クリストファー・ノーラン監督映画「オッペンハイマー」から学ぶ

 映画「オッペンハイマー」を知ってから日本でも公開されるのを待っていた。全米で観客を魅了したこの作品は、アカデミー賞最多7部門を受賞した。二の足を踏んでいた日本で329日から全国一斉に公開となった。

 上映時間3時間の最初から最後まで、緊張の連続、オッペンハイマーの表情にくぎ付けとなった。

理論物理学者オッペンハイマーの世界は、私には縁もないような世界だ。が、極秘の原爆開発プロジェクト「マンハッタン計画」が始まったのは私が生まれた年の夏。そして続く私の幼少期は、幼いながらも高い空の向こうにアメリカ爆撃機の火花を見つめ、身重の母が土間にうずくまり、私は近所のおじさんに負ぶわれて逃げた記憶が鮮明に残る時代だった。戦後、新聞に載った原爆の写真、毎年その時間家にいても学校にいても西の空に向き祈ったことなども思い出す。

 服装や車・日本の今を思わせる家などアメリカの生活様式は日本と大きく違い、小学生の私は驚いたりしたが、この映画でそのことを想い出しても、私の心と目がひきつけられたのは、彼・オッペンハイマーの表情だった。

 黒板いっぱいに書かれる数式、宇宙空間に広がる星やエネルギーが数式となって飛び交う。科学者たちの頭の中に広がる膨大な数式が手先からほとばしり、集中する。

 オッペンハイマーは、と同時に、友人・仲間たちのことも他人事として放っておけない、嘘を言ってでも何とかしようとする心の内の想いが彼の表情にじみ出る。

 理論は得意だが実験は苦手の彼が、科学者たちを率いて作り上げた「新型爆弾」の実験。実験を前に組み立てられた櫓の上で爆弾に向き合う彼。「我は死なり、世界の破壊者なり」の言葉、アインシュタインの忠告、悩みながらも引き返すことはない。猛烈な爆風は彼の頬を叩きつけた。成功は、その「成果」を彼の手から奪った。権力者へと離れ、奪われた。造られたそれは、世界の希望ではなく、存在してきた世界を壊すものだと気づく苦悩が始まった。

 ヒトラーが手にして多くの人を殺すことはさせまいとした科学者の良心は政治と一体となった。多くの仲間と共に研究は進み、成果も広がった。しかしヒトラーがいなくなっても、日本は既に力尽きていても、爆弾製造は止まなかった。成果を見たいという彼らの欲望も止まなかったのだ。

1945716日チャーチルやスターリンらとポツダムで話し合っていたトルーマンに一通のメモが届く。トルーマンはニューメキシコ州で原子爆弾の実験が成功したことを知った。当時のヘンリー・L・スチムソン米陸軍長官は、「非常に強化された。唯一の原爆保有国として、その後のスターリンとの関係が楽なものになると考えたのは当然である」と記録し、「あの男たち(ロシア人)を叩くハンマーを持つことになる」とトルーマンが補佐官に打ち明けたとも言っている(W・バーチェット著『広島TODAYp116原爆製造のドラマ)。

19458月広島・長崎への原爆投下。戦争は終わったが、冷戦が始まり、核を手にした争いは今も続いている。核被害が世界中に広まった今をつくってしまっている(伊東英朗監督ドキュメンタリ映画「放射線を浴びたX年後」「放射線を浴びたX年後Ⅱ」 「サイレント フォールアウト」)。

 しかし、オッペンハイマーの科学者として自分が犯した罪への想像力・悔恨は、ポストも職も、果ては赤狩りの対象とされても、止むことはなかった。

原爆成功・戦争終結で熱狂的に迎えられる中で足に絡む黒いモノを見るその眼、広島・長崎の投下後の様子を映像で観ていると伺える会場でのその姿、妻や友人たちが次々と尋問され涙ながらに真実を語る公聴会でのオッペンハイマーの苦悩は、亡くなるまで続いたが、屈することはなかった。

 1961年ジョン・F・ケネディが大統領に就任し、オッペンハイマー名誉回復の動きが出て、1963年原子力委員会が、科学者に与える最高の栄誉:フェルミ賞の授与を決定した。その後がんが見つかり19672月オッペンハイマーは62歳でその生涯を閉じる。

 科学者としての彼の苦悩と生きざまは、今に生きる私たちにとって大きな教訓となる。今、技術は日々進歩を続け、これまでと大きく違った環境が私たちを取り巻いている。

21世紀瞬く間に私たちの生活を便利にしたAIの力。人間をも宇宙空間をも変えようとしている。世界に希望はあるのか。子どもたちにどんな希望を渡せるのか。オッペンハイマーの苦悩が私に語りかけた。

20240329

〈記事出典コード〉サイトちきゅう座http://www.chikyuza.net/
〔opinion13635:240331〕