クリスマスを迎えた。イエス・キリストが生まれた日とされる。
年に1度の世界的に重要な祝日である。タフな多神教徒が多い日本では「男女が出会う日」になっているが・・・・。それはそれで文化の受容形態だから良しとしよう。
① キリスト教の原罪論
ここで、キリスト教の基本教義である原罪について考えてみたい。
キリスト教では、すべての人間に原罪があるとする。
原罪があるので、人間は主と霊的に切り離され、死ぬべき存在になった。原罪は人間の善行や律法を守ることでは解消できない。主の独り子であり、主が受肉した救世主イエスの十字架での死=贖いによって、人間は原罪から解放され、あの世で永遠の命を得ることができる。
原罪とイエスの贖いが対になり、教義が形成される。
原罪は最初の人間であるアダムが、主の命令を守らなかったことから発生した。
エバが蛇にそそのかされ、エデンの園の中央にある、主から食べることを禁止された木の実を食べ、「夫(アダム)にも与えたので、彼も食べた。するとふたりの目が開け、自分たちの裸であることがわかったので、いちじくの葉をつづり合わせて、腰に巻いた」(旧約聖書「創世記」第3章)
主の言いなりのロボットのような人間が、主の命令に違反して、「知恵の木の実」を食べることによって、目が開け、自分で考える存在になった。
主は語る。「見よ、人はわれわれのひとりのようになり、善悪を知るものになった」(創世記第3章)。
人間が知恵と自由意思を得たのである。
しかし、その代償は大きかった。楽園から追放されたからだ。
「あなたは顔に汗してパンを食べ、ついに土に帰る。・・・・あなたはちりだからちりに帰る」(創世記第3章)
ところが、こうした原罪を背負った人間が、イエス・キリストの贖いによって、人間は原罪から解放されて、イエスと同じように、死後に復活して永遠の命を得るという教義である。
どうしようもない人間に、主が自らひとり子をこの世に差し出して、原罪の解消と、主の被造物である人間と和解することを意図していると、キリスト教的に考えることもできる。
ただ、原罪と贖い、三位一体論がからむキリスト教の教義は一言でいえない複雑な構成になっている。たとえば、人間から生まれ、「完全な人間」でもあるイエスに原罪はあるのか、母マリアはどうなるのか、という論争が直ちに巻き起こる。
キリスト教の神学では、パウロや教父アウグスティヌス、カルヴァンなどアクロバット的な思考能力と表現力が必要とされる。
一方、同じアブラハムの宗教の系譜にあるユダヤ教、イスラム教は生活を実践する場面に必要な法学(生活のルール)を発展させた。姉妹宗教でありながら、著しく対照的である。
② 教義がわかりやすいユダヤ教、イスラム教
これがユダヤ教なら、「神は創造者で唯一の方。神が与えてくれた律法を守る」
イスラム教なら、「神は創造者で唯一の方」に加えて、「ムハンマドは神の使徒で、最後の預言者」と教義をまとめることができる。
ユダヤ教には原罪論はない。ユダヤ教から見れば、原罪論はパウロの片寄った旧約聖書解釈に過ぎない。
イスラム教にも原罪論はなく、したがってイエスの贖いも不要になる。
三位一体論についてはユダヤ教、イスラム教ともに、神に妻と子を与える迷信だと論じている。クルアーンは、「神に母なく子もない」と辛らつに批判している。
③ 原罪論に学ぶこと
主の命令に違反することで、知恵と自由意志を手に入れた人間。だが、主に罰せられたことで、命が有限となり、労働してわが身を養う労苦を負う。女性は出産の苦しみを得る。
旧約聖書「創生記」第3章の主のメイン・メッセージは、「人間は神のようになってはいけない」と解釈できるだろう。
原罪以前の人間は、神のロボットのような存在だ。神にOSとアプリケーションソフトを埋め込まれ、神の意志通りに動いていた。
ところが、その人間が、「見よ、人はわれわれのひとりのようになり、善悪を知るものになった」(創世記第3章)。神は驚愕する。
人間は知恵と自由意思を得たことで、神から離れて、独自の世界を構築した。だが、そのすべてが良いわけでない。
問題点は、理性と科学と理論で世界を神のように創る(あるいは創り変える)ことができるという新たな信仰が生まれことだ、と思う。
そうした信仰にはいろいろな名前が与えられている。そうした信仰によって、おのれの無力さ非力さを感じて、苛まれている人も多い。
だが、創世記が語るように、所詮人間は、「土とちり」から生まれたものだ。
原罪論は、「人間が神になってはいけない」と教えることで、人間の傲慢さを戒め、反省する機会を与えているように思える。
神が与えた命を気楽に生きよう。
クリスマスに想うことである。
〈記事出典コード〉サイトちきゅう座 http://www.chikyuza.net/
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