エッセイ:見よ君を屠る日は来ぬ…… 内田弘『啄木と秋瑾』を元日に読了す

著者: 津田道夫 つだみちお : 作家・評論家
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直接お目にかかったことはないのだが、経済学者としてその名を知っていた内田弘の啄木論を読んで(10年12月29、30,31日)、正直驚いてしまった。専門外の細かい研究をしていた事実に驚いたのではない。この三八〇頁の大冊により啄木歌に対する見方を全く変革させられたという意味での驚きである。内田は、啄木の「短歌爆発」(一九〇八)をバックアップしたものに「秋瑾衝撃」があったという。否、これを視野におかぬでは、啄木歌を歴史的・思想的に受け止めることさえできないというのだ。どういうことか。

秋瑾(一八七五~一九〇七)とは、まず女性解放を目ざして、排満興漢の革命運動にとび込んだ清朝末期の中国人革命家であった。彼女は、一九〇四年から〇六年まで何回か日本留学を試み、同志をつのっていたが、〇五年十一月の日本文部省「清国人留学生取締規則」に抗議、約二千人の日本留学生といっしょに帰国、革命党と連絡し、おのれの故郷である浙江省紹興で起義(武装蜂起)を準備中、仲間の裏切りで逮捕され(〇七年七月十三日)、

結局、全く口を割らぬまま、七月十五日、屠刀により斬首刑に処せられた。秋瑾は、口を割らぬまま「秋風秋雨愁殺人」(秋風秋雨人を愁殺す)の言葉だけを残した。当時、啄木は、秋瑾を直接知ってはいない。しかし、隣国清国の革命党の事件(因みに、秋瑾らの後を追った辛亥革命が起るのは一九一一年)であり、しかも、女性の斬首刑ということで、日本の知識分子には大きな衝撃が走った。その一人に感受性豊かな啄木がいたのである。そして、この事件が啄木にとって「秋瑾衝撃」となり、翌〇八年の「短歌爆発」にも結びつく。〇八年には併せて神田・錦輝館で、世にいう「赤旗事件」(荒畑、大杉、堺、山川均ら逮捕)が起り、啄木は、この二つを重ねて、

見よ君を屠る日は来ぬヒマラヤの

第一峰に赤き旗立つ

と歌った。啄木にとって短歌は思想を確認する手段であった。いま「一握の砂」から数首を引いてみる。スラッシュは改行箇所。

東海の小島の磯の白砂に/われ泣きぬれて

/蟹とたはむる

頬(ほ)につたふ/なみだのごはず/

一握の砂を示しし人を忘れず

大海にむかひて一人/七八日(ななやうか)

/泣きなんとすと家を出でにき

いたく錆びしピストル出でぬ/砂山の/

砂を指もて掘りてありしに

ひと夜さに嵐来りて築きたる/

この砂山は/何の墓ぞも

「東海の小島」は、中国からみて日本以外にない。第一首は、秋瑾の同志、陳天華が、「清国人留学生取締規則」に抗議して、東京大森海岸で踏海自殺した事蹟にも因む。

なお、啄木歌は一つ一つをバラバラに縦読みにしただけでは、その意味内容をとり損なうおそれなしとしない。縦読みして、これを併せ横にならべて、詩として読む視点を内田は提示しているが、これも私にとって啓示であった。

読者の皆さんにおすすめしたい一冊として若干を述べた。終りに、誤植が多いのは何とかならぬものかと思う。

(社会評論社刊11年1月1日)

初出:障害者の教育権を実現する会発行、月刊『人権と教育』444号(2011年1月20日号)より許可を得て掲載

〈記事出典コード〉サイトちきゅう座 http://www.chikyuza.net/
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