくあるが、「耐えがたい抑圧」という知覚に基づいて強烈に反逆するというほどの尖鋭な関係になったことは滅多になく、ロシア人とウクライナ人の間で大量殺戮を伴うほどの激しい衝突が起きたこともない*5。
ロシア人とウクライナ人の間では、混合結婚も多く、双方の血を引く人たちも多い。ロシア語とウクライナ語は親近性が高いので、どこまで本格的に習得しているかは別として大まかにいえば、ウクライナ住民のかなり大きな部分がバイリンガルである。そこにはロシアなまりのウクライナ語もあれば、ウクライナなまりのロシア語もある*6。こういう状況であるため、ある人がウクライナ人なのかロシア人なのかを区別すること自体が必ずしも容易でない(中央アジアでは、ロシア人とウクライナ人はともに「スラヴ系」として一括され、同一視されやすい)。
b ソ連時代
ロシア革命期にロシア帝国がいったん崩壊した後、複雑な経緯を経て、その大部分の地域がソ連に統合された。そのため、領土およびその住民の構成という点ではソ連はロシア帝国と連続しており、同種の民族問題を抱え込むことになった。他面では、帝政期とソヴェト期の間には一定の変化もある。中でも重要なのは「民族」カテゴリーの制度化である。
帝政期においては「民族」というカテゴリーはあまり重視されず、人口調査で「民族」が記録されることもなかった。調査では「民族」の代わりに「母語」が問われ、そのためウクライナ住民のかなりの部分が「ロシア語話者」として記録された(「ウクライナ語」という選択肢もあり、「ウクライナ語話者」も数えられたが、その数はウクライナ住民のうちの圧倒的多数というわけではなかった)。また、今日のウクライナに匹敵する地域はいくつかの県あるいは州に分かれ、それらをひとまとめにする「ウクライナ」という行政単位は存在しなかった。これに対して、ソヴェト政権は「民族自決」のスローガンのもと、ウクライナ人を主人公とする「ウクライナ共和国」という領域的単位をつくりだした(やや丁寧に言うなら、ロシア革命後にはじめて「ウクライナ人民共和国」をつくったのはボリシェヴィキではなく、ドイツ・オーストリアと講和条約を結んだ「中央ラーダ」政権だが、ソヴェト政権は「民族自決」の建前を意識して、その単位を廃止することなく受け継いだ)。また、ソヴェト期の人口調査は帝政期の人口調査と違って、「母語」とは別に「民族」の項目を立て、その結果、「母語はロシア語だが、民族としてはウクライナ人」というカテゴリーが新たに登場した。このカテゴリーの創出は、統計上「ウクライナ人」の数を「ウクライナ語話者」よりも多くする効果をもった。ソ連時代末期の1989年の調査でいうと、ウクライナ共和国の住民のうち、ウクライナ語を母語とする人の比率は65%にとどまるのに対し、民族としてのウクライナ人は73%にのぼり、ウクライナ共和国ではウクライナ民族が優勢だという外観がつくられた。また、1930年代に導入された国内旅券には「民族」を記入する欄があり、これはいったん記入されると変更され得ないので、「民族」帰属を固定化する効果をもった*7。
このように見ると、「ウクライナ」その他の民族的単位が制度的に固定されたのがソヴェト期の特徴だということが明らかになる。プーチンがウクライナは共産主義がつくりだしたものであり、「非共産主義化」によってそれを廃止すると唱えるのには、こうした背景がある。もっとも、ロシア革命に先だつ時期においても、緩やかな意味で「ウクライナ的なもの」が形成されつつあり、文章語としてのウクライナ語もシェフチェンコらによって生み出されていたから、ウクライナそのものを共産主義が人為的につくりだしたというのはもちろん暴論である。ただとにかく彼の論理は、以上のような文脈で読み解くことができる。関連して、プーチンはあくまで徹底した共産主義否定論者であり、ロシア革命についても否定的な評価をいだいている。今日のロシアには、共産主義時代に形成された行動様式のようなもの――社会学者のいう「ハビトゥス」――は残っているが、イデオロギー的には大きな断絶がある。ソルジェニツィンのような反共の闘士がプーチンと似た歴史認識をいだくのも、こうした事情による。
ソヴェト政権、とりわけ初期の民族政策の基本は「現地化」政策と称される。特定地域に「基幹民族」を定め、その民族言語や民族文化を振興し、また基幹民族エリートを養成して、大学に優先的に入学させたり、行政職に優先的につけるといった、一種のアファーマティヴ・アクションである*8。「アファーマティヴ・アクション」という言葉を使うと肯定的響きを帯びると受け取られるかもしれないが、そうではなく、むしろこの政策のもとで新たな矛盾が生じた点が重要である。アメリカでも同様だが、この政策は差別克服を目指しつつも、意図せざる結果として、新たな矛盾と秘かな差別を生みだした。「基幹民族」概念を設定することは「民族」帰属を固定化する効果をもったし、優先処遇の対象となるのは誰かということをめぐる争いが「民族紛争」という形をとって展開した。そのためもあって、ある時期以降、「現地化」政策は後退したが、特定の地域と民族を対応させて、「基幹民族」に特恵的条件を供与するという構造はその後も持続した。ソ連体制の中で「連邦構成共和国」という地位を与えられた地域では、それぞれの民族エリートが成長して、いわば擬似国民国家のような存在となり、そこでは秘かな対中央自主性や隠れたナショナリズムが発生したりした。そうした現実がソ連末期から独立に至る時期の変動の背景となり、ソ連解体時にはそれまでの擬似国民国家がそのまま独立国家に横滑りした。
上に述べたのはソ連体制全般の一般論だが、ウクライナの場合、人口面でロシアに次ぐ第二位である上、経済力も大きく、言語その他の面でのロシア人との共通性も大きいため、相対的に多くのソヴェト・エリートを輩出し、支配者層のなかで大きな位置を占めていた。いわば「長兄」としてのロシアに比べれば相対的劣位だとしても、その他の諸民族に比べるなら相対上位の位置にあった。ソルジェニツィンのような反共的ロシア民族主義者の観点からすれば、ウクライナ人はソ連共産党指導部の中で相当大きな位置を占めていたのに、共産党の犯罪をすべてロシア人になすりつけているのは許しがたいとされることになる。
このようにウクライナはソ連体制下で相対的に上位の位置を占めていたこともあって、ゴルバチョフのペレストロイカ期にソ連各地で多様な民族運動が始まってからも、しばらくの間、ウクライナ情勢は相対的に平穏であり、独立運動はあまり有力ではなかった(最西部のガリツィヤ3州のみ例外)。
ペレストロイカ中期の1989年には、ウクライナでも人民戦線運動「ルーフ」が登場したが、これははじめのうち多くの共産党員を含み、体制内改革路線をとっていて、表だって独立論を説くことはなかった。その後、ソ連全体の政治的活性化のなかで、ウクライナも1990年7月に主権宣言を採択したが、これはバルト3国やサカルトヴェロ(グルジア/ジョージア)などに比べればそれほど尖鋭な性格を帯びてはいなかった。
同年秋には学生たちの運動高揚を契機に、政治全体が急進化する傾向を見せ始め、その中でウクライナ共産党は「主権派共産党」と「帝国派共産党」に分岐するようになった。主導権をとった「主権派共産党」の代表はクラフチューク(元は共産党のイデオロギー官僚だったが、民族路線に乗り換え、後に初代大統領となる)である。もっとも、彼は1991年半ばまでは独立を目標として掲げてはいなかった。
他方、ルーフは次第に急進化を強めて、独立を目標として明示し、当初提携していた共産党との対決を明らかにするようになったが、その中でも、主流派=相対穏健派と最急進派(ルキヤネンコの率いる共和党)の分岐が生じた。こうして、共産党内の「主権派」とルーフ内の相対穏健派が緩やかに提携する構図が生まれた。
1991年8月クーデタ時に、クラフチューク最高会議議長はクーデタへの態度が曖昧だったのではないかとの疑惑がかけられ、地位が揺らぎかけたが、彼は失地を回復すべく、一挙に独立論へと態度を変更した。直後に採択された独立宣言は、独立論に乗り換えた「主権派共産党」とルーフ内穏健派の妥協によって成り立った簡略なもので、独立後の具体的目標については不明確性が残った。
時を同じくして、エリツィン・ロシア大統領の報道官が「独立する共和国とは国境調整の必要がある」と発言したが、これはウクライナ東部およびクリミヤに対する領土要求を含意しており、一大センセーションを巻き起こした。これ自体はあまり紛糾させまいとする政治家間の合意によってとりあえず不問に付されたが、後のロシア=ウクライナ対抗の種がこの時期に蒔かれたという事実は記憶に値する。
同年末の独立レファレンダムは大統領選挙と同日投票(12月1日)と設定されたため、双方のキャンペーンが重なり合う形で進んだ。主要大統領候補がみな「独立」を掲げて、「われこそは独立の担い手だ」とする競争を繰り広げた結果、短期間に独立論支持が広まり、独立レファレンダムは圧倒的に賛成多数となった(同年3月のレファレンダム時には、ソ連維持論がウクライナでも多数を占めていたが*9、9ヵ月の間に情勢が大きく動いたことになる)。もっとも、このレファレンダムの設問には「ソ連の外」という文言が含まれておらず、「独立国の連合体としての主権国家同盟」というゴルバチョフの構想に乗る可能性を排除しないという曖昧性があった。実際、同時期の世論調査によれば、「独立」支持が圧倒的であると同時に、「主権国家同盟」支持もかなり高いという両義性があった。
同日の大統領選挙では,「主権派共産党」のクラフチュークが第1位で決選投票を要することなく当選、ルーフ指導者のチョルノヴィルが第2位、急進派=共和党のルキヤネンコが第3位、ルーフから分かれてロシア語系住民に配慮する立場をとったグリニョフが第4位という結果になった。地域別の得票率を見ると、クラフチュークが東部・南部・クリミヤで圧勝した他、各地でまんべんなく集票したのに対し、チョルノヴィルとルキヤネンコは西部でしか票を取れず、グリニョフは東部・南部・クリミヤで主に集票した。こうした得票率のばらつきは、同じように独立論とはいっても、その中に種々の立場の差異があったこと、ルキヤネンコに代表される急進ナショナリズムはそれほど有力でなかったことを物語っている。
c 独立後
独立後最初の十数年のウクライナは、内部にさまざまな分岐をかかえていたが、それが激しい武力衝突とか内戦の形をとることはなく、緩やかな統合を維持した。この間に何回も行なわれた大統領選挙と議会選挙は、混乱や対決を含みつつも、一応は自由で民主的な選挙として実施され、平和的な政権交代を繰り返していた。もちろん、生まれたばかりの民主主義は種々の限界をかかえ、非民主的な要素を多々はらんでいたし、腐敗・汚職の横行も指摘された。だが、それはどの「民主国」についても言えることだし、「上からの資本主義化」を強行した諸国では広く見られることである。そうした問題を抱えつつも、とにかく暴力的衝突があまりなく、緩やかな統合が維持された時期があったという事実が今日では忘れられているが、この点は改めて思い起こしてみる必要があるのではないだろうか*10。
その当時のウクライナ議会においては、国内分岐を反映して穏健な多党制状況――多数の政党が並び立ち、一つの政党だけでは多数派を形成することができないが、鋭い分極化ではないので、連立交渉が何とか成り立つ――があり、複雑な連衡合従を通して連立政権がつくられた。大統領選挙とりわけ決選投票ではゼロサム的対決の構図がつくられたが、当選者は選挙時に支持基盤となった地域だけでなく全国を代表する大統領として振る舞おうと努めた。初代および第2代大統領のクラフチュークとクチマはどちらも元は共産党員であり、選挙時には東部・南部のロシア語系優勢地域の票を多く集めたが、当選後は西部のナショナリストをも統合するために西寄りの政策を取り入れて、東西のバランスをとろうと努めた。
2004年の「オレンジ革命」とユシチェンコ政権の成立はウクライナの政治に大きな変化をもたらした。「オレンジ革命」は通常「民主化」革命――不正選挙の糾弾および選挙やり直し――という側面だけが注目されているが、「革命」の主体となった「オレンジ連合」は異質な勢力の寄り合い所帯であり、勝利後に直ちに分解しはじめた。内部分裂の結果、ユシチェンコ大統領を支える与党は議会少数派となり、経済不振もあって、ユシチェンコ政権は行き詰まり状況に追い込まれた。そうしたなかで、ユシチェンコはロシアとの対抗を前面に出したアイデンティティ政治をかき立てるようになった(同様の政策は後のポロシェンコ期にも繰り返される)*11。
ウクライナのアイデンティティー政治はいくつかの側面からなっている。その1つは言語政策に関わり、「国家語」としてのウクライナ語の役割を従来よりも強調して、ロシアから輸入した映画やテレビドラマにウクライナ語の吹き替えを義務づけたり、クリミヤでは裁判所でロシア語を使ってもよいというそれまでの特権を剥奪したりした。
第2は教会政治の側面である。ウクライナには、西部で強い東方典礼カトリック(ユニエイト)を別にして正教会だけを取り上げるとしても、複数の教会が競合する複雑な状況があった。ウクライナの正教会はロシア帝国期からソ連期にかけてはロシア正教会の一部をなしていたが、ペレストロイカ末期に自立化の主張が高まり、1990年に「ロシア正教会の中で自治をもつ」という地位に移行した(教会法上、「自治」と「独立」は異なる概念であり、「自治」教会は内部事項については自主性を持つが、独自の総主教を選出する権利はない)。これとは別に、ロシア革命直後にウクライナ正教会のロシア正教会からの独立――独自の総主教選出権――を主張して発足した「独立ウクライナ正教会」もあり、長らく海外に拠点をおいて活動していたが、ペレストロイカ期に国内に帰還した。さらに、新たに独立を唱えだしたキエフ総主教庁ウクライナ正教会も登場して、三つ巴の状況が生じた。正教の世界において新たな「独立」教会の発足を正式のものとするには複雑な手続きが定められており、しかもウクライナには「独立ウクライナ正教会」を称する教会が複数生じたことから、その正式化は難航していた。ユシチェンコもポロシェンコも自国に「独立教会」をもつために、複数の「独立ウクライナ正教会」を政治的働きかけで統一させ、コンスタンチノープル総主教――カトリックにおける教皇とは違って、他の総主教の上に立つわけではなく「同輩者中の第1人者」とされる――の承認を取り付けようとした(ユシチェンコはその目的を達しなかったが、ポロシェンコはコンスタンチノープルの承認を取り付けた)。こうやって政治の介入で「独立ウクライナ正教会」の「ロシア正教会内で自治をもつウクライナ正教会」に対する優位を確保することが試みられた(なお、後者のことを単純にモスクワに従属した教会とする解説がしばしば見られるが、これは1990年の自治決定を見過ごしたことによる誤り)*12。
第3の次元は歴史問題に関わり、これは二つの論点に分かれる。その第一は、独ソ戦中に反ソ・パルチザン戦争を遂行したバンデラを「民族的英雄」と位置づけたことである。このバンデラは、ナチ・ドイツと一時的・便宜的にもせよ提携したのではないかとの疑惑がかけられるという点で、きわめて論争的な人物である。より明確にナチと協力したのはメリニク派であり、バンデラ派は親ナチとは言えないという説もあるが、とにかくロシアでは「バンデラ派=ナチ協力分子」とのイメージが一般的であり、そのためバンデラを「民族的英雄」と見なす現代のウクライナ・ナショナリストはファシストだというイメージが広がった。歴史認識との関わりでは、もう一点、1930年代の飢饉を「ホロドモル」と名付け、「ウクライナ人に対する民族的ジェノサイド」だとする宣伝を繰り広げた。この飢饉はペレストロイカ以前にはほとんど知られていなかったが、ゴルバチョフ期に多くの歴史家によって注目されて、精力的な探求の対象となった。当時はスターリン時代の諸民族共通の悲劇として、ロシアの歴史家とウクライナの歴史家が協力して探求を進めていたが、ユシチェンコ期にはウクライナ人を標的とした民族的悲劇と描かれるようになった。実際には、飢饉の犠牲者はウクライナ人だけではなく,多くのロシア人、カザフ人、ベラルーシ人などを含んでおり、ウクライナ人だけを標的とした民族的ジェノサイドとする見方には無理があるという見解が欧米の研究者の間でも優勢である*13。
アイデンティティ政治の諸相についてやや詳しく見てきたが、このような政策は熱心な急進ナショナリスト活動家を鼓舞し、諸外国にも賛同者をある程度取り付けたが、国全体としてはむしろ亀裂を深める結果となった。結局、ユシチェンコの支持率は回復せず、2010年の大統領選挙では、彼は決選投票に残るのにほど遠い第5位(得票率5%)にとどまった。
このとき決選投票に残ったのは、かつて「オレンジ革命」で敗者となったヤヌコヴィチ(東部・南部で主に集票)と,「オレンジ連合」のもう一人のリーダーであるティモシェンコ(西部で主に集票)の二人であり、前者が後者を僅差で破って当選した。敗北したティモシェンコは不正選挙があったと申し立てたが、調査の結果、不正の規模は選挙結果を左右するほどのものではなかったとされ、欧米諸国もこの結果を認めた(OSCEをはじめとする国際選挙監視団は、全体として公正な選挙だったと認定した)。もともとウクライナの政治はそれほど極端に両極化していたわけではなく、東西の微妙なバランス――内政的にも外交的にも――の中での小刻みな揺れを特徴としてきたから、そのときどきの情勢で勝者と敗者が入れ替わることはそれほど不思議なことではなく、この政権交代は強引な不正選挙の結果というわけではない。
このようにして発足したヤヌコヴィチ政権は、「親露的」と呼ばれることが多いが、全面的にロシアに依存する姿勢を最初からとっていたわけではなく、むしろロシアと西欧の双方とのつながりをもとうとするのが元来の姿勢だった。しかし、世界的な経済不況を背景とした国際緊張激化のなかでそうした両天秤政策の維持が困難になり、末期にはロシア依存を濃くした。しかも、各種の腐敗が広く指摘されるようになり、政権全体として行き詰まりの様相を濃くした。その結果として2013年末から14年初頭にかけて反政府運動(キエフの中心にある広場にちなんで「マイダン運動」と呼ばれる)が高まった。
ヤヌコヴィチ末期の腐敗の広がりを思えば、反政府運動の高揚は自然な流れだったが、この運動は2014年2月に突然、暴力革命の様相を帯びるに至り、ヤヌコヴィチは国外逃亡に追い込まれた。その背後の事情は明らかでないが、政権側が強硬な弾圧策をとる一方、整然たる市民運動として始まった反政府運動の中に過激な暴力を持ち込む極右分子――その中には「ネオナチ」的傾向の人たちも含まれていた――が紛れ込むことで、暴力の応酬がエスカレートしたものと考えられる。政府と野党の間で一旦は事態打開のための合意が成り立ったにもかかわらず、武装闘争派はこの合意を受け入れず、政府の重要施設を占拠した。政府の腐敗を市民が追及して大衆運動が高揚するのは民主主義の自然な生理だが、暴力の応酬のエスカレートの中で大統領が逃げ出して政権が倒れるのは、その枠を超えた暴力革命といわざるをえない。
「マイダン運動」の暴力革命化は、ロシア語系住民の多いクリミヤおよびドンバス2州の住民を刺激し、前者のロシアへの移行、後者における「人民共和国」樹立を引き起こした。これはそれまでの国家秩序の非立憲的な変更であり、ウクライナのみならず諸外国から強く非難された。もっとも、当事者たちからすれば、その前にキエフで非立憲的な暴力革命があったということが正当化根拠とされている。この変動はモスクワの指示によるものと漠然と想定されることが多いが、政権中枢の内部事情に即して詳しく追求する作業は管見の範囲ではまだ十分なされていない。クリミヤに関しては、その戦略上の意義から、「マイダン」直後からモスクワの目的意識的な関与があった――もっとも、現地エリートはその単なるカイライではなく、複雑な関係のようだが――のに対し、ドンバスの2つの「人民共和国」は、少なくとも初発においてはモスクワの思惑とは異なった独自の動きであり、モスクワはいわば受身的に引きずり込まれたようである(その後の展開の中で、次第にモスクワはこの地域の政治に深く関与するようになっていくが)。
今日の情勢の中で、今回の戦争は2014年のクリミヤ併合の延長上にあるものであり、プーチンの野望はその頃から一貫していたのだとする解説が広く行なわれている。政権中枢の思惑がどうだったのかについては、十分な判断材料がないので、ここでは立ち入らない。それとは別に、ロシアの多くの人々の受け止め方としては、2014年のクリミヤ編入は暴力革命からロシア語系住民を保護するための防御反応として肯定される――それに対して、今回の戦争は侵略的・攻勢的なものなので、支持できない――という考え方がかなりある*14。もともと1954年までクリミヤはロシア共和国の管轄下にあり、フルシチョフの専断によるウクライナ共和国への移管は不法だったという理解がかなり広まっているし、当地の住民の大多数がロシア語系――多くの民族的ウクライナ人を含む――である以上*15、ロシアに属するのが自然だという考え方も広く分かち持たれていた(1991年の8月クーデタ直後のエリツィン報道官発言については前述)。それでも、ウクライナとロシアがそれほど厳しい対立関係にはなく、ウクライナの中でクリミヤの自治が尊重されているならウクライナに帰属したままでもよいと考えられていたが(実際、1997年のロシア=ウクライナ条約でクリミヤの帰属はいったん正式に確定した)、キエフで暴力革命が起き、ウクライナ政権が極右分子が握られた以上はクリミヤはロシアに戻るほかないという考え方は、プーチン支持者のみならず、ゴルバチョフのような人にも共有されていた。このような考え方は、日本を含む諸外国ではあまり理解されないだろうが、ロシアではプーチン政権支持者以外にも――従ってまた、今回の戦争を支持しない人たちにも――相当広く受け入れられてきた。
「マイダン革命」後のウクライナ政治については、十分掘り下げられた検討があまりなされていない*16。ともかく、2014年5月に発足したポロシェンコ政権は2つの「人民共和国」を「テロ集団」と認定し、「対テロ作戦」を展開した(数年の間におよそ3000人の民間人死者が出たといわれる)。これはウクライナ政権側からすれば当然の国家権力の発動だが、「人民共和国」およびロシアの目から見れば、不当な暴力的襲撃と見なされ、防衛的反撃が必要だという意識を広めることになった(ここに書いているのは、それが正当だという趣旨ではなく、当事者がそう考えているということの単なる紹介だということを念のため断わっておく)。
キエフ政権側からの「人民共和国」への「対テロ作戦」には、部分的にであれ、極右ないし「ネオナチ」分子と目される勢力――自らナチのシンボルを掲げる「アゾフ連隊」など――が、諸外国を含む各地から流れ込んだ。それがどの程度の規模か、活動実態はどうか、政権はそれとどのような関係にあるのかをめぐっては諸説が乱れ飛んでいて、確定することが難しい*17。とにかく、そうした勢力が存在することが、ロシアからの「ネオナチ」宣伝に一定のもっともらしさを付与することになった。「火のない所に煙は立たない」という言葉を借りて比喩的にいうなら、大きな火事があったわけではなく、小さな火種があったのを針小棒大的に膨れ上がらせて、大きな煙に仕立て上げたということではないかと思われる。
小括するなら、ウクライナには言語・文化・宗教・風俗習慣などにおいて大まかな共通性を基礎にした多様性と内部分岐が共存しており、一枚岩的均質性を達成しにくい条件がある。そのことをもって、ウクライナは国民国家をつくることができないのだとする見方もある。だが、均質性を基礎にした一体的団結をモデルとするのではなく、多様性と内部分岐を緩やかに包摂する統合が徐々に生まれつつあったという見方もありうる。独立後十数年の間、穏健な多党制のもとで,選挙を通じた政権交代が何度も繰り返されてきたこと、当選した大統領は選挙時の支持基盤だけにこだわることなく、東西バランスを重視する政策をとってきたことはそのことを物語る。このような内部分岐を緩やかに包摂した多元的統合は、ユシチェンコ期およびポロシェンコ期に揺さぶられ、分極化が強まった。そうした背景の上で、今回の戦争はウクライナを決定的に「反ロシア」的基盤で団結する方向に押しやった。
皮肉なことだが、プーチンの戦争こそがウクライナ国民を団結させ、強固に一致したネイションを誕生させたように見えるのが現状である。なお、最近では、一時期とられたロシア語の使用制限政策は撤回され、「ウクライナでロシア語が迫害されているというのは嘘だ。ロシア語話者もウクライナ語話者も分け隔てなく、ウクライナ国民として一致団結している」という宣伝が繰り広げられているようである(実際、テレビに出てくるウクライナ人のかなり多くがロシア語でロシア政権批判の発言をしている*18)。そのこと自体は称賛すべきことであって、水を差すべきではない。ただ、遠くない過去にアイデンティティ政治がかき立てられ、そのことがロシアの過剰反応を招いたという経緯があったことも否定しがたい。今後、「ウクライナ国民」が完全に非ロシア/反ロシア的な存在としての一枚岩的団結を強めていくのか、それとも国民内の多様性を認めた緩やかな統合に向かうかは、さらに注視すべき点である。
2 アメリカ・NATOとロシア
この問題については冷戦末期以来の長い歴史がある。その全容を論じることはあまりにも大きな課題となってしまい、ここではとても論じきれないが、とにかくいくつかの重要な節目について考えてみたい。
やや古い話でありながら最近も論争が蒸し返されている論点として、1990年のドイツ統一交渉時にアメリカはNATO不拡大を約束したのかどうかという問題がある。現在の政治的論争の構図は、一方の側が「アメリカはNATO不拡大を約束したのに、それを破った」と主張し、他方の側が「それは嘘だ。そんな約束などなかった」と主張するという形になっている。
過熱した政治的論争から離れて、これまでに積み上げられてきた研究者たちの議論を振り返るなら、およそ次のような点が――研究者ごとにいくらかのニュアンスの差異を含みながら――確認されてきた*19。即ち、正式の約束があったかなかったかといえば、なかった。但し、ある種の仄めかし――ベーカー米国務長官の「1インチも東方に進出しない」という発言――はあった(なお、ホワイトハウスは早い時期にベーカーの方針を否定していたが、そのことをソ連に伝えはしなかった)。その仄めかしの意味をめぐっては種々の解釈があり、「約束があったはずだ」と思い込む人がいてもおかしくない、というあたりが最大公約数である。としてみれば、「約束があったのに破られた」とするのも「約束云々は完全な嘘だ」というのも,ともに政治的な議論といわねばならない。付け加えるなら、論争の的となっているベーカー発言は1990年2月時点のものであり、ゴルバチョフが統一ドイツのNATO帰属を認める7月までにはなおいくつかの曲折があったから、そうした経緯抜きで、この時点でのやりとりだけから何らかの結論を出すのは性急である。
いま触れたのは1990年前半のことだが、もう少しさかのぼるなら、1989年末のマルタ会談に至る米ソ交渉の中で、「冷戦終焉」をめぐってゴルバチョフとブッシュの間に微妙な食い違いがあった。通説的にはこの首脳会談で米ソが共同で冷戦終焉を宣言したとされている。しかし、実は、マルタで「共同の冷戦終焉確認」を語ったのはゴルバチョフだけで、ブッシュはその点に触れなかった*20。共同記者会見でゴルバチョフがそう語ったときにブッシュが何も言わなかったのは、あたかもゴルバチョフ発言を黙認したかの印象をつくりだし、そのことが「マルタで米ソは共同で冷戦終焉を宣言した」という通説のもととなった。しかし、実際にはブッシュはゴルバチョフと異なる考えをもっていたことが、その直後から明らかとなった。
ゴルバチョフがこの時期に重視していたのは、冷戦が終わったからにはNATOもワルシャワ条約機構もともに不要となり、双方の変容を通して新しい全欧機構がつくりだされるべきだということであり、ドイツ統一もそうした全欧的過程に位置づけられるべきだというのが彼の立場だった。これに対し、アメリカにとってはあくまでもNATOが最重要であり、統一ドイツはNATOに帰属する以外の結論はありえないという方針をブッシュ政権は押し通した。このような米ソの立場の違いが1990年前半におけるドイツ統一交渉の核心であり、2月のベーカー発言もその一コマだったが、力関係に劣るゴルバチョフは結果的にブッシュに押し切られた。冷戦終焉がどのような形をとり、その後にどのような問題を残したかを考えるには、こうした過程の総体を視野に入れておかねばならない。
ソ連解体後にも様々な変化があった。30年に及ぶその過程の全容に立ち入ることはできないが、一つの重要な節目は、1999年に始まる数次のNATO東方拡大である。これをめぐっても種々の議論があるが、私の記憶に残っているのは、アメリカの長老的外交官・歴史家であるジョージ・ケナンが晩年の遺言的発言として、東方拡大はロシアを挑発する危険な選択だとして、これを強く批判したことである。それ以外にも、何人かのアメリカのリアリスト系政治学者や外交官たちが同様の見地を表明していたが、クリントン政権によって無視された。
他方、あるロシアのリベラルな論者は、当時、NATOの東方拡大によって自分たちの国内基盤は極度に狭められてしまった、これはロシアのリベラルの息の根を止めるものだと嘆いていたが、この暗い予感が実現したというのがその後の流れであるように見える。
同じ1999年にはコソヴォ問題を契機としてNATOのセルビア空爆があった。このとき、セルビアに近い立場に立つロシアは、アメリカおよびNATOと極度に緊張した関係に立った。あまり知られていないことだが、このときエリツィンはテレビで「アメリカはロシアが核大国だということを忘れているのではないか」という恫喝発言をした。今日、プーチンが核の脅しをしているのを前代未聞のことと思いこむ人が多いが、実はエリツィンが20年以上前に先例を作っていたのである。
そして、これまた今日では想像しがたいことだが、2000年に入るとプーチン新大統領のもとで、米ロ関係はエリツィン末期に比べて好転した。プーチンは大統領就任直前の発言で、「ロシアがNATOに入ってもいいではないか」と言ったこともある(およそまともに取り合われることなく、無視されたが)。2001年「9・11」直後にプーチンは逸早くアメリカの「対テロ作戦」に協力する態度を表明し、米軍がアフガニスタン攻撃に際して中央アジア諸国の領土を使用することに対しても異を唱えなかった。同年12月にアメリカがABM(弾道弾迎撃ミサイル)制限条約からの一方的脱退を通告したときも、プーチン政権は敢えて強く抗議することはせず、対米協調路線を続けた。
このようにプーチン政権は、その滑り出しでは米ロ協調を重視していたが、その後、米ロ関係は次第に緊張に向かっていった。その第一歩は2003年のイラク戦争である。もっとも、このときにアメリカに批判的な態度をとったのはロシアだけでなく独仏も同様だったから、全体としての欧米・NATOとロシアが対抗関係に入ったわけではなかった。
2008年4月のNATO首脳会議は、サカルトヴェロ(グルジア/ジョージア)とウクライナの将来的なNATO加盟の方針を打ち出し、ロシアはこれへの対応を迫られた。そうした中で、同年8月にはロシア・グルジア・南オセチア戦争が起きて、「新しい冷戦」が広くささやかれた。なお、この戦争は誰が引き起こしたのかという問題をめぐっては激しい論争があったが、一年後のEU調査委員会報告は、グルジアが先に南オセチアへの軍事的攻勢を仕掛けたと認定する一方、それに対するロシアの反撃も過剰だったという評価を示した*21。とにかく、このようにして高まった緊張は、オバマの「リセット」によっていったん緩和され、ロシア=グルジア関係もある程度修復された。
その後、アメリカ・NATOとロシアの緊張が再度激化に向かった最重要の契機が2014年のウクライナ危機だということはいうまでもない。こうした展開の詳細には立ち入らないが、ともかく1990年2月の時点で「約束」があったかなかったかということだけに拘泥するのではなく、1990年代末にアメリカ政権がケナンらの警告を無視したのはどうしてかとか、21世紀初頭時点のプーチンはむしろエリツィン末期よりもアメリカに歩み寄ろうとしていたのに、そのチャンスが失われたのはどうしてかといった点を含めて、幅広い検討が必要と思われる。
上に見てきたように、ロシアとNATOの関係は2000年代半ば以降、次第に緊張の度を高めていたが、EUとロシアの関係はこれとは違って、2010年代半ばまで、種々の個別的対抗を含みつつも全体としては比較的良好だった。NATOとEUは多くの点で重なっているが、前者が軍事同盟であることとアメリカ主導であるという二点で重要な差異がある。ロシアとしては、アメリカとヨーロッパを区別し、ヨーロッパとの経済関係を重視するという姿勢をとっており、実際、EUはロシアの最大の経済パートナーだった。そのため、ロシアはNATOを脅威と見なして、これと対抗することはあっても、反EUを掲げることはないというのが、ある時期までの基調だった。
もっとも、EUの新規加盟国たる中東欧諸国からロシア脅威論が強く主張されたことは、EUとロシアの関係を緊張含みのものとしたし、世界的な経済不況の中で経済面での競合の要素も次第に増大した。そうした中で、2014年ウクライナ危機を契機にEUがロシアに経済制裁を科すことで、欧露間の貿易は縮小し、ロシアとしては中国との提携に活路を見出さざるを得ない方向に追い込まれた。このように、EUとロシアの関係も悪くなったことは、NATOとロシアの緊張に拍車をかけることになった。
どの段階でどの要因が決定的だったのかを解明することは今後の課題だが、とにかく今日の事態は一直線にもたらされたというよりも、ここに至るまでには複雑なジグザグを経ていたということは一応確認できるだろう。
3 ウクライナとNATO
最近の情勢としては、ウクライナがNATO加盟を願望するのに対し、ロシアはその断念を要求し、ウクライナがある程度譲歩してNATO加盟を断念するかに見えるといった形で事態が展開している。しかし、独立以来の30年を振り返ってみると、そういう構図だけでは理解できない要素が多々あった。
1990年7月に採択されたウクライナの主権宣言は「主権派共産党」がルーフの主張をかなり取り入れて作成されたものだが、その中には、軍事ブロックに参加しない中立の非核国家になることを目指すという文言が含まれていた。「主権宣言」は「独立宣言」とは違ってソ連の中での主権共和国という前提に立つものだったが、1991年8月の独立宣言(これ自体は簡略なもので、あまり具体的な内容を含んでいない)から12月1日の独立レファレンダムを経て12月末にソ連解体が現実のものとなる中で、ウクライナ議会は12月20日の声明で、非核国家になることと、軍事ブロックに参加しないことを確認した。
このうちの「非核国家」という点については、ウクライナにおかれていたソ連の核兵器の撤去をめぐり、複雑な国際的駆け引きがしばらく続いたが、1994年に撤去が決まったのは周知の通りである(なお、ウクライナにおかれていたソ連の核兵器はあくまでもモスクワでコントロールされていたので、ウクライナが利用することができたわけではなく、1994年まで核兵器を保有していたという言い方は不正確)。
こういうわけで、独立直後のウクライナは、軍事同盟に入らない中立国となることを基本的方針としており、NATOにも入らなければ、ロシアを中心とする独立国家共同体集団安保体制にも入らないという姿勢をとっていた。1996年に制定された独立後最初のウクライナ憲法も非同盟の原則を確認した。
その後のウクライナでは、さまざまな政治勢力がNATO加盟論を唱えたこともあり、賛否の論争が続いたが、NATO加盟が国家的な方針として確定されることは最近までなかった。「マイダン革命」後のポロシェンコ期には、1996年憲法に規定された非同盟論の取り消しが議会で議決され、2019年の憲法改正でNATO加盟を目指すことを規定するに至った。この改憲の背後の事情は十分明らかでないが、アメリカからの強い働きかけがあったのではないかという推測が有力である。具体的駆け引きの実態はともかくとして、これは政治の世界の動向であり、一般民衆の世論については別に検討する必要がある。
世論の動向についていえば、比較的最近まで、世論調査の示すところではNATO加盟論はあまり有力でなかった。ウクライナ世論はEUには好感情を持っており、できることなら加盟したいという考えに傾くのに対し、NATOについてはあまり肯定的でないというのが大まかな趨勢だった(これは、ロシアでもある時期までEUとは友好と協調を望むがNATOは脅威と感じるという一般的傾向があったのと似ている)。もっとも、ロシアが対ウクライナ強硬姿勢を示すことはウクライナ世論をNATO側に追いやる効果をもち、加盟賛成論は徐々に上昇傾向を見せていた。その結果、「マイダン革命」後、より決定的には今回の開戦後、ウクライナ世論ではNATO加盟論が一気に高まった。
こう見てくるなら、ウクライナ世論はもともとNATO加盟を強く願望していたわけではないが、プーチンの戦争こそがウクライナを決定的にNATO側に追いやったということになる。
Ⅱ 最近の情勢
1 開戦
2021年から2022年初頭にかけて、不穏な雰囲気が高まり、緊張激化の趨勢が観察されたことは記憶に新しい*22。
アメリカでは、2021年末頃から、「ロシアがウクライナを攻撃しようとしている」という情報が盛んに流されていた(その後、実はもっと前から攻撃の準備が始まっていたのだとする議論も現われた)。結果から見ると、それが当たっていたということになるかに見えるが、そう断定してよいかどうかはもう少し慎重に考える必要がある。アメリカその他の諸国の得ていた情報がどのような性格のものだったのか、その発表の仕方には一定の思惑が含まれていたのではないか(一種の宣伝戦ないし挑発)という問題があるからである。あるアクターが他のアクターの動きを警戒することが、それ自体、相手方の更なる警戒を呼び起こし、双方からのスパイラル状の緊張激化を招くという「安全保障のディレンマ」がここには看取される。
おそらく、ロシアが数ヶ月前からある種の軍事行動へ向けた準備を進めていたこと自体は確かだと思われるが、その性格は一義的ではない。軍事行動準備の意味を論理的に分けていうなら、「あり得べきシナリオの一つとしての準備」、「実行に移す可能性を意識しつつ、それを脅しとして利用しようとする段階」、「実行に移す決断」という幾通りかのものがありうる。厳密に確定することは不可能だが、ここに挙げたいくつかのものが順次展開したのではないかと想定される。脅しとしての軍事作戦準備は一種のチキンゲームだが、最終段階でアメリカが自ら軍事行動に出ることはしないと表明したことで、アメリカをチキンと見なしたロシアの正面突破がもたらされたのかもしれない。
とにかく、年末から2月半ばにかけての緊張激化を受けて、2月下旬には三つのステップでのエスカレーションが一気に進んだ。
①2月21日、ドネツクとルハンスクの両「人民共和国」の国家承認。従来、これら「人民共和国」は、「親露派」とはいうものの、モスクワが完全に意のままに操れるような存在ではなく、モスクワにとって厄介な存在でもあった。それを正式に国家承認するということは、少し前までの常識では考えにくかった。ロシア議会の両院が承認を要求したのも、野党主導での政府への圧力であると解釈する余地があった。しかし、実際には、あっさりと国家承認に至った。
②24日、軍事行動の開始。「人民共和国」承認の時点では、それら地域へのロシア軍進駐は不可避としても、それがある程度以上の軍事行動を伴うとまでは予期されていなかった。「人民共和国」がもとから実効統治していた地域を固め、ウクライナの統治領域との対峙が強まるにしても、それは散発的な小競り合い程度にとどまり、力の誇示が続く中で外交交渉に至るというシナリオも想定された。しかし、実際には、小競り合いの域を超えた軍事行動が直ちに開始された。
③25日、地上戦を含む本格戦闘へ。最初の軍事行動はウクライナ軍の基地に対するミサイル空爆――最近の日本で議論されている用語でいえば「敵基地攻撃」に当たる――であり、これだけであれば、犠牲の規模は限定的――空爆が周辺の民間施設や一般住民を巻き込むことが不可避としても――と考えることもできた。雪融けで道がぬかるんでいるので戦車の移動は難しく、非現実的だという観測を唱える人もいた。しかし、実際には、複数の方向からの地上軍侵攻がすぐに続いた。この後も、次々と軍事作戦はエスカレートし続けている――停戦交渉も一応行なわれているとはいえ、それが実を結ぶ展望はまだ見えていない――が、そうしたエスカレートは、この段階で決定的な一歩を踏み出したと考えられる。
いま見たように、これら三つのステップは論理的には必ずしも直結するとは限らず、①が②には至らないとか、②が③にまでは進まないというシナリオも、その時点では想定可能だった(実際、その当時には、そうした観測もアメリカその他の国で諸方面から出されていた)。ところが、実際には3段階のエスカレーションが、ほとんど時日をおかずに現実化した。ということは、おそらくロシア政権中枢部では事前にそのようなプランが固まっていたものと思われる。ただ、そのように決意していたのは政権中枢の少数の人たちだけであり、それ以外の人たちは、「ひょっとしたらそうなるかもしれない」という漠然たる予感はあっても、必ずそうなるという確証があったわけではなかった。
こうした急激なエスカレーションに伴って、誰が「主要敵」なのかも急激に変化した。開戦直前まで、最大の「脅威」はNATOだと考えられており、そのような脅威感は政権中枢だけでなく、多くのロシア国民に共有されていた。これに対し、ウクライナはNATOに追随する可能性が懸念され,ある種の苛立ちを引き起こしていたとはいえ、それ自体が「敵」だと考えられてはいなかった。多くのロシア国民は、「NATOの攻勢に対してわが国を守らなければならない」という呼びかけには肯定的に反応しただろうが、「ウクライナをやっつけなくてはならない」などとは、およそ考えつきもしなかっただろう。ウクライナのゼレンスキー政権を「ネオナチ」呼ばわりするのは、「敵はネオナチであってウクライナではない」というレトリックだが、あまりにも無理筋の宣伝だということは明らかである。ウクライナにネオナチが全然いないわけではなく、「ファシスト」と呼ばれるような勢力が皆無というわけでもないが、政権全体をネオナチと呼ぶのはどう見ても無理であり、説得力が極度に低い。ロシア軍が戦闘で苦戦している一つの要因は、将校も兵士も戦争目的に確信をもつことができず、士気が低いという点にあると思われる。
2 戦争
ここでは具体的戦況については立ち入らない。戦況は時々刻々と変化するし、各種情報も相互撞着するものが多数乱れ飛んでいて、それらをきちんと追いかけることは到底できない。ここではただ、いくつかの特に目にとまった点についてのみ述べる。
開戦直後の予感としては、ウクライナにはさしたる応戦能力はなく、ロシアが本気で攻め込んだらひとたまりもないだろうという見方が優勢だった。短期にキエフが制圧され、親露派による傀儡政権樹立というシナリオも予期された。ウクライナ軍がどの程度の交戦能力を持つかは未知数だったし、ウクライナ国民はもともとロシアに対する愛憎半ばする両面的感情をいだき、2014年以降に反露的団結が強まったにしても、徹底的に武力抵抗を繰り広げるとまで予期されてはいなかった。しかし、現実には意外なほど頑強な抵抗を見せ、ロシア軍による電撃的勝利という目論見を打ち砕いた。
ゼレンスキー大統領はもともとウクライナ国内で盤石の基盤を築いていたわけではなく、「ポピュリスト」との批判もあり、少し前までその支持率は漸減傾向を見せていた。ところが、開戦とともに支持率が急上昇し、今や全国民的統合の象徴のような位置に押し上げられている。ウクライナ内における種々の内部分岐は一挙に埋められ、あたかも強固な国民意識があるかの様相を呈するに至ったが、これは少し前までの予測を大きく覆す事態である。皮肉なことに、まさにプーチンの戦争がウクライナ・ネイションをつくりだしたという観さえもある。
もう一つ重要なのは、ロシアにおける反戦ないし厭戦気分および政府批判行動の広がりが明らかになったことである。これは決して当然のことではない。一般論として、どのような国のどのような戦争であれ、開戦直後の時点では挙国一致的な戦争支持の雰囲気が広がり、少数の「意識高い系」の人たちの戦争反対論は孤立する――そして、かなり時間が経って戦争の犠牲の大きさが感じられるようになってから、徐々に厭戦気分が広がる――のが通常のパターンである。ところが、今回はどうも最初から熱狂的な戦争支持はあまり感じられず、早くも厭戦気分が広がりだしているように見える。もっとも、世論調査ではプーチン政権支持率がむしろ上昇しているようだが、これがどの程度の信頼性を持つのか、調査に際してどのような文言が使われているか、世代別・社会層別で見るとどうかなど、さまざまな角度から検討しないと、国民全般がどの程度戦争を支持しているのかを確認することはできない。住民の多数派が政権の公式説明をとりあえず受け入れているのは確かだとして、それはどちらかといえば消極的な受容が主であり、熱狂的な賛成論が広がっているようにはあまり見えない*23。これは2014年のクリミヤ編入時に圧倒的な政権支持率急上昇が見られたのとは大きな違いである。
このような反戦/厭戦意識は2月24日以降の戦争が多くのロシア国民の予想を超えたことに由来するものと考えられる。2月半ば頃までであれば、「西からの挑発」への反撥に基づく政府支持の気分がかなりあったろうし、その少し後も、「人民共和国」承認を支持する、また限定的軍事行動は「やむなし」と考える雰囲気があったかもしれない。だが、全面攻勢となったことで、「いくら何でもあんまりだ」という考えが広まったのではないか。ロシア軍がかなりの規模の犠牲を出していることもそれに拍車をかけているだろう。反戦運動の意外な高まりに直面したロシア政府は、その後、言論統制を強めているが、いくら統制を強めても、多数のロシア兵士の死体が戻ってくるなら、泥沼化の現実は否応なしに感じ取られることだろう。
ロシアにおける反戦/厭戦の態度は多様な形で表出されており、そこには種々の要素が流れ込んでいる。われわれに比較的届きやすいのは知識人たちのアピールであり、その多くは大変格調の高いもので、読んでいて思わず目頭が熱くなったりする。市民の集会・デモも、弾圧をはねのける形で各地で行なわれているようであり、その参加者たちの声を聴くと、「ロシアにも政権とは異なる態度を表明する勇気ある人々がいるのだ」と感じさせられて、胸を打たれる。
とはいえ、反戦/厭戦の動きはそういうものだけに限られるわけではなく、もっと多様な要素からなる。政治的立場についていえば、もとから政権の豪腕な統治手法に批判的だったリベラル寄りの人たちが日本では注目されがちだが、そういう人たちは住民全体からいえばごく少数にとどまる(付け加えるなら、そうした人たちの間でも、2014年のクリミヤ編入は防御的なものとして肯定していた人がかなり含まれるはずである)。
そのような少数派とは別個に、元来は政権を支持していた人たちの中からも、種々の戦争批判の声が出てきている。ある意味では、そうした部分の登場こそは政権の安定度を左右するかもしれない。これもいくつかの要素に分かれる。
一つには、いわゆる「オリガルヒ」(財閥の頭目たち)の動向が注目される。ロシアの資本主義化のなかで一種の「成り金」「政商」のような形で台頭したオリガルヒたちは、一面では政権と癒着しているが、他面では、政治権力と対抗することもある。プーチン政権のもとで政権からにらまれた何人かのオリガルヒは海外に逃亡した。その後も国内にとどまっているオリガルヒは基本的に政権に近い立場だが、そうした人たちの間でも動揺が始まっていると報じられている。代表例として、「アルミ王」と呼ばれるデリパスカ、アルファ・バンクのフリードマン、ノリリスク・ニッケルのポターニンらが政権批判的態度を示したとのことであり、他にも何人かが続く可能性が取り沙汰されている(オリガルヒの一員と言えるかどうか微妙だが、チュバイスの出国も類似の意味を持つ)。これは人道的な考慮からの反戦論というわけではなく、経済制裁が彼らを直撃することから、「こんな損なことはやめてくれ」ということと解釈すべきだろうが、財閥が政権を支える支柱の一つである以上、無視できない役割を果たす可能性がある。
軍のなかでも動揺が始まっている可能性が取り沙汰されている。早い時期にセンセーションを呼び起こしたのは、退役将校のイヴァショフが1月末にウクライナへの侵攻に反対する声明を発表したことである。その時点ではまだ戦争が始まっていなかったが、ひょっとして彼は事前に特別な情報をもっていたのかどうかは不明である。イヴァショフの軍内での影響力がどの程度なのかもよく分からず、これを直ちに軍全体の動向とみるのは性急かもしれない。いずれにせよ、これは愛国主義的な立場からの戦争批判であり、いわゆるリベラルな立場のものではない。軍のなかの動揺が現時点でどの程度のものかを判断することはできないが、「早期の勝利」という展望を裏切って泥沼化が進行するなら、軍事的リアリズムからの批判が増大しておかしくない。さらに、最近ではFSB(連邦保安庁=政治警察)の中でも不穏な動向があるとの報道も出てきた。その真偽は定めがたいが、軍にせよ、治安機関にせよ、秘かな動揺が始まっている可能性はある。
ロシア共産党の国会議員の中からも反戦論が出てきた。彼らは同党が「人民共和国」承認のイニシャチヴをとったのは平和のためであって戦争のためではなかったと主張しているとのことである。日本では、共産党は野党ではなくむしろ与党だという解説が盛んである。そういう風にだけいうのは過度の単純化であり、政権とときおり馴れ合う中途半端な野党(そういう野党は日本でも少なくない)と見るべきだろうが、とにかくそういう勢力の中からこのような声が出てきたというのは注目に値する事実である。これも、もとから政権と対決していた人たちだけでなく、むしろどちらかといえば政権を支えてきたような勢力の間での動揺を物語る。国会よりも広く地方議会まで含めれば、こうした動きはそれほど例外的ではないようである。
ロシア正教会の動きも注目に値する。正教は伝統的に国家と癒着しやすい体質をもっており、今回もキリル総主教はプーチンの戦争を支持する姿勢を明示した。しかし、そのことに対する下部での動揺が始まっているようであり、正教会がどこまで一体性を保てるかが怪しくなっている(ロシア国内の正教会でも動揺があるようだし、ロシア正教会の中で自治を持つウクライナ正教会では、もっと離反が広がりつつあるものとみられる)。
全体として、欧米や日本で理解しやすいリベラルな立場からのプーチン批判は少数派のものであるのに対し、むしろこれまでプーチンを支持してきた愛国主義的な立場の中から、戦争目的の不明確さとか、戦況の泥沼化による動揺が広がっているようにみえる。現実政治を左右するのは、こうした動きがどこまで広がるかによるのではないか。裏返していうなら、仮にプーチン政権が倒れることがあったとしても、その後にやってくるのはリベラル・デモクラシーの勝利ではない可能性が高いということである。そこから先を予想するのはSFの世界になってしまうが、「プーチンさえ倒れれば、後は明るい未来がやってくる」という期待はナイーヴすぎる。
*
本稿を準備し始めた後に現われた新しい動向として、かねてからの残虐行為が一段とエスカレートした(ブチャ事件やボロジャンカ事件など)ばかりか、それを正当化する露骨な宣伝的言説がロシアのメディアに登場した。セルゲイツェフという人物の論文「ロシアはウクライナに対し何をすべきか」(RIAノーボスチ配信、4月3日)である。それによれば、最初のうちは少数のネオナチを倒せば多くのウクライナ人はロシアのもとに戻るだろうと予期していたが、実際にはウクライナ人の多数がナチ化していたことが分かったので、彼ら全体を浄化しなければならないと説かれている。これはもはや、あからさまな民族まるごとの敵視を意味する。これを「もともとの本性がとうとう露わになった」と捉えるか、「つい最近まで、いくら何でもこんなことは絶対に言わなかったのに、ここまで行き着いたのは末期症状的な暴走だ」と捉えるべきかは議論の余地があり、にわかには判断できない。RIAノーボスチは確かに官製情報を流す媒体だが、それがどこまで強固に政権中枢に掌握されているのかは確定できない。戦争最初期に発表された論説がすぐに取り消された例もあり*24、個々の発信にどこまで十分なコントロールが利いているかははっきりしない。今回の問題論文を書いたセルゲイツェフがどういう人物なのかは分からないが、政権中枢に確固たる地位を占めるイデオローグというよりは、政権中枢に自己を売り込もうという野心を持つジャーナリストないし評論家なのかもしれない。仮にそうだとしても、いったんそういうものが公表された以上、これが自己運動して、ロシア国内でも諸外国でも種々の反響を呼び、事態は新たな局面に入っていく可能性がある。
3 停戦交渉
一般論になるが、停戦交渉においては、とにかく戦闘を止めて犠牲をできるだけ小さな規模にとどめることが目指される。そして停戦協定は双方の合意によって結ばれるものだから、とりあえずは双方の妥協によって「落としどころ」を探すことになる。これはもともとの開戦責任に関して「どっちもどっち」論に立つことを意味するわけではない。責任追及の問題はそれとして別個にあるが、とりあえず戦闘を停止するということが停戦交渉の意義とされる*25。
さて、最初の停戦交渉は2月末から3月にかけて両当事国間で何回か試みられたが、これは現実的な成果をあげることができなかった。双方の立場が大きく隔たっていた上、そもそも停戦の意思が――特にロシア側について――どこまで本気なのかも疑わしかった。そうである以上、このときの交渉が実を結ばなかったのは自然の成り行きだったのかもしれない。
当時国間の直接交渉の不調を受けて、3月29日にはトルコの仲介で、イスタンブールで停戦交渉が開始された(オリガルヒの一人として有名なアブラモヴィチも、非公式な形でこれに関与した模様)。ここでは、双方ともある程度譲歩の兆しをみせ、停戦への展望が開けたかに伝えられている。とはいえ、これが本当に停戦やさらには本格的な和平につながるかどうかは予断を許さない。トルコ以外にも、イスラエル、南アフリカ、中国、インドその他の諸国による仲裁の可能性が議論されているが、今のところ不確定である*26。
停戦交渉の議題としては多くの論点があるが、最重要なのは、安全保障の問題とクリミヤおよびドンバス2州の地位の2点である。
停戦交渉が始まったばかりの3月8日に、ウクライナ与党の「公僕党」はNATO加盟に必ずしもこだわらないと表明し、政権自身もロシアとの交渉において「中立」というオプションを排除しないと表明した。最近の短期的文脈では「中立化」はロシア側の要求であり、それを受け入れるのはウクライナの大きな譲歩ということになるが、振り返っていうなら、独立後かなり長いこと「中立」が基本方針だったのだから、形式的にいえば、独立直後の初心に戻るのだと言って言えなくもない。
とはいえ、この間に情勢の大きな変化があった以上、単純に昔に戻るわけにはいかない。仮に「中立」という言葉を使うとして、「中立ウクライナ」の安全を関係諸国がどのように保障するかという大問題があり、アメリカとロシアを含む関係国がこの点で合意することは、完全に不可能とはいわないまでも相当困難である。
クリミヤおよびドンバス2州の地位については、双方が非妥協的に対峙しているように見えるが、抽象的にいえば、ある種の妥協による「落としどころ」が考えられないわけではない。「ウクライナの中での高度の自治」という定式がそれである。ウクライナとしては、「ウクライナの中」という点は絶対に譲れないだろうし、「高度の自治」が保障されなければロシアとして呑むことはできない。「ウクライナの中での高度の自治」という定式は、辛うじて双方が受け入れることができるギリギリの妥協ではないかと思われる。
抽象論としては一応このように考えることができるが、では、その内実をどのように規定し、その現実化をどのように保証するかとなると、そう簡単に合意が成り立つとは期待できない。クリミヤについては15年間棚上げ案も出ているが、とにかく交渉の成否は今後を見るほかない。
おわりに
今後の展望について確定的なことを言うことはできない。次々といろいろな新しい動きがあり、報道でも、相互撞着を含む各種情報や観測が乱れ飛んでいる。一つだけ言えそうなことがあるとしたら、何が起きても不思議はないということだけではないかという気がする。
停戦交渉の行方に関しては、近く妥結するのではないかという見方と、それを否定する見方の両方がある。3月末から4月初頭にかけてはイスタンブール交渉がそれなりの成果をあげるのではないかという観測がある程度広まったが、その後に発覚したブチャ事件およびボロジャンカ事件は大々的な国際的反響を呼び、近い時期の停戦を困難にしたように見える。今後も、停戦協定が結ばれそうに見えたり、到底成り立ちそうにないと見えたりといったことを繰り返すのではないだろうか。仮に停戦協定がいったん結ばれたとしても、まもなく破られて戦闘が再開するということも十分考えられる。
停戦協定が何とか結ばれるのではないかという見方の根拠としては、既に双方とも大きな犠牲を払って疲弊しているという点が先ず大前提として挙げられる。そしてロシアについては、戦況が当初の思惑からほど遠く、苦戦を強いられていること、軍の士気が低いこと、経済制裁のダメージが大きいことなどといった事情から、当初の目標を引き下げて、何らかの妥協に向かうのではないかといった観測が提示されている。ロシアがかなり苦戦していることは、一面では譲歩を促す要因だが、他面では破れかぶれでの総攻撃に至る可能性もある(核兵器利用の可能性も排除されない)。
停戦協定が結ばれそうにないという説の根拠としては、ロシアはなりふり構わぬ強攻策にひた走っているので、ウクライナが納得するような有意味な譲歩などするはずがないとされる。仮にロシア軍が引くと見える場合にも、それは相手を欺すための見せかけかもしれないとか、キエフは諦めても東部だけは何が何でも死守するのではないかとか、それどころかキエフにもまた攻め込むつもりではないか等々、種々の観測がある。いずれにせよ、この種の観測は、それ自体が言論戦の一環をなしている。ロシアが譲歩して停戦に向かうだろうという観測は相手を油断させるための策略かもしれない。逆に、ロシアが譲歩する可能性がないという観測は、停戦交渉を挫折させて戦争を継続させることで経済的利害を引き出そうというアメリカ経済界の思惑によるのだという説もある。これらの言説自体、複雑な政治的思惑の交錯する言論空間を飛び交っているので、それらをどのように受けとめるべきかは何とも言えない。
ロシア国内の情勢についていえば、苦戦が続くなかでさまざまな動揺や政権批判の兆しがあることを思えば、プーチン政権は案外盤石ではないのではないかという気もする。とはいえ、欧米が期待するような意味でのリベラル勢力はロシアではごく少数であるというのが実態である以上、そうした勢力が政権を倒すというシナリオに期待するのは過度の希望的観測であるように思われる。それよりはむしろ、これまで政権を支えてきた治安機関・軍・大統領府などの中で、戦争の進め方への不満からクーデタが起きてプーチンを排除するというシナリオの方がまだしもありうるかもしれない。そのような形でプーチンが排除されることは、それほど明るい展望を開くとは考えにくい。それどころか、モスクワで非立憲的・暴力的なクーデタが起きるという前例がいったんできるなら、あちこちで大量暴力の噴出を誘発し、国家そのものが解体的状況に至るかもしれない。
世界情勢全体についていうなら、現状を「冷戦の再来」とする見方がしばしば提出されている。その際、考えなくてはならないのは、かつての冷戦とどこが似ていて、どこが違うかという問題である。現に一定地域で凄惨な「熱戦」が展開し、それが周辺地域に波及することが恐れられている状況、そしてまた核戦争の可能性を含む恐怖の展望の原因をめぐって双方から激しい非難合戦が交わされ、妥協の余地がほとんどないかの様相を呈している点は、かつての冷戦との共通点と言えるだろう。他面、かつての冷戦と違って、イデオロギーないし理念の対抗という性格は薄い。かつての冷戦は、両陣営がそれぞれに「人類普遍の価値」を掲げて対峙していたが、今でも「人類普遍の価値」を掲げているのは、「冷戦に勝利した」という自己意識をいだいている欧米諸国・日本の側だけで、ロシアの方は「スラヴの栄光」にせよ「ユーラシア主義的価値」にせよ、特定地域の支配を目指すにとどまるという非対称性がある。
また、かつての冷戦においては、二大陣営のいずれも秘かな亀裂・内紛をかかえていたとはいえ、外観上はとにかく一体となった「西側陣営」と「東側陣営」の対抗という形をとっていた。今日では、そのうちの「西側」がEU・NATOの東方拡大に加えてフィンランドやスウェーデンまで加わるといった形で大きく拡大する一方、ロシアは東欧および旧ソ連諸国を失って圧倒的に孤立している。但し、そのどちらにもつかない中間的な諸国も、中国、インド、中東、アフリカ、ラテンアメリカなど、それなりのウェイトを占める。かつては「西側」「東側」「第3世界」という構図が描かれたとするなら、いまや、「拡大した西側」「ただ一人孤立したロシア」「第3グループ」という構図になっているように思える。短期的予測はできないが、中期の展望でいえば、これはロシアの「一人負け」にしか帰結しないのではないか。そこから先の長期展望は、人類が無事に生き延びるかどうかを含めて、SFの世界となる。
最後に気になるのは次の点である。かつての冷戦においては、激しい対抗の渦中でも最高レヴェルでのホットラインがあったり、水面下での秘密裏での打診などといったコミュニケーションがあり、そのことが歩み寄りと緊張緩和を可能にした。今回はむしろコミュニケーションの完全な断絶が特徴的であり、緊張緩和どころか、ますます緊張激化に向かいつつあるように見える。これは一体どこに行き着くのだろうか――人類の滅亡を賭けたチキンゲームでなければよいがと願うばかりである。
*1その後の関連発言として、『世界』2022年5月号のインタヴュー、『現代思想』2022年6月臨時増刊号:総特集「ウクライナから問う」(5月中旬刊行予定)における池田嘉郎氏との対談がある。その他、4月4日には、東京大学グローバルキャンパス推進本部主催の役員・教員・職員を対象とした勉強会で講演した。本稿はこの講演の際に準備したノートをもとに、大幅な増補改訂を加えたものである。
*2このアナロジーは後注22の大串論文にヒントを受けた。
*3 2004年のロシア祝日法は11月4日を「国民統一の日」と定めた――これはかつての革命記念日に近い時期に設定され、革命記念日に代わる国民的結集のシンボルたらんとしたもの――が、これは17世紀初頭にモスクワがポーランドから解放されたことを祝う記念日である。
*4どの時期にどういう形でロシア帝国に編入されたかによって、ウクライナの中でも地域的偏差が生じた。大まかに東部・南部(ロシア化の度合いが深い)と西部(ロシア化の度合いが低い)が対比されることが多いが、細かく言えばもっと多数の地域に分かれるので、《西部か東部か》という二分法ですべてが割り切れるわけではない。
*5これに比して、ポーランド人とウクライナ人の間では、第2次大戦末期に壮絶な相互殺戮の経験があり、比較的最近まで歴史認識論争の大きな論点だった。今日では、その記憶は薄れ、ウクライナ人避難民を大量に受け入れるポーランドはウクライナとの間に「スラヴ系」同士として友好的な関係にあるかのイメージが広められているが、過去の記憶が完全に消えたのかどうかはにわかには何とも言えない。
*6日本政府は最近「キエフ」を「キーウ」とし、その他の地名もウクライナ語式に直すことを決定した。これまでロシア語式ばかりが優勢だったことを是正する意味で、これは一理ある判断だが、ウクライナ人のかなりの部分がロシア語話者であり、地名のロシア式発音も普通に使っていることも事実であり、「これだけが正しい」と断定できることではない。
*7旅券は16歳になったときに交付されるが、両親の民族が同じである場合にはその子も同じ民族、親が異なる民族である場合にはどちらか一方の民族を選んで記入するということになっていた。交付時の選択にこうした限定がある上、その後の変更を認めないという制度のもとでは、複合的アイデンティティをもつ人も、どれか一つの民族帰属に固定化されることとなった。なお、人口調査の場合は基本的に自己申告で、ときによって異なる民族を申告することも可能だったが、多くの場合、旅券に記載された民族帰属に引きずられがちだった。
*8ソ連を「アファーマティヴ・アクションの帝国」と見なす観点は、アメリカの研究者テリー・マーチンによって打ち出された(『アファーマティヴ・アクションの帝国――ソ連の民族とナショナリズム、1923-1939年』明石書店、2011年。つい最近、改めて復刊された)。マーチン説に対しては各種の批判や論争もあるが、重要な問題提起であることは専門家の間で広い合意がある。
*9 3月17日のレファレンダムにおいては、全国共通の設問の他にウクライナ独自の設問もあったが、後者の文言は「ウクライナが主権宣言の諸原則に基づいてソヴェト主権国家同盟の中にあるべきだとの考えに賛成か」というもので、やはり同盟内存在を前提していた(結果として、全国設問は賛成7割、共和国設問は賛成8割)。
*10独立後しばらくの時期のウクライナについては、中井和夫『ウクライナ・ナショナリズム――独立のディレンマ』(東京大学出版会、1998年; 第2刷、2022年)が詳しい。本書は副題に示されるように「独立のディレンマ」を多角的に論じているが、それが暴力的紛争とか、ましていわんや戦争にまで行き着くことを示唆してはおらず、種々の内部分岐をかかえながらも緩やかな統合があったことを示している。
*11この間の事情については、松里公孝『ポスト社会主義の政治――ポーランド、リトアニア、アルメニア、ウクライナ、モルドヴァの準大統領制』(ちくま新書、2021年)第5章が詳しい。
*12ウクライナにおける教会政治については、松里公孝氏が各所で書いているほか、高橋沙奈美「危機の時代における公共宗教としてのウクライナ正教会」櫻井義秀編『アジアの公共宗教――ポスト社会主義国家の政教関係』(北海道大学出版会、2020年)を参照。
*13ウクライナにおける歴史と政治の問題については、立石洋子「自国史像を分断させた記憶政策」『Voice』2022年5月号、および橋本伸也「「紛争化させられる過去」再論――記憶の戦争から軍事侵攻への飛躍について」『世界』臨時増刊号(2022年4月刊)参照。なお、テリー・マーチンの前掲書は30年代の飢饉について、「飢饉はウクライナ民族を狙い撃ちにした意図的なジェノサイドではない。しかしながら、飢饉で民族が全く何の役割もはたさなかったと言い切るのも間違っている」という微妙な書き方をしている。
*14「併合」という言い方はそれが不法だという含意をもっているので、ウクライナおよび欧米で使われる概念であるのに対し、「編入」という言い方は防御的かつ合法的だという含意を持ち、ロシア側からの見方である。ここでは文脈によって使い分ける。
*15なお、クリミヤの先住民たるクリミヤ=タタール人は、18世紀末にクリミヤ=ハン国がロシア帝国に編入された後、長期にわたって流出し、20世紀初頭までにクリミヤ住民の2割強程度に低下していた(クリミヤで彼らが少数派になったのはスターリンの強制追放によるという解説があるが、間違い)。1944年の強制追放でいったんゼロとなったその数字は、その後の漸次的帰還により1割程度になったが、それでも少数派であることは変わらない(なお、彼らの多くはロシア語話者である)。クリミヤ=タタール人の運動体は複数あり、一枚岩ではないが、もともとクリミヤに足場のなかったウクライナ・ナショナリストがクリミヤ=タタール人団体の一部に働きかけて同盟関係を構築したため、ある時期以降、ウクライナ人とタタール人が一体であるかの構図がつくられたが、それが全体を代表しているわけではない。
*16管見の限り、比較的手堅い分析――といっても、もちろん論争性を免れない――として、Interview with Volodymyr Ishchenko, “Towards the Abyss,” New Left Review, No. 133/134 (January-April 2022)がある。
*17最近の情勢としては、「アゾフ連隊がネオナチだというのはデマだ」という言説が広がっている。かつて彼らが実際にナチのシンボルをつけていたことは、ロシア寄りの情報だけでなく、欧米寄りの情報でも確認されているが、もともと非公式な存在だった勢力がウクライナ内務省統制下の国民親衛隊に組み込まれるなかで性格を変容させ、ロシアの宣伝に対抗するためもあって、ナチを連想させるシンボルを外すようになった模様である。そうした変容を前提すれば、現時点のアゾフ連隊を「ネオナチ」というのは適切でないだろうが、かつてそういうものとして出発したことは否定しがたい。
*18もちろん個人差も大きく、「ロシア語など聞きたくもない」という人もいれば、ロシア語を実際には流暢に話せるのに、それを潔しとしないという意識を持つ人もいるようである。人それぞれというほかない(ゼレンスキー自身も、元来の母語はロシア語)。
*19この問題については、日本では吉留公太『ドイツ統一とアメリカ外交』(晃洋書房、2021年)が詳しく検討しており、私も拙著『歴史の中のロシア革命とソ連』(有志舎、2020年)の第六章で論じた。
*20この点についても、前注の吉留著が詳しい。
*21Independent International Fact-Finding Mission on the Conflict in Georgia, Report, in 3 volumes, September, 2009.この報告をうけて、多面的な角度からの論評を収録したものとして、Caucasus Analytical Digest, No. 10 (2 November 2009)の特集があり、現地調査に基づく研究論文として、Kimitaka Matsuzato, “The Five-Day War and Transnational Politics: A Semiospace Spanning the Borders between Georgia, Russia, and Ossetia,” Demokratizatsiya, vol. 17, no. 3, Summer 2009がある。
*22「記憶に新しい」と書いたが、その直後にあまりにもドラマティックな事態の推移があったため、最近のことであるにもかかわらず、早くも記憶が曖昧になりつつある。まさに開戦直前の時点でそれまでの推移をきちんとまとめた論考として、大串敦「ウクライナ侵攻――「勝者なき紛争」がなぜ起こったか」『世界』2022年4月号が有益である。
*23最近接した新しい情報によれば、世界の多くの国からロシアが非難される状況を見たロシア国民の中には、これまでは政権に批判的だった人であっても、ここまで自国が孤立するならむしろ政権のまわりに結集しなくてはならないと感じる動きがあるという。これがどこまで代表的かは確定しがたいが、国際的な孤立状況がそうした心理を生むということはありそうなことに思える。
*24アコポフ「ロシアの攻勢と新世界の到来」。この論文については、ウェブサイトから削除される前に見つけた池田嘉郎氏がブログで丁寧な解題を書いている。
*25なお、日本の一部の評論家・ジャーナリストの間で「ウクライナが降伏した方がよい」という議論があるという。私自身はあまりテレビを見ないので、その種の発言を直接聞いたわけではないが、もしそれが文字通りの意味だとするなら、これは無責任な暴論と言わねばならない。一方的にロシアから侵略戦争を仕掛けられたのである以上、ウクライナがそれに反撃する権利を否定することはできない。その上で、その防衛戦争をどのような形で展開するのがよいかをめぐっては、当事者の間でもいろんな考えがあっておかしくない(ゼレンスキー大統領だけが全国民を代表しているわけではない)。また、いつまでも血みどろの戦争を続けていても犠牲者を増やすばかりである以上、相手方(ロシア)から一定の譲歩を引き出して停戦に持ち込むという考え方もあり、これは降伏論とは性格を異にする。
*26日本では、和田春樹らの声明が日本・中国・インドによる共同仲裁を呼びかけている。この声明をめぐっては、文面についても、それに関する説明についても、種々の議論や異論が出されているが、戦争の犠牲を少なくするためにやれそうなことは何でもやってみようという観点からの1つの試みということで、私も名を連ねた(成功可能性をそれほど高く見積もっているわけではない)。
*4月17日に発表されたものを著者の許可を得て転載いたしました。
〈記事出典コード〉サイトちきゅう座http://www.chikyuza.net/
〔study1218:220421〕