オットー・クレンペラー :「芸術と政治」問題に立ちあった人(2)

著者: 野沢敏治 のざわとしはる : 千葉県市川市在住
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       はじめに クレンペラーとの出会い
      1 ナチス文化政策との闘い         (以上、前回)
                 https://chikyuza.net/archives/122102
      2 「文化ボルシェヴィズム」、その音楽的中身 (以下、今回)
        A オペラ上演
          同時代の作品

 2 「文化ボルシェヴィズム」、その音楽的中身

 クレンペラーも批判された「国際ユダヤ主義」、その真実と精髄はベルリンのクロル・オペラでの活動にあるので、そこに焦点をあてます。ベルリンの1920年代は文化活動の黄金時代でした。
 1927年、ベルリンに第2の新しい国立劇場、通称クロル・オペラが作られ、クレンペラーがその音楽監督に就任します。ベルリンには他に、エリッヒ・クライバーが指揮するウンター・デン・リンデンの州立歌劇場、ワルターが支配するベルリン市立歌劇場、フルトヴェングラーが常任指揮者のベルリン・フィルハーモニーがありましたが、クロル・オペラはそれらと並ぶ存在であり、しかもまったく独特の方針を掲げていました。それは音楽界の革新と民主化を狙って登場したのです。その活動方針はオペラやコンサートのマンネリズムを破ってまだ人に知られていない現代作品を上演すること、知られている古典に対しては新しい演出で創造的に再現することを目的としていました。第1次大戦後に新たにできたワイマール共和国がその活動を保障するのです。

 A オペラ上演
 クロル・オペラは実は財政的に豊かでなかったこともあって、それまでのオペラ上演のように経費のかかった虚飾やセンチメンタリズム、19世紀風の写実主義、スターの起用を避けました。聴衆は派手な衣装や次々に変わる舞台装置に目を奪われなければ音楽に集中でき、想像力を自由に働かせられるものです。クレンペラーの同僚にはツェムリンスキーや市立オペラのツヴァイクがおり、演出面ではワイマール工芸学校の画家デュルベルクやカールスルーエ博物館の芸術史家クリエルがいました。彼らが前衛的に活動します。

 まず同時代の作品について
  先例と後継
 クロル・オペラの方針には部分的ながら先例がありました。同オペラは突然現れたのでなく、そこに至る段階があったのです。マーラーがオペラの指揮にあたって演出を兼ね、歌手にはただ歌うのでなく役を演じることを要求していました。その舞台装置は簡素で、光の照明が採用されます(参照、エーファ前掲書)。さらにそのマーラーにもシャルパンティエのような先人がおり、マーラーは彼から軽さとユーモアを学んだり、大げさな舞台装置をやめて写実的なリアリズムを適当に除いていたようです(参照、アルマ前掲書、ナターリエ前掲書)。
 そして興味深いことに、このクロル・オペラの舞台づくりは第2次大戦後のバイロイトにおけるヴィーラント・ワグナーの演出に受け継がれていくのです。ヴィーラントは祖父のワグナーのオペラがナチスに利用されたことを反省し、実験的で革新的な舞台づくりをした人です。装置の簡素化、暗い照明の駆使、歌手の動きの抑制、こういうことで時間や空間を歴史的に表現するものはなくなって抽象的になり、聴衆は音楽やせりふの内容にぐっと集中させられます。彼は後にはさらに徹底して深層心理的な演出を手がけていきました。それらは欧米だけでなく、日本でも大変な話題になったものです。
 同時代の作品上演の一例を以下にあげてみます。
  「文化ボルシェヴィズム」批判
 1928年、クレンペラーはデュルベルクと共にストラヴィンスキーのオペラ『オイディプス王』を演出しました。それはスケールの大きい緊密に統一された舞台であったと伝えられています。台本は死語となっているラテン語を使っていたので、歌手は生きた現代語を使う時のように主観的に情緒過多にならずにすみ、聴衆の方も言葉よりも音楽に注意を集中できます。舞台は古代の神話世界でしたが、現代的に抽象され、衣装はシンプルなフォルムとなり、歌手は同じ姿勢を保って頭と腕だけの動きに切りつめられます。舞台上の動きは音楽から内面的に与えられるのです(参照、「新しい音楽についての対話」1028年3月『シャルキステ』所収、『指揮者の本懐』。参照、エーファ前掲書)。このオペラの意義についてはストラヴィンスキー自身の解説も参照されるべきでしょう。クレンペラーの指揮は不愛想で飾りっけなしでしたが、客観性を「解き放つ」ことで人の心を打ったようです(参照、エーファ前掲書)。ストラヴィンスキーはこのクレンペラーを「私の作品の献身的な伝播者」(参照、『自伝』)と認めていました。
 クレンペラーの指揮の方針は以上の例からも窺えるのですが、右翼から「文化ボルシェヴィズム」で左翼的だと非難されてしまいます。どこが左翼的なのか。その言葉は作品を的確に表現するよりも、やっつけ言葉に近いものでした。その言葉に惑わされず、実相に迫っていかねばなりません。その場合、音楽は仲間内だけでなく社会に働きかける面をもつものですが、注意することは、作品の評価はそのテーマとは別にやはり音楽にしていく音の形成力におくべきでしょう。以下、クルト・ヴァイルの実験に注目してクレンペラーとの関係をみてみます.。ヴァイルについては田代櫂『クルト・ヴァイル 生真面目な気カメレオン』(2017年)と太田美佐子『クルト・ヴァイルの世界』(2022年)が参考になります。

  新たな聴衆に分かる音楽を
 ヴァイルのオペラ作品は19世紀のオペラのように大向こうから拍手喝采をあびたり人を陶酔させるようなアリアを否定するものでした。そして、それは20世紀の最先端の無調音楽や複雑な技術を理解できる少数の教養層相手でなく、舞台俳優やアマチュアでも歌えるような旋律を用いたものでした。太田が特定しているように、ヴァイルは新たな中間階級の大衆をも実験対象にします。資本主義は自由資本主義から政府の関与が入る管理された資本主義へ、また個人企業でなく株式会社によって組織された資本主義へと変わっていき、労働者も権利を要求して資本家や経営者と対立するだけでなく、通勤する会社のなかに埋まって合理化に協力する層が出てきます。それは禁欲の宗教倫理と経営を結びつけていた初期の資本主義(マックス・ウェーバー)のなれの果てを伴いもしました。アメリカがイギリスに代わって世界の工場と金融の地位についていきます。労働者大衆は音楽を意識的に生活改善の糧にするよりも、娯楽として受動的に消費します。彼らは演奏会場に出かけて演奏家や作曲家と共同体を体験することなく、ラジオやレコードを通して個々的に作品と接するのです。孤立する消費者、大衆社会の出現。ヴァイルはその状況に対抗して、その大衆を新たな共同体に入れる試みをします。彼は現代の先端音楽が招いた聴衆との溝を埋めようとするのです。
 ヴァイルの曲は軽音楽の領域と重なります。でもこれも太田が注目していますが、そこにはひねった工夫が仕掛けられていましたから、それを感受できる聴衆はそれなりの耳をもたねばなりません。
 オペラの舞台は19世紀的な神話(ワグナー)や絵巻物の世界(ヴェルディ)でなく、日常の政治経済や風俗を対象にしています。それも聴衆(観衆)をオペラの中に感情移入させたり同化させるのでなく、日ごろの日常生活で見なれ聞きなれているものを異常にするように作られます。ブレヒトのいう異化作用です。音楽もその異化作用を促すように作られるのです。その具体例は後で示しますが、それによって社会意識のあるインテリと労働者の心を、そして大衆の心を捉えようとしたのです(参照、エリーザベト・フルトヴェングラー、仙北谷晃一訳『階層のフルトヴェングラー』1982年刊、エーファ前掲書)。そういう「音楽劇」(ソングシュピール)が、劇の伴奏音楽にとどまらない音楽劇が作られていきます。ヴァイルはその活動をするなかでブレヒトと出会ったのですが、やがて分かれていくことになります。このことも後で。

  音楽に政治が入る 
 ヴァイルは1927年に第1作『マハゴニー・ソングシュピール』を作曲し、そこに過激にも2人の女性歌手をヌード姿で登場させようとしましたが、その部分は当局から演奏不許可の処分を受けます。マハゴニーとは金がすべての資本主義世界のことであり、それが批判対象になります。しかも出演者はオペラの最後でプラカードをもって既存の秩序に反対するデモを行いました。戦争反対、世界平和、専制政治打倒を訴えたのです。芸術のなかに政治がもろに入った感があります。クレンペラーはその公演をみてヴァイルに関心をもつのでした。
 ヴァイルは翌1928年に『三文オペラ』を上演します。これが思わぬ大成功をもたらし、ヴァイルを代表する作品となりました。その影響は大きく、同時代の日本にも及んだくらいです。それは時事オペラであって、台本はブレヒトが18世紀イングランドで受けた民衆劇『乞食オペラ』を19世紀のヴィクトリア朝末期の時代に移したものでしたが、そのことで第1次大戦後のドイツの政治や風俗が風刺されたのです。登場するのは泥棒団と乞食商会、売春婦であり、彼らの間には裏でつながりがあって複雑なすじになっています。そこでの主要人物の一人・ビーチャムは乞食たちに衣装を貸してその上前をはねる小資本家(――近代以前的、あるいは近代の末裔の仲介業者)として登場し、他の人物のジェニーなどはホテルの皿洗い娘の労働者として振る舞っています。全体は18世紀的な番号オペラのク形式をとり、音楽はここでもポピュラーであって、「メッキー・メッサ―のモリタート」などは今でも耳に残っている人は多いでしょう。でもそれらにも前述したように実験的な響きが組み込まれるという具合でした。また音楽はオペラの筋に対してかなり自立的であり、ビーチャムが歌う「朝のコラール」などは人々が普段聞きなれている讃美歌の調子を用いて社会を告発するのですから、そこに異化効果が働きます。歌の内容と旋律の調子がずれるので、聴衆は劇の進行に感情移入できず、ちょっと立ち止まってしまいます。そして、最後はどんでん返しのハッピーエンド。
 クレンペラーはクロル・オペラでこの『三文オペラ』を指揮しました。また彼はブラス・オーケストラのための『小さな三文音楽』を初演し、1930年にはその抜粋版をレコードに録音しています。付記しておくと、彼は戦後の1961年にロンドンでフィルハーモニー・オーケストラを使ってステレオで再録音しています。
 さて問題は、1930年3月にヴァイルがブレヒトと共同で作成したオペラ『マハゴニー市の興亡』の公演です。それは1927年のソングシュピール版を改定したものですが、それはドラマというよりもブルジョア社会における人間の悪行を容赦なく描いたものであって、3人のお尋ね者がマハゴニーという町を作り、町の北から戻ってくる砂金堀りたちから金を搾り取るという設定でした。その町は酒を飲む・ばくちを打つ・性を買うというようにやりたい放題でした。最後には町は物価高騰で住民はすべて敵同士となる。ラストでまたもデモ隊が登場して、私有賛成、収奪賛成、不平等賛成、売春賛成、無秩序賛成を叫ぶのです。このオペラが資本主義の無秩序をあばくものであることは明らかでした。最後は『三文オペラ』の時とは反対に救いなしで終わり、聴く人を前に向かわせるものは何もありません。 
 これが保守層や右翼から文化ボルシェヴィキだと攻撃されて暴動になり、公演は途中で打ち切られます。公演に対する賛成や反対の意思表示ははっきりしていますが――戦後日本の洋楽ファンにはないことーー、両者の間に対話は生まれません。その後、新聞は事態を報道することはあっても、自分の態度を表明することは控えていきます。表現の自由や権利を訴えることはタブー視され、忖度と自己検閲がなされていくのです。
 クレンペラーはヴァイルからそのオペラの一部をピアノで聴かされていましたが、その重要性や音楽的な美しさは評価できても総体的に理解できないとして指揮を断ります。その演出の中に一線を越えた卑猥なものがあると思ったからです(参照、前掲『クレンペラーとの対話』)。
  音楽と言葉
 もう一つ問題が生じました。ヴァイルとブレヒトの間に考えの違いが出始めたのです。ブレヒトは言葉やテーマを優先しようとしますが、ヴァイルは音楽を第一にし、舞台上でのセリフや身体の動きを音楽表現の手段にしようとしたのです。ブレヒトは芸術の目的を美食的な鑑賞はもちろん社会批判にもとどめず、マルクス主義的な政治革命の表明におくようになります。ヴァイルの方はオペラ界の慣習を変える方向でよかったのです。

 ここでヴァイルから離れて、ヒンデミットを取りあげましょう。ヒンデミットの一幕ものオペラ『今日のニュース』も物議を呼びました。クレンペラーはそのオペラの初演者でした。ヨーゼフ・ゲッべルスは浴場の場面に裸の女性が出てきて不協和音を鳴らすのを見て、これはドイツ国民精神に合わない「堕落した芸術」と決めつけたのです。ヒットラーもそのオペラを見て怒りました。政治家が何が芸術かを決めるのです。精神的な指揮者フルトヴェングラーもそのオペラのいかがわしさを認めますが、ヒンデミットの本姓はそこにはなく後期の作品『画家マチス』で理解すべきだと言って、勇敢にも彼を擁護したことを付記しておきます(参照、1934年の論説「ヒンデミット事件」)。
 クレンペラーの態度と対照的なのがここでもプフィッツナーでした。プフィッツナーはゲッベルスに手紙を書き、自分は「国際ユダヤ主義と知性偏重の文化ボルシェヴィズム」に対して闘ってきたと述べるのでした(参照、エーファ前掲書)。クレンペラーは後年の1960年、プフィッツナーは国粋主義者であったと述べています。

  現代音楽を受け入れた聴衆の地域と社会層  
 何が芸術かを決める主体は政治でなく、作者と演奏家と聴衆が交わる場であるはずです。そこでは聴衆も表現の自由の担い手になりえるのです。
 クロル・オペラの現代音楽を受け入れた聴衆の層や地域はどこであったか。この点にもエーファがくいいっており、それは高校生・大学生や進歩的な聖職者の若者でした。それを裏づけるように、クレンペラーもヘイワースから受けた前掲のインタビューの中で、自分を受け入れた聴衆は若者やエルンスト・ブロッホ、ヴァルター・ベンヤミン等の左派的知識人であったと証言しています。彼らが中傷的な評価に左右されなで作者の意図に耳を傾けることができたのです。地理的にはケルンやフランクフルトであったようです。
 反対に拒否した聴衆の層や地域ですが、それはハンザ都市の金持貴族であり、彼らはオペラ鑑賞を食事した後の楽しみとしていたのです(参照、エーファ前掲書)。彼らは資本主義の歴史でいうと、外国商業や金融業者の末裔でした。ぜいたくな舞台づくりと心地よい楽の音が彼らの感官をくすぐり、オペラ劇場にいることがこの有閑階級の虚栄心を満たしたのです。それは左翼が批判する「美食オペラ」でした。

  レパートリー制からシリーズ制へ 
 クロル・オペラは水準の高い上演をめざして劇場運営の改革を行います。従来のレパートリー制に代えてシリーズ制が採用されるのです。これは画期的なことでした。
 レパートリー制は毎年何十ものオペラをレパートリーにして公演しますから、どの演目も練習不足となります。お決まりの慣れたものなどは練習1回ですまされるので、よい演奏は期待できません。新作の公演には十分な準備が必要ですが、それもできません。クレンペラーがクロル・オペラを引き受ける前、ケルンのオペラ座で経験したことですが、そこの監督は古びた演目のレパートリーを古めかしい写実主義で演出していました。クレンペラーはそんなところで最初のシーズンに98回も指揮するという激務を強いられたのです(参照、1931年1月27日、クロル劇場の最後を迎えるにあたっての新聞での公の説明文、前掲『指揮者の本懐』所収)。
 それと反対に、シリーズ劇場は演目を少なくしてそれぞれに十分な準備の時間をあて、しかも何度も続けて公演しますから、質の高い演奏を提供することができます。クレンペラーはシリーズ制にすることで「オペラの精神化」をめざしたと言えます。

〈記事出典コード〉サイトちきゅう座  https://chikyuza.net/
〔study1233:220929〕