シャムロックが花ひらくとき(1) ─ あべ菜穂子の花エッセイ

著者: あべ菜穂子 : エッセイスト・ロンドン在住
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【イギリス 花もよう  人もよう】                                                                                                                          ~イギリスに咲く季節折々の花と、花にまつわる人もよう、歴史、文化をつづります

ロンドンでは朝、霜がおりるようになりました。街行く人々は、オーバーコートにマフラーと手袋姿。そのうえ、10月末に冬時間となり、時計の針が1時間遅れて時を刻むようになったので、夕暮れも早くなりました。本格的な冬の到来です。

住宅街では、花の姿はほとんど見られなくなりましたが、夏に咲き誇ったアジサイの花がドライフラワーになって、冬景色に彩りを添えています。イギリスでは、咲き終わったアジサイの花を切り込まずに、そのままにしておく人が多いようです。ピンクのアジサイの花は、乾くと赤みを増して、生花のときとはちがった華やかさを放ちます。

人々はいま、胸に赤いポピーの造花をつけています。第一次世界大戦が終結した1918年11月11日を記念する、恒例の行事です。以前このブログでも紹介しましたが、イギリスではポピーは戦争や紛争で亡くなった人を慰霊する花です。(http://naokosfloweressays.blog.fc2.com/blog-category-14.html)

イギリス連合王国内の北アイルランドでも、紛争でたくさんの人が亡くなりました。今回のエッセイは、北アイルランドと、アイルランド人の心の象徴である「シャムロック」という草花の話です。
シャムロックが花ひらくとき

9年前に、はじめて「北アイルランド」に行った。
北アイルランドは、スコットランドやウェールズとともに、イギリス連合王国を構成する地域である。しかし、ここは他の地域とはちがって、海を隔てたアイルランド島にあるのにイギリスに属する、という特異な状態にあり、それが「北アイルランド紛争」というややこしい問題の根っこにある。

北アイルランドをめぐる紛争について、私は、争いが地域内のプロテスタント系住民と、カトリック系住民のあいだで起きていたことや、カトリック系の自衛組織だったIRA(アイルランド共和軍)が、かつてロンドンなどで派手なテロ活動を繰り広げたことは報道で知っていたが、詳しい背景はよく知らないままでいた。しかし現地に行ってみて、紛争には、長期間にわたったイングランドによるアイルランド支配、という暗い過去が深くかかわり、その結果生まれた抑圧構造の下で、カトリック系アイルランド人がひどい差別を受けていたことを知った。そして数百年も前に人為的につくられた構造が、現代にも尾をひいている厳しい現実を見て、大きな衝撃を受けた。
その旅行のとき、私はアイルランド人がこよなく愛する「シャムロック」という植物のことも知った。それは三つ葉のクローバーに似た、3枚の葉を持つ小さな草花で、アイルランドの原野に群生し、見渡す限りを緑で埋め尽くす。シャムロックは、アイルランド人が強いられた哀しい運命を象徴するとともに、民族の誇りを表現する花でもある。私は北アイルランドに滞在中、シャムロックに寄せるアイルランド人の熱い想いに触れたのである。

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私が家族とともに訪れたのは、アイルランド国境に近い、北アイルランド第2の都市、ロンドンデリーだった。この地に住む夫の旧知の友人、アンディを訪ねることが目的だった。10月半ば、緯度の高いロンドンデリーは、すでに晩秋の空気に包まれていた。

アンディはカトリック系のアイルランド人で、元司祭という経歴を持っていた。アメリカで長く司祭活動をしていたが、脳腫瘍を患ったためにキャリアを断念し、ずいぶん前に治療のために故郷のロンドンデリーに戻っていた。独身時代にアメリカで10数年暮らした夫は、アンディとアメリカで出会い、親しくなった。

(ロンドンデリー郊外の海)

ロンドンデリーで、私たち一家は、やはりカトリック系アイルランド人で、アンディと親しい友人、フランシスの家に泊めてもらった。フランシスは私たちとはまったく面識はなかったが、「数日間出張で留守にするから、自由に家を使って」と、気前よく自宅の鍵を渡してくれたのだった。彼女は到着したばかりの私たちに、暖房のつけかたなどを説明したあと、出かけていった。

フランシスはインテリアデザイナーで、家のなかには洒落たランプやアンティークの家具が置かれていた。リビング・ルームでは、ガラスの花びんのなかで白いフリージアの花束が、今にも花開かんばかりに、つぼみを膨らませていた。ロンドンデリーの夕暮れの訪れは早く、昼間でも室内は薄暗い。少しでも明るい雰囲気を、と滞在中に満開になることを見込んで活けていってくれた彼女の心遣いが、うれしかった。ふと、小奇麗なキッチンの窓辺に、三つ葉のクローバーの植えられた小さな鉢があるのが目にとまった。

3泊4日の滞在中、アンディの案内で街のあちこちに行ったが、私は冷徹な現実に圧倒され続けた。紛争は1998年に、当時のブレア労働党首相の下で、当事者間の歴史的な和平合意が達成し、ロンドンデリーでは、警官や兵士が警戒にあたるかつてのようなものものしい光景は、見られなかった。しかし、真の和平への道のりはまだまだ険しいのが実態で、カトリック系住民とプロテスタント系住民の「分離」の状況は、想像を超えていた。彼らはそれぞれ、まったく違う地域に住み、スーパーやレストラン、レジャー施設も別々。同じ街にふたつのコミュニティがあることは、一目瞭然だった。

紛争で亡くなった活動家たちが眠っているという墓地に、アンディが連れて行ってくれた。中央に小道があり、広い墓地はふた手に分かれている。アンディはその分かれ目に立ち、「ここから向こうは、プロテスタント住民用。こちら側はカトリック。私たちはこうやって、死んだ後も分離され続け、交わることは決してない」と言った。

アンディは、多くのカトリック系住民と同様に、北アイルランドとアイルランドの統一を、強く願っていた。「800年に及んだイギリスの植民地支配が、争いの根源にある」と、アンディは力を込めた。

史実は、アンディの主張が正しいことを証明している。アイルランドには、太古以来、アイルランド民族の祖先であるケルト系ゲール人が住んでいた。しかし、11世紀になってイングランドに征服されて以来、アイルランド人の民族文化はことごとく押さえつけられた。くすぶり続ける反英運動を抑えるために、その後イングランドは、アイルランドへの弾圧を強め、本国から入植者を送りこんだ。

入植政策は女王エリザベス1世時代の16世紀に激しさを増し、とくに北アイルランド地域は反英運動の拠点となっていたため、エリザベス1世を継いだジェームス1世統治下の17世紀に、大規模な入植が実行された。大量のイングランド人とスコットランド人が北アイルランドに送り込まれ、多くの地元アイルランド人は家や土地を奪われて、他地域に移住させられたのである。そのやり方は、後にアメリカ大陸で、ヨーロッパからやってきた白人が次々と地元インディアンの土地を奪い、征服していった様子と似ている。このときに、北アイルランドでは、イギリスから来たプロテスタント系の人々が多数派となり、残ったアイルランド人は少数派として支配される、という構造ができあがったのである。

ロンドンデリーへの入植は、イングランドの都市、ロンドンに割り振られたので、ロンドンのイギリス人社会がごっそり、移植された。もともと「デリー」という名だっだ街が、「ロンドンデリー」に変わったのはこのためだ。だから、アンディをはじめ、カトリック系アイルランド人は、けっして「ロンドンデリー」とは言わない。

この抑圧構造は、現代にいたるまで続いた。アイルランド独立戦争さなかの1920年、北アイルランドのプロテスタント系住民らがイギリスに残ることを希望したため、ここだけを分離することが決められ、翌年、地方議会が設置された。そして北アイルランドは1949年にアイルランド共和国が正式に誕生した後も、そのままイギリスに残留したのである。

しかし、地方議会選挙の有権者は税金を納めることのできたプロテスタント系住民に限られるなど、カトリック系住民はあらゆる面で明らさまな差別を受けた。カトリック系住民が、1960年代末にアメリカで起きた公民権運動に刺激されて、差別構造の撤廃を主張しはじめたのが、北アイルランド紛争の発端となったのだ。その後、カトリック系住民とプロテスタント系住民、さらに北アイルランド自治政府とその上にあるイギリス政府、のみつどもえの紛争が過激化し、1970年代から90年代にかけて武力衝突に発展していったことは、周知の事実である。

(”血の日曜日事件”を描いた壁画)

アンディと一緒に、街の旧市街から中心部を歩いた。繁華街を抜けて街の中央を流れるフォイ河に向かって下町に入ると、1972年に起きた「血の日曜日事件」の爪痕が生々しく残っていた。これは、差別の改善を訴えるカトリック系住民のデモに、警戒にあたっていたイギリス軍兵士が発砲し、14人が死亡した事件である。建物の壁に大きく、兵士がデモ隊に発砲する様子や、住民がけが人を運ぶ光景が描かれている。事件の起きた広場には慰霊碑が立ち、犠牲者ひとりひとりの名前が刻まれていた。犠牲者のうち7人は、10代後半の青年だった。

そのすぐ先は、カトリック系住民たちが「フリー・デリー(自由なデリー)」と呼ぶ空間である。「フリー・デリー」とは、血の日曜日事件が起きる前の1969年1月、カトリック系住民と警察(プロテスタント系が要職を占める)が衝突し、住民らが周囲にバリケードを築いて立てこもった場所である。事件後、活動家たちがその場所を、警察や軍の入り込むことのできない、カトリック系住民だけの「自由なデリー」であると宣言した。いまもその場所の入り口の建物の壁に、大きな文字で「ここから先は“フリー・デリー”」と書かれている。

血の日曜日事件の犠牲者たちは、フリー・デリーを目前にして、凶弾に倒れたのだった。広場から臨むフォイ河の向こう岸に、瀟洒な家が建ち並ぶ住宅街が見えた。そこはプロテスタント系住民の地域。こちら側のフリー・デリー周辺には、カトリック系住民たちの質素な家並みが続く。両者の貧富の差は明らかだった。

アンディは、アメリカから故郷に戻り、治療を経て病状が快復したころ、ある活動家の女性と知り合い、同棲をはじめた。女性はミリアムといい、小学校の教師だった。彼女はアンディとはちがってプロテスタント系だったが、カトリック系住民を支持し、北アイルランドとアイルランドとの統一をめざす政治活動に深く関与していた。アンディとミリアムは、IRA最高幹部の家の近くに住み、2人の間にできた男の子と女の子を育てながら、武装闘争の姿勢を強めたIRAとその政治組織であるシン・フェイン党を中枢で支えた。当時、カトリック系住民らは、治安活動のほか、教育や医療、裁判など社会活動のすべてを自前の組織でまかない、プロテスタント系の権力機構とはいっさい関わらなかった、という。カトリック系住民は、差別構造への抗議行動として、プロテスタント系住民の住宅街の電線網に自前の電線を絡め、自分たちの地域に引き込んで電力を「盗む」という行為までしていたという。

そのころ、IRAはスペインなどで活動していたヨーロッパ大陸のほかの民族運動グループとも深い関係を持ち、アンディとミリアムは、テロ活動で当局から指名手配され、逃走中のこれらのグループの闘士を、時折自宅でかくまっていた。

(シャムロック)

アンディは、紛争の歴史をあれこれ説明しながら、アイルランド人の愛する「シャムロック」について、教えてくれた。アイルランドには、毎年3月17日に「聖パトリックの祭り」を催す習慣がある。これは昔、アイルランドにキリスト教を広めた聖パトリックの命日を記念する祭りだが、国民の祝日のこの日を、アイルランド人は国をあげて祝う。そのとき、人々は必ずシャムロックを身につけるという。伝説では、聖パトリックはシャムロックの3枚の葉を用いて、父(神)と子(キリスト)、精霊の「三位一体」を人々に説明したそうだ。
イングランド支配への抵抗運動のさい、アイルランド人は危険を冒してシャムロックを身につけた。そんな経緯から、祭りのときは祝杯のビールやジュースの底にシャムロックを入れるのがならわしだ、とアンディは話した。北アイルランドのアイルランド人にとっても、シャムロックを想う気持ちは同じ。シャムロックは、アイルランド人の心をつなぐ花なのだ、とアンディは言った。

私たちに家を貸してくれたフランシスも、北アイルランドとアイルランドの統一を切望し、アンディたちとは政治信条をともにする「同志」だった。彼女は、アンディとミリアムの家にかくまわれたスペインの民族グループの闘士と恋に落ち、私たちが滞在する少し前まで、その家で彼と一緒に暮らしていたという。少数民族の抵抗運動家たちは、国境を越えて連帯意識を強めていた。フランシスはその男性と、抑圧者に対する怒りと民族の自尊心を共有し、愛情を育んでいったのだった。2人の関係はしかし、男性の逮捕、という事態を迎えて、終わりを告げるのだ。

私は、フランシスの家の窓辺に置かれたクローバーが、シャムロックだったことを知り、はじめてフランシスの気持ちを知った。シャムロックの小さな葉っぱから、フランシスのアイルランド人としての誇りと、いまは牢獄にいる恋人に向けられた切ない愛情が、痛いほど伝わってきた。多年草のシャムロックは毎年、窓辺でひっそりと咲き続け、花をつけ、2人の愛情と苦しみを見てきたのではないだろうか。私は毎夕、フランシスの家に戻るたびに、その小さなシャムロックがとても愛しく思え、心を込めて鉢に水をやった。

〈記事出典コード〉サイトちきゅう座 http://www.chikyuza.net/
〔opinion1069:121113〕