(2011年5月3日22時32分追加掲載)
「米国が発表したビンラディン殺害の経緯は信じられない」 AFP通信が現地の声を報道
5月3日付のAFP通信はオサマ・ビンラディンが殺害されたパキスタンで現地の声として、陰謀論が広がっていることを報道している。
陰謀論の根拠はいくつかあるか、「このあたりでアラブ人を見たことはない」(注)という証言や、米国がスンニ派イスラム教が禁止行為(ハラム)とする水葬をあわただしく行ったことへの疑問が重要かと思われる。
注 パキスタンはアラビア世界ではなくイラン世界に属する。国語とされるウルドゥー語はペルシャ語系。国民の半数以上はアーリア系である。スンニ派イスラム教が多数という点ではアラビア世界と共通点があるものの、アラビア世界、アラビア語には距離感を持っている。
パキスタンで広がる米国陰謀論について。AFPの報道
http://www.afpbb.com/article/war-unrest/2798151/7164738
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(2011年5月3日18時48分掲載)
オサマ・ビンラディンが死亡 残る数々の謎
2011年5月1日、オサマ・ビンラディン氏がパキスタンの首都イスラマバードの北50㎞にあるハザラ地方の拠点都市Abbotabadの邸宅にいたところ、米海軍特殊部隊シールズに襲撃され、40分にわたる銃撃戦の末に殺害された。ビンラディン氏は1957年サウジアラビアの首都リヤドに生まれた。享年54歳。父はイエメンの名家に生まれ、サウジアラビアに移住して、事業に成功して大資産家になったムハンマド・ビンラディン氏。石油ブームに伴う建設業で成功した。残した資産は50億㌦といわれる。石油や投資を通じて、米国のブッシュ家とも関係が深かった。
オサマの母はシリア人で10番目の妻。生涯で22回結婚し、55人の子どもを持った父ムハンマド・ビンラディン氏の17番目の子どもである。身長194㎝、体重73㎏。長身やせ形の美男子である。
オサマ・ビンラディン氏はビンラディン家に近いサウド王家の要請で、1979年から1990年までアフガニスタンでソ連を相手に戦う。この期間オサマ・ビンラディン氏は米国・サウジアラビアの側に立っていた。米国から組織の運営、インターネットなど通信手段の使い方、金融ネットワーク(マネーロンダリングの方法など)や武器の使い方などを教えられる。このノウハウが後にアルカイーダを支える基盤になる。
1990年にオサマ・ビンラディン氏は勝利者としてサウジアラビアに帰国するが、米国やサウジアラビアにとって、彼らアフガン戦士はもはや無用で有害な存在になっていた。弊履のように捨てられたアフガン戦士は居場所を失う。しばらく、オサマ・ビンラディン氏はアフガン戦士(多国籍で構成された)を救う慈善活動を行う。
1991年、サダム・フセインのイラクがクェートに侵攻する。サウジアラビアをうかがう。サウジアラビアは自力で対抗することはできず、米国に救援を求める。米国はサウジアラビア防衛を理由にサウジアラビアに駐留する。オサマ・ビンラディン氏はイスラーム教の2大聖地があるサウジアラビアに米軍が駐留することに強固に反対するが、サウド王家が受け入れるはずもなく、1992年にスーダンに脱出する。サウジアラビア国籍も剥奪された。スーダンは父の建設会社があり、そこで政府、軍、ムスリム同胞団と組んで、勢力を扶植する。
しかし、そこも安住の地ではなく、米国の圧力により、1996年にはタリバン支配下のアフガニスタンに亡命する。タリバンの客分の形となったオサマ・ビンラディン氏はタリバンの指導者ムハンマド・オマル氏を「カリフさま」として持ち上げ、同時に自分の娘をオマル氏の妻に差し出し、トヨタの4輪駆動車ランドクルーザーを贈るなど、歓心を買う。
この努力はムダではなかった。2001年の9月11日後、米国はタリバン政府にオサマ・ビンラディン氏の身柄を差し出すことを要求したが、オマル氏はきっぱり拒否したからだ。だが、その代償は大きかった。米国はアフガニスタンに侵攻し、タリバン政権は打倒される。ところが、タリバンは滅びず、いまだにNATO軍はタリバンとの戦闘を続けている。米国にとってアフガニスタン戦争は歴史上、もっとも長い戦争になった。
9月11日同時多発テロの主犯とされるオサマ・ビンラディン氏だが、発案者はハリド・シェイク・モハメド氏(現在、米国によって拘留中)で、オサマはそれを金銭や情報で支援した共同正犯というのが筆者の考えだ。オサマが9月11日の犯行を認めたのは2004年になってからだ。
しかし、オサマは9・11と結びつけられ、世界で知らないものはない有名人になる。
オサマは9月11日で何を目標にしたのか。米国が支配する世界秩序へのスンニ派イスラーム原理主義からの挑戦と誰しも考えるが、実際の目標は、「米国のサウジアラビアからの撤兵」だったと筆者は考える。2003年8月26日、1990年の湾岸危機以来駐留していた米軍は完全撤退をする。オサマの目的は達成された。
オサマというと、アフガニスタンとパキスタンの国境周辺の洞窟で、「家族とラップトップのパソコン2台を駆使して、世界的なテロを指導する長身でハンサムな貴公子」というイメージが浮かぶが、実際には2004年から体調を壊して人工透析を受ける体になっていたという。洞窟では人工透析を受けることは難しい。
アルカイーダは「インターネットのチャット(雑談)のようなもの」と揶揄されるように、中央集権的な実態のある組織ではない。ある意味で、米国がテロとの戦争を推進するために、組織を過大評価した面があると思う。2004年以降オサマがどれだけ国際テロ活動を指揮できたのか。筆者は疑問に思う。
オサマが生まれたサウジアラビアはワッハーブ派(スンニ派の一派)を国教とする。オサマもワッハーブ派の信徒だった。だが、オサマが思想的な影響を受けたのは、エジプトの急進的なムスリム同胞団の指導者、サイイド・クトゥブ氏(1966年ナセル政権により処刑)だった。アルカイーダの第2の指導者とされたザワヒリ氏もエジプトのムスリム同胞団の出である。
オサマはAbbotabadに広大な邸宅を構えていた。パキスタン軍やISS(軍情報部)が、暗黙のうちに匿っていたと見るのが自然だろう。パキスタン軍とISSはアフガニスタンのタリバンと密接な関係にあった。ソ連に対抗し、その後アフガニスタンを後背地とするため、タリバンを駒に使ったのはパキスタンとISSだからだ。
報道によれば、2010年9月ころから米国CIAはオサマの所在地を把握していた。2010年10月にはNATOの高官がCNNで、「オサマ・ビンラディンは洞窟ではなく、パキスタンで快適に暮らしている」と語っている。
なぜ、米国がいままでオサマに手を出さなかったのか。なぜ、オサマを生きたまま逮捕して、有益な情報を引き出そうとしなかったのか。いろいろ解釈できるだろう。
2011年4月29日、オバマ米国大統領はウサマの身柄拘束の発令をした。
DNA鑑定でオサマと確認された後、オサマの遺体は米空母から水葬にされたという。土葬にして墓を残すイスラーム教の風習を無視した行為である。これも謎だ。
オサマ・ビンラディン氏死亡の報道記事では、「今後アルカイーダが報復テロが懸念される」と判で押したように結ばれる(いわゆるテンプレート記事)が、果たして今のアルカイーダにそんな実力や考えがあるのかも疑問だ。
〈記事出典コード〉サイトちきゅう座 http://www.chikyuza.net/
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