カリスマ経営者のありよう

随分前になるが、雑誌の特集記事の一つにカリスマ経営者の功罪に関するものがあった。カリスマ的経営者がいたほうがいいのか、それともいることによるマイナスが大きいのかについて、学者らしい単純なロジックで結論にならない結論を出していた。

アメリカの経営学の学者らしく手法というのか一応のプロセスを踏んでいた。対象とした業界から比較対象の企業群を選び出し、創業時と調査当時の表層の経営状況を調べた(というより書き出した程度だろう)。歴史上カリスマ的経営者がいた企業といなかった企業の今日の状態を比較して、いたからといって今上手くいっている訳でもなし、いなかったから今上手くいっていないという訳でもない。どっちが良いとも良くないとも言えない、大まかには半々という結論だった。これが結論?なんのための調査研究?拍子抜け。まあ、その程度ということなのだろう。

 

カリスマ的経営者は目につくからその存在、いるかいないかの判断の定義はいらないが、上手くいっているかどうかは事業規模だけで判断し得ない。それでも判断基準を簡単にして、誰にでも分かる単純な結論をポンと出したい、聞きたい人たちがいる。カリスマ経営者を祭り上げて禄を食んでいる人たちと禄を提供する人たち。

ほとんど全てといっていいいだろうが、カリスマ的経営者がいないことには企業としての創業そのものがない。いくら優秀な人材がいても、誰かがリーダーとして何人かの人たちをまとめて事業を始めるところから企業が始まる。なかには既に確立された企業の一部門として設立される企業もあるが、その類の企業の始まりを何もないところからの創業と一緒には勘定できない。

 

創業が程度の差はあれカリスマ的経営者を必要としていることから、カリスマ的経営者がいた方がいいのかいない方がいいのかという設問自体に意味がない。カリスマ経営者がいることから次の設問-どのようなカリスマ経営者がいいのか-から入らなければならない。

カリスマ経営者と言えども全ての点で完璧な人はいないし、秀でた優点や強みは多くの場合それを優点に強みにする環境があってはじめて優点であり強みであるに過ぎない。状況が違えば優点であり強みであったものが補いようのない欠点や弱みになりかねない。「戦時の英雄、平時の厄介者」はこれをうまく言い当てている。

どこかのセミナーのようにカリスマ経営者の優点と欠点をリストアップして個々の特徴について解説することに意味があるとも思えない。カリスマ経営者がカリスマ経営者としてあること自体にカリスマ経営者の限界と将来の不安、解決が難しい問題がある。

創業から始まって多方面に持てる能力を発揮して企業を軌道に乗せたカリスマ経営、そのカリスマ性が大きければ大きいほど、カリスマ経営者の総合的な、しばし人としてのありようまで含めた能力を引継ぎ、次の時代に適合してゆく革新を継続できる後継者が育たない。

カリスマ経営者の全能を一人で引き継ぐことができる後継者はカリスマ経営者の下では育たない。その可能性を秘めた人がいたらカリスマ経営者によって政治的に葬りさられる。カリスマ経営者の能力の一部を補完するまではゆるされるだろうが、全能を置き換える能力は、その可能性や萌芽であても、競合するものとしかカリスマ経営者の目には映らない。自分を凌駕しかねない者は対抗者としかみえない。

そのため、後継者は明らかにカリスマ経営者の能力に比べて低い、俗な言い方になるが明らかに器量の小さい人になる。後継者が有能であればあるほど、カリスマ経営者の下では問題になる。後継者候補が政治的に厳しい立場に追い込まれるようなことが一度でも見え隠れすれば、後継者としての能力を向上させる-カリスマ経営者と同等か凌駕する-ことより、それを矮小化して見せることに注意をはらうことになる。政治的に潰されるのを避けるために能力を高校野球に留めていたら、将来大リーグに上がる能力を培えるはずがない。

後継者というカリスマ経営者について回る問題をできる限り問題としないカリスマ経営者のありようがある。カリスマ経営者として全能をフルに発揮しながらも、常に周囲の人たちが支える、助ける場を提供できるかにある。人間誰しも全ての領域で完璧などありえない。自分の至らない点を補ってくれる人たちが自由闊達に活躍できる環境を提供することが後継者のみならず環境に応じて自己成長を図ってゆく組織文化を形成する。

カリスマ経営者のリーダーシップとは、人に支えられる、人が支えたいと思うリーダーシップでなければならない。自分でやってしまえばできることでも、やらなければならないことが多く自分ではできないことが多い。人に任せることでおきるかもしれない失敗や問題は任せた自分の責任として人に事を任せられるか、任せられることの意味と責任を分かった上で任せろと具申してくる人たち、支えてくれる人たちにどれほど支えてもらえるかがカリスマ経営者としてのリーダーシップとしてのありようになる。このリーダーシップ、実はリーダーシップそのものの根幹であってカリスマ経営者に限ったことではない。

よく見れば、成功した現在に拘泥するあまりに将来を閉塞させてきたカリスマ経営者が目に付く。それでも名の知れたカリスマ経営者の一時代の成功、リーダーシップ論を売り歩く先生方には使い易いケーススタディなのだろう。先生方のご高説にカリスマ経営者がでてきたら、将来のありようを思考実験してみた方がいい。一時の特殊環境に上手く適合してしまっただけかもしれないものを普遍的なありようとして語られていることが多い。

 

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