ドストエフスキーの父親は農奴に殺されており、その経験が父親殺しの作品〚カラマーゾフの兄弟〛のリアリティーを支えている。作品の中で父を殺したのは長男のミーチャであると裁判の判決が出されているが、これは証拠に基づくものではなく状況証拠による判決であり、犯人がミーチャでないことは確実である。実際の下手人は下男のスメルジャコフなのだが、スメルジャコフは自分が真犯人とは認めておらず、真犯人は自分にカラマーゾフ殺しを示唆した次男のイワンだと主張している。イワンはそのことを認めたくはないが、認めざるをえないため、悩みに悩んで発狂寸前にまで至った。しかし、そのイワンに対して三男のアリョーシャは「犯人はあなたではない」ときっぱり断言しているのである。だが犯人がミーチャでもなくスメルジャコフでもなくイワンでもないとしたら、いったい犯人は誰だということになるのだろうか。アリョーシャは答えを差し出していない。だれが真犯人かを明らかにしていないのである。この曖昧さには疑問が残る。
アリョーシャは真犯人が誰かという質問に自らは答えていない。なぜだろうか。結論を出すのを保留しているのである。自らが真犯人かもしれないという可能性を問うことを避けているのである。犯人がはっきりとしない状態のままで〚カラマーゾフの兄弟〛前編は終わる。
ところで優れた探偵小説においては、真犯人はいちばん犯人らしくない人物が犯人であるケースが多い。《カラマーゾフの兄弟》の中でいちばん犯人らしくない人物はもちろんアリョーシャである。そこでアリョーシャが犯人かどうかその可能性を調べてみよう。アリョーシャはゾシマ長老の危篤の状況にはたいそう心配し気遣いを示しているものの、ミーチャと父親の険悪な関係が進行している状況にほとんど関心を示していない。危機に冷淡なのである。この対照的な態度には疑問が残る。
大宗教家ゾシマ長老の一番弟子であるアリョーシャにとって、イエス・キリストだけが罪なき唯一者であって、その他の人は自分もふくめてみな罪人なのである。敬虔なキリスト教徒であるアリョーシャはやがて自分が父親殺しの罪を犯したことに気づく。ミーチャと父親との険悪な関係が進行し、いつ不祥事が起こっても不思議でない状況に、アリョーシャは気づきながらも介入しようとはしなかった。アリョーシャは不作為の罪を犯していたのである。アリョーシャは自らの罪を自覚した。前編ではそのような自覚はまだアリョーシャに訪れてはいない。
ドストエフスキーはこのような覚醒せるアリョーシャを続編の主人公として構想していたのではあるまいか。父親殺しの自覚に到達してアリョーシャが自らの罪を償う後半生の物語を、続編の主題として構想していたと思うのである。
ドストエフスキーは隣部屋で皇帝暗殺の謀議がなされているのを盗聴しようとして、ハシゴから落下し不慮の死を遂げ続編の執筆は幻に終わった。誰もアリョーシャを父親殺しの犯人だと断定する資格をもたない、ただひとりアリョーシャだけが真のキリスト教徒として父親殺しの罪の自覚をもったのである。このような作品をもしドストエフスキーが書き上げていたならば、それは人類が手にする最高峰の作品となったであろうと思われる。それは神秘的かつ偉大なロシアの精神を深層から描き出す傑作になったはずである。
カラマーゾフ殺しの真犯人はアリョーシャであった。この大胆な仮説に誰か賛成してくれないものだろうか。
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