グローバル化とは金融植民地主義を指す現代用語にすぎない(ジョン・スミスとの対談) Globalization Is Just a Contemporary Word for Financial Colonialism

2013年4月24日に、バングラデシュの首都ダッカ近郊にあった縫製工場の雑居ビル「ラナ・プラザ」が崩壊し、1100人以上が亡くなった。この工場に製品を発注していたのは、いくつもの先進国の服飾販売会社だった。
貿易の自由化で関税が撤廃され、先進国の製造業は安い労働力を求めて次々と海外に工場を移転させてきた。服飾産業はこの典型で、世界最低賃金の労働力を目指し、多くの企業がバングラデシュを製品製造国に選び、その中でも賃金の安い女性が多く働くことになる。
バングラデシュでの製造が安上がりなのは、その賃金だけでなく労働安全や環境保護にほとんどコストを掛けずに済むからでもある。その結果起きたのが、ラナ・プラザの崩壊だった。
カナダCBC制作のドキュメンタリー『メイド・イン・バングラデシュ』(2013年)は、あるインド系服飾デザイナーの目を通して、この事件につながる先進国ブランドと、バングラデシュ服飾工場労働者の実態を描き出す。
なぜこのようなことが起きるのか。『21世紀の帝国主義:グローバル化、超搾取、資本主義の最終危機』を2016年に出版した異色の経済学者、ジョン・スミスは、ラナ・プラザの崩壊を手がかりに、超資本主義が内包する差別と搾取の構造を解き明かす。労働者の国境を越えた動きを制限することで生まれる階級分断と賃金格差を利用して、途上国ばかりではなく先進国の労働者の生活をも切り下げているにもかかわらず、主流経済学が振りまくGDP幻想がこの仕組み全体を見えなくしていると指摘する。
トランプ大統領は、アメリカ人の暮らしを悪化させたのは移民のせいだとして、不法移民を排除する壁を建設すると主張しているが、先進国に移民が押し寄せることと、工場が途上国へ移転することは、じつは資本主義が作り出した一体の現象なのだ。このシステムが、第二次大戦後に植民地が名目上の独立を果たした後の「新植民地時代」を支え、先進国に富を吸い上げてきたのだが、21世紀に入って搾取のレベルが極限まで達し、資本主義は危機に陥っている。
ラナ・プラザの崩壊は他人事ではない。私たちが買う物を通してこの暴力に加担していると同時に、ここに至ったのと同じ構造が縮図のように日本の中にもあるからだ。企業の採用を減らして狭き門にする一方で、お抱えの人材派遣会社による二重基準の雇用。一度退職したら異常に高い再就職への壁。これらが、労働の自由市場を機能不全にし、正社員と非正規労働者の階級分断を作り出している。
全世界の労働者を搾取している階級分断をなくすためには、生産手段を資本家から労働者の手に取り戻すことが必要だとジョン・スミスは説く。労働者は資本家の言うなりに雇用されることから脱却して自由になる必要がある。これを不可能なことだと思い込ませているのは、資本主義が作り上げた広報宣伝、つまり刷り込みではないかと疑ってみる価値がある。

今回、翻訳して紹介するのは、ジョン・スミスがトゥルスアウト誌のマーク・カーリンの質問に答えた対談記事ですが、先にドキュメンタリー映像『メイド・イン・バングラデシュ』(日本語字幕付)をご覧いただくと、理解が深まるのではないかと思います。

(前文・翻訳・字幕:酒井泰幸)

ドキュメンタリー『メイド・イン・バングラデシュ』(カナダCBC制作、43分)
私たちの服にはバングラデシュ製のラベルが付いたものがたくさんある。 しかし 2013年4月にバングラデシュの縫製工場が崩壊し多くの死者を出すまで、私たちの多くはそれを作る人々のことを考えていなかった。ラナ・プラザの瓦礫の中からカナダ向けの衣服が見つかると、カナダ企業は「どうしてこんなことになったのだ?」という驚きで反応した。
番組「フィフス・エステート」のマーク・ケリーはバングラデシュに行き、カナダ向けの服を今も危険な労働条件で作らされているという労働者たちを追った。ケリーは刑務所に収監されたラナ・プラザで最大規模の工場の所有者に独占インタビューを行い、彼の何百万ドルものビジネスが長期にわたってカナダと繋がっていたことが明かされる。
『メイド・イン・バングラデシュ』は 2014年の国際エミー賞・時事問題部門賞を受賞した 。(初回放送:2013年10月11日)

https://youtu.be/onD5UOP5z_c 
(Apple iOSデバイスでは字幕表示できません。)

グローバル化とは金融植民地主義を指す現代用語にすぎない(ジョン・スミスとの対談)

原文:Globalization Is Just a Contemporary Word for Financial Colonialism

2017年3月12日、聞き手:マーク・カーリン(トゥルスアウト誌)

バングラデシュのダッカ近郊で2013年に複数の縫製工場が入っていたラナ・プラザ服飾工場の建物が崩壊し1100人以上が死亡した。服飾産業史上最悪の惨事への関与が疑われる41人を、バングラデシュ警察は2015年6月1日、殺人容疑で正式に起訴した。
現在の帝国主義と植民地主義はどのような姿をしているのだろうか? ジョン・スミスの著書『21世紀の帝国主義:グローバル化、超搾取、資本主義の最終危機』によると、中核にいる資本主義諸国は、軍事力や他国の直接政治支配にはもう依存していない。それどころか、特に南半球で金融支配を維持し、労働者を搾取して自らの利潤を拡大している。
「持てる」国家は、先進国労働者の悲痛なほどの低賃金という犠牲の上に、自国企業の利潤を増大させる。これを先進国はグローバル化と呼ぶのだと、ジョン・スミスは自著『21世紀の帝国主義』で主張している。スミスはトゥルスアウト誌との対談で、グローバル化とは新植民地主義の別名に過ぎないという自身の主張を論じる。

マーク・カーリン:この本が2013年に起きたラナ・プラザの崩壊事件から始まるのはなぜですか? 搾取されたバングラデシュの服飾労働者が千人以上も命を落としましたね?
ジョン・スミス:理由は3つある。第一に、ラナ・プラザの惨事は、偶然の事故ではなく凶悪な犯罪だが、世界中で何億人もの人々に共感と連帯[訳註:solidarity 義務や拘束でなく、自発的に二人以上が力を出し合って協力する、積極的な連帯]を呼び起こし、私たちのTシャツやズボン、下着を作る女性や男性たちと、私たち全員がどれほど密接に繫がっているかを思い起こさせてくれた。低賃金国の何億人もの労働者が堪え忍んでいる、危険で搾取的で抑圧的な状況を典型的に示していた。彼らの労働が、帝国主義国の企業に原材料と中間資材のほとんどを供給し、そこで働く私たちに消費財の多くを供給している。私はこの本の最初で、この大勢の低賃金労働者を読者のいる部屋に連れてきて、私たちの相互依存の事実に読者を向き合わせたかったのだ。また、賃金や生活環境、人生のチャンスに大きな格差があるのに、私たちが往々にして見て見ぬ振りをしているという事実にも向き合って欲しかったのだ。

これが二番目の理由につながる。現代の最も偉大な革命家、フィデル・カストロは、キューバが示す比類のない国際的連帯のことを、人類全体に借りを返しているのだと説明した。帝国主義国に住む私たちは、我が国の政府と多国籍企業が今でも荒らし続けている国々にいる私たちの兄弟姉妹に、連帯に関して多額の借りがあるのだ! この借りを私たちが認め、返済を始めるまでは、いかなる社会主義や進歩の話もできない! 社会主義の本当の意味を、私たちは再定義し、むしろ再発見しなければならない。それは資本主義と共産主義の間にある社会の移行段階だ。そこでは、働く人々の平等と結束を破るような、あらゆる形態の抑圧や差別が、進歩的に意識的に克服される。議論の余地なく明らかなのは、この平等への最大の侵害と、私たちの結束への最大の障害物は、世界を一握りの抑圧国家とその他の国々に分断することから生じていること、また帝国主義国家で働く人々は、このズタズタに分断された状態を治すために、政治権力を奪取し生産手段の支配権を奪う必要があるということだ。これが、私が『21世紀の帝国主義』をラナ・プラザの惨事から始めようと決めた理由だ。

 

最後に、ラナ・プラザとバングラデシュの服飾産業は極めて有益なケーススタディーで、他の低賃金製造輸出国家とも共通する特徴の良い例となる。この中には、極度な低賃金の重要性、雇用主が女性労働者を優先することや、帝国主義国に本社を置く企業が、外国直接投資とは異なり、低賃金仕入先との関係にますます距離を置くようになっていることなどがある。さらに、バングラデシュ服飾産業を分析することで、主流経済学では解決できず、マルクス主義経済学者はほとんど手を着けようとしないような、一連の疑問と逆説が浮かび上がる。その中で最も重要なのは、生産性を賃金が反映するという主流経済学の原則で、もしバングラデシュの賃金がそれほど低いなら、同国の労働者の生産性はそれ相応に低いことを意味するのだが、彼らがこれほど猛烈に長時間働いているのに、どうしてそんなことが言えるのだろうか? もう一つ、生産が世界的に低賃金国にシフトしていることと、まだ初期段階にある世界的経済危機との間には、どのような関係があるのだろうか? この疑問は、主流経済学と多くのマルクス主義経済学による経済危機の説明から抜け落ちていて、私の意見では完全に冗長な説明になっている。したがってラナ・プラザ惨事とバングラデシュ服飾産業の研究からは、続く各章のテーマとなる一連の問題と逆説が生まれ、以降の本書の内容を整理する役割を果たしている。
世界的に先進国が主張する超資本主義(uber-capitalism)は、直接政治権力で植民地国家を支配する必要性を、どのように過去のものにしたのでしょうか? 

超資本主義は価値法則至上主義を意味し、現在これが全ての局面で支配している。言い換えれば、市場(特に資本市場と、市場を通して社会的権力を振るう資本家)が、かつてないほどに世界を支配している。だからといって、世界はこれだけでできているという意味ではない。資本主義以前の共同社会と自給自足経済は、アフリカ、アジア、ラテンアメリカの一部に今も残っている。また、帝国主義の民主主義国において福祉国家という形で現れるポスト資本主義の経済関係もある。(これらの国々で労働者が勝ち取った大きな権利は、大部分が低賃金国での超搾取から得た収益で賄われている。)キューバでのポスト資本主義の経済関係は労働者の革命権力に守られ、中国の社会主義革命の名残は資本主義へ移行中であるにもかかわらず覆されずに残っている。しかし、地球の南側で抑圧された国家に資本主義的社会関係の支配が拡がるにつれ、また旧社会主義国の資本主義への回帰が加速するにつれ、残っている非資本主義の砦(とりで)は縮小し、現在は蔓延する「市場原理」(つまり資本主義権力の婉曲語)に対抗しながら存在している。
資本の社会的権力は、いわゆる法の支配を通して執行され、私有財産の不可侵性を称賛し、人命の尊厳を否定する。これに対し、たとえば債務不履行や資産没収によって、資本家の財産を保護する法律に楯突こうとする者には、最も厳しい経済的懲罰が科され、それでも不十分なら、政権転覆、テロリズム、軍事侵略で脅されることになる。昔の植民地主義から現在の新植民地主義への移行は、奴隷制から賃金奴隷制への移行に似ており、資本主義以前の古めかしい支配と搾取の形態の大部分を資本主義が捨て去った一方で、支配に対して革命を起こされた場合に用いる軍事力の独占には細心の注意を払っているということを意味するに過ぎない。

GDP幻想」とは何ですか? 

GDP(国内総生産)は、国家経済の内部で販売するために生産された全ての物品とサービスの金銭的価値の尺度だ。これは、除外しているものについて批判されることが多い。販売するために生産されない物品とサービスは含まれず、たとえば家庭内労働によって生産されるものや、国家によって無償で提供されるものなどだ。また、たとえば環境汚染や労働者の健康被害などのように、民間企業の会計には現れない社会的コストや環境コスト、いわゆる「外部不経済」も除外される。しかし、私の知る限り、GDPが含んでいるものについて批判されたことはない。この問題を説明するには、バングラデシュで作られ米国で消費されるTシャツの利幅をよく見ることだ。単純化のために輸送費と生産に使われる原材料費を無視すれば、販売価格20ドルのうち19ドルまでが、商品が消費される米国のGDPに現れるが、バングラデシュのGDPはたった1ドルしか拡大せず、その内訳は、工場所有者の利潤と、国家が徴収した税、Tシャツを実際に作った労働者に支払われる2〜3セントの賃金だ。この19ドルの利幅は、卸売業者と販売業者の「付加価値」と、この二者にサービスを提供する広告業者、商業用地の所有者などに分けられる。これが強く示しているのは、米国の卸売業者と販売業者が獲得した付加価値の大部分、ほぼ全てが、実際には米国ではなくバングラデシュで作り出されたということだ。

GDPは、国家経済内の全ての企業の付加価値の合計にすぎない。税と、税によって賄われる政府のサービスは、その価値が支払った税額にちょうど等しいと仮定することで算定される。したがって、GDPは税引き前の企業の収入を合計することで計算できる。

つまり重要なのは、いわゆる「付加価値」の本質だ。個別の企業については、生産物の金銭的価値から材料費を差し引くことで得られる。この点で、主流経済理論と標準的会計手続きは、重要で完全に恣意的な仮定を置いている。企業の付加価値は、その企業内部の生産工程によって作り出された新たな価値に等しいが、どこか他所で作られた価値をその企業が取得しても、それは一切含まないという仮定だ。市場では価値の所有権が循環するが、新たに作り出されることはない。商品の生産で作り出された価値と、その対価として受け取った価格の一体化こそが、あらゆる形の支配的な経済原則の基礎となっている。その一方、生産で作り出された価値と市場で獲得した価値は全く異なる二つの量であって、互いの関係はそもそも必然的なものではないという認識は、マルクス主義の価値理論の出発点だ。その意味の一つは、広告、警備、銀行のような活動は、いかなる価値も生み出さない間接費(諸経費)であって、一種の社会的消費だということだ。ここで消費される価値を作り出している経済生産セクターは、ほとんどがバングラデシュのような低賃金国に移転してしまった。

これがつまり、私がGDP幻想と呼ぶもので、貧困国の低賃金労働者が作り出した価値が、富裕国の国内で作り出されたように見えるのだ。このように、帝国主義国と低賃金国の寄生的で搾取的な関係を覆い隠しているのは、客観的だとされる生の経済データだ。マルクス主義など急進的体制批判者のような、物事をよく知っているはずの人々でさえ、多くはデータの客観性を信じている。

「国際労働仲介*」を何と定義なさいますか? 

この用語は2000年代初頭にモルガン・スタンレー銀行の上級経済学者ステファン・ローチが一般に広めた。彼は国際労働仲介を「わが国の高賃金労働者を同等の質をもった外国の低賃金労働者で」置き換えることだと説明し、「発展途上国の比較的低賃金の労働者から製品を生み出すことが、先進国の企業にとってますます緊急の生き残り戦術になった」と書き加えた。だがこれは現象を表面的に記述したに過ぎず、ローチが同意する主流理論では的確に説明できない。国際労働仲介の私の定義を示す前に、まず主流経済理論の観点からその意味を説明する必要がある。それが単に意味するのは、人件費が最低となる場所に生産を移動することだ。「人件費」は賃金だけのことではない。資本家の観点からは、労務費(つまり賃金)と同様に重要なのは、この労働が作り出す物品やサービスの金銭的価値だ。つまり単位人件費で、これは1単位の生産物を作り出すのに必要な労働力の費用と定義される。主流理論によると、効率的で制限のない市場では、労働者の賃金は「限界生産力」つまり総生産高への貢献度に一致し、ここから二つの重要な結果が導かれる。第一に、労働者は搾取されない。労働者が受け取る賃金は彼らの貢献度とちょうど等しくなる。第二に、自由市場は単位人件費を産業や国の区別なく均等化する。ある労働者の賃金が高いなら、その人の生産性がより高いということを意味する。

したがって、現実世界で、もしある国の(単位)人件費が他国より実際に低いなら、その国の労働者が受け取る賃金が限界生産力よりも低いことを意味する。つまり、主流経済理論による説明でさえ、彼らは搾取されているのだ。また第二に、それが意味するのは、労働市場の機能を妨げ賃金を押し下げている外部経済要因があるということだ。これはつまり、労働者が国境を越えて自由に移動することへの制限だ。主流経済理論では、「仲介(アービトラージ)」とは、市場の不完全性によって同じ商品でも一つの場所と別の場所とでは異なる価格で売れることを利用して、利ざやを稼ぐことを意味する。生きた労働者を売る商人が目にするのと同じような規模で、不完全性の悪影響を受けている市場は他にない。これが企業にとっては、労働者を犠牲にして利益を上げる巨大なチャンスを作り出している。

このどこにも主流経済学者が異議を唱える余地はないが、普通はいわゆる広報上の理由によりこの問題を曖昧にするので、ステファン・ローチがあれほど分かりやすく語ったのは評価できることだ。だが主流経済学の説明はいくつかの理由で不十分だ。第一に、労働は賃金と引き替えられるものだけではない。無給労働こそ資本家の利潤全ての源泉だ。これが広告、警備、金融などのような社会資産に寄与しない経済活動の支払いにも充てられる。つまり、生きた労働者の搾取は資本主義に必須のものであり、市場の不完全性によるものではない。第二に、労働者の自由な移動を抑制することを、偶然の外発的要因と見なすことはできない。むしろ、これが現代のグローバル資本主義の一部として内在すると認識する概念が私たちには必要だ。同様のことが、帝国主義国の資本家は絶滅したくなければ生産を低賃金国に移行せよと義務づけた、ステファン・ローチの衝動にも当てはまる。

いわゆる国際労働仲介の私の定義は、したがって、世界を一握りの抑圧国家と(レーニンが「帝国主義の本質」と呼ぶ)大多数の抑圧された国家に分断したことが、現在の資本と労働の関係に内在する性質となり、世界の労働力が人種と国籍で階層化された形で現れていることだ。また、これが可能にした超搾取は、利益率低下の傾向に歯止めを掛けた中心的要因で、これが社会全体の危機が噴出するのを21世紀初頭の10年まで先延ばしにしてきたということだ。

現在行われている帝国主義と集団移動の関係はどのようなものですか? 

非植民地化によって、抑圧された国家の中産階級は解放され、分け前にありつける場所が与えられた。これに対して抑圧された国家の労働者は、激しい闘争を通じて非植民地化を勝ち取ったにもかかわらず、未だに解放の日が来るのを待ち望んでいる。世界を一握りの抑圧国家と大多数の抑圧された国家に分断したことが、現在の世界の労働者階級が人種と国籍による階層社会を構成するという形で現れている。この分断の維持こそが、資本主義が生き残っていくために絶対的に重要な政治的・経済的役割を担っている。特に帝国主義国と低賃金国の間での、国境を越えた労働者の自由な移動に対する暴力的な抑圧は、広い国際的賃金格差を作り出し持続している主要な要因だ。そしてこれらが押し進めている2つの移動、つまり生産工程の低賃金国への移動と、低賃金労働者の帝国主義国への移動は、同じコインの両面なのだ。

性差別は資本主義労働力にどのように組み込まれていますか? 

二重に抑圧された層から超利潤を吸い上げ、全ての労働者の賃金を押さえつけるために、資本家は労働者の間に存在するあらゆる形の分断と不統一を利用する。低賃金労働者の飢餓が世界的な生産の移転を突き動かす主な原動力なので、これがその国で最も低賃金の労働者、つまり女性(と子ども)を優先することに現れているとしても、驚くには当たらない。そしてバングラデシュが示すように、家父長的文化がこれまで女性を家庭以外の生活と労働から排除してきた国にも、このことは同様に当てはまる。賃金労働者と稼ぎ手の地位を若い女性に与え、大人数を工場に集めることで、彼女らの社会的地位と自己像が変わる傾向がある。それが極限に達するのは、警棒を振りかざす警官や会社が雇ったならず者と路上での乱闘になるときだ。強欲の破壊的な結果を和らげるため、資本主義政治家は反啓蒙主義で家父長的なイデオロギーの広報宣伝に努め、この二重に抑圧された労働者階級の層に好戦的な階級意識が育つのを阻止することを狙う。これは、世界の他の地域で性差別主義のセレブリティー文化や化粧品とファッション産業の広報宣伝が果たすのと同様の機能を担っている。

より一般的には、男性と女性の資産格差は収入格差よりもずっと大きく、何百年、何千年もの家父長的階級社会が積み重ねた結果を反映している。家父長制度は、帝国主義のように資本主義以前から存在し、資本主義成立の条件となった。フリードリヒ・エンゲルスは『家族・私有財産・国家の起源』で、女性の抑圧は原始共産主義から階級社会への移行期に始まったと説明した。体力と攻撃性で優越する男性のある階層が、社会的余剰を奪い取り、自分たち以外の社会を犠牲にして生きるようになった。蓄積した資産を男系に沿って次の世代に受け渡すために、女性の生殖能力を掌握し、エンゲルスが言う「女性の世界史的敗北」が起きた。これが暗示しているのは、女性の抑圧を根絶するためには、階級分断廃絶への扉を開く社会革命こそが必要で、利潤と私有資産の蓄積ではなく、人間と子どもたちを中心に置いた社会の建設によってのみ達成できるということだ。

(本文終わり)
ジョン・スミス
ジョン・スミスは英国シェフィールド大学から2010年に博士号を受け、現在は研究者・著述家として活動し、ロンドンのキングストン大学で国際政治経済学を教えている。これまで彼は、石油掘削作業者、バス運転手、通信技術者として働いた。また、長年にわたり反戦とラテンアメリカ連帯運動の活動家でもある。

*訳者注:グローバル・レイバー・アービトラージ(global labor arbitrage)をここでは「国際労働仲介」と訳した。アービトラージは経済学用語で「裁定取引」とも訳されるが、第三者が判断を下すという裁定の意味は無いので、一般的な「仲介」の訳語を用いた。

・翻訳はアップ後、修正することがあります。

初出:「ピースフィロソフィー」2017.03.24より許可を得て転載

http://peacephilosophy.blogspot.jp/2017/03/globalization-is-just-contemporary-word.html

〈記事出典コード〉サイトちきゅう座  http://www.chikyuza.net/
〔opinion6579:170326〕