悲痛な叫びを聞いた。
昨日6月15日午後1時、樺さん追悼南通用門集会にて例年の如く献花し、黙禱し、インターナショナルを斉唱し、61年前の自分をほんの一瞬想い起こした。
その夕辺、私は近所のはんこ屋さんに行って、名刺を増刷りしてもらった。御主人一人でやっている店だ。ところが、すでに閉店して整理中だと言う。でも名刺の増刷りぐらいは出来ますからと言うことだった。
「閉店? 何で、コロナと関係あるの?」
「私はこの店を11年間やって来たのです。飲食店とちがって、行政から補助金が出ません。自分で借金してつないで来ましたが、もう限界です。」
これまで御主人と何かテーマのある話をしたことは一度もなかった。行政からの支援の話をしだしたので私=岩田は、コロナ禍期間中の経済政策案として令和2年・2020年5月15日に「ちきゅう座」「スタディルーム」に発表した小文「私有財産制下の大コロナ禍――岩田トリアーデ体系論の視点」を想い出して、簡単に説明した。
「そうです。そうです。政府がそうやってくれていたならば、私も仕事を続けられたのだ。お客さん、11年間ですよ。何で今店仕舞の整理をしていなければいけないのですか。もう51歳ですよ。この店を閉めて、職を探すと言っても、どこでやとってくれますか。子供は中学生です。
その通りです。先生が言われるようにやってくれたら、私は助かったのです。
この近所の飲食店は、家族だけでやっていて、月に60万円の売上げがあれば、店の家賃を払っても何とか生活できたのです。それなのに、コロナで店を休めば、一日4万円の支給ですよ、最初の頃は6万円でした。月の売上げの2倍、3倍の援助がもらえたのです。おかげでバイクが買えた、何が買えたとそんな人達はみんな喜んでいます。うちは、そんな小さな店からの注文ではんこを作り、ちらしを印刷したりして、商売していました。しかし、そんな人達は、補償金が入っても、営業しませんから、うちへの注文は全くしなくなりました。はんこ屋や印刷屋へは、コロナ対策で営業短縮や休業を要請することがありません。だから、仕事が減っても、無くなっても助けが全くありません。自分で借金して、店を続けて来ました。今、店をしめても、その借金の金利の返済に迫られているのですよ。どうしたらよいのです。51歳ですよ。子供が中学生ですよ。ああ、でも先生、心配しないで下さい。何とか頑張りますから・・・・・・。」
御主人は、私を「先生」と呼んだ。刷り上げた名刺の肩書を読んだからだ。私は、彼の言葉を繰り返して、「何とか頑張って下さい」と言うしかなかった。
市場メカニズムは、商品私有者間の財・サーヴィスのネットワーク・網の目と商品取引に伴う債権債務関係のネットワーク・網の目から成る。コロナ・パンデミック阻止のために人流抑制政策は、二つのネットワークに正反対の作用を及ぼす。財・サーヴィスの水準は低下する。債権債務の締め付けは、すなわち財・サーヴィスの取引からのフロー収入が減る分、過去から蓄積する債務に伴う利子返済の重みは、きつくなる。私の提案は、コロナ期以前の債権債務とコロナ期以後の債権債務を直結させると同時に、コロナ期中の債権債務だけは非市場メカニズム的に特別処理せよと言う事であった。要するにコロナ期だけ資本主義的債権債務関係を停止する。
町の小さなはんこ屋さんの御主人は、こんな短い会話の中で、その意味を即座に悟って、そうなっていたら、「私は助かったのです。」と反応した。勿論、飲食店の人達も助かる。
去年の8月、旧ニューレフト系の研究会で同じアイデアを口に出したら一笑に付された。出席者の主要な関心は、コロナ政策を口実にした権力による自由の制限にあった。私は、そこに知(チ)の流通の自由と金(カネ)の流通の自由がほとんど完全に同一である事を再確認した。自由の制限は、金(カネ)の衰弱と同時に知(チ)の衰弱に帰結する。ここに近代知識人とは異なる現代知識人の心配がある。とすると、はんこ屋さんのような常民生活者の心情は誰が表現するのか。
「菅さんは駄目だ。何も考えていない。安倍さんならば、やめる前に、先生が言われるような事をやってくれたかも知れない。」 私は無言、名刺を受取って別れた。
最後に私=岩田のトリアーデ体系の一部を掲げておこう。
自由――私有――市場――安/不安――自殺Suicide
平等――国有――計画――満/不満――他殺Homicide
友愛――共有――協議――信(和)/不信(不和)――兄弟殺しFratricide
令和3年6月16日(水)
〈記事出典コード〉サイトちきゅう座 https://chikyuza.net/
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