シューマッハーの脱「経済成長」論―連載・やさしい仏教経済学(8)
昨今、「経済」といえば、「成長」が合い言葉になっているような印象がある。「経済成長のために増税を」という珍説まで登場する始末である。経済成長こそが大目標で、そのためにはあらゆる手段が正当化されるかのような雰囲気である。しかし正直なところ、経済成長はそれほど立派な代物(しろもの)だろうか。
仏教経済学の視点からいえば、経済成長はもはや限界に直面している。それは地球上の有限の資源と環境が限りない成長を許さないからである。むしろ21世紀という時代は脱「経済成長」を求めている。それを前20世紀にいち早く提唱したのが仏教経済思想家、シューマッハーである。(2010年7月23日掲載)
ここではシューマッハー著『スモール イズ ビューティフル』(日本語訳は講談社学術文庫、原文・英文は1973年刊)が経済成長についてどう論じているかを紹介する。もちろん脱「経済成長」派として論陣を張っているが、今から40年近くも前の主張であることに留意したい。
▽ 際限のない経済成長はあり得ない
だれも彼もが十分に富を手に入れるまでは際限なく経済成長を進めるという考え方には、二つの点、すなわち基本的な資源の制約か、経済成長によって引き起こされる干渉に自然が堪(た)えられる限度か、あるいはその双方からみて重大な疑問がある。
ケインズ(注1)に従えば、経済的進歩は、宗教と伝統的英知がつねに戒めている人間の強い利己心を働かせたときに、はじめて実現できる。現代の経済は、はげしい貪欲(どんよく)に動かされ、むやみやたらな嫉妬(しっと)心に満ちあふれているが、そのお陰で拡大主義が成功を収めたのである。問題はこの秘訣が長期にわたって効力をもつか、あるいはその中に崩壊のたねを宿しているかどうかにある。
(注1)ジョン・M・ケインズ(1883~1946年)はイギリスの著名な経済学者で、主著は『雇用、利子及び貨幣の一般理論』(1936年)。大量の失業を克服するには財政支出拡大による有効需要創出策が不可欠と説いた。さらに貪欲、戦争も是認した。
限定された目標に向かっての「成長」はあってもよいが、際限のない、全面的な成長というものはありえない。
ガンジー(注2)が説いたように、「大地は一人ひとりの必要を満たすだけのものは与えてくれるが、貪欲は満たしてくれない」が当たっていよう。永続性は、「おやじの時代のぜいたく品が今ではみんな必需品」といって悦に入るような欲深な態度とは相反する。
(注2)マハトマ・ガンジー(1869~1948年)はインドの政治家・民族運動指導者で、インド独立の父ともうたわれる。非暴力主義の立場に徹したが、狂信的なヒンズー教徒に暗殺された。
貪欲と嫉妬心が求めるものは、モノの面での経済成長が無限に続くことであり、そこでは資源の保全は軽視されている。そのような成長が有限の環境と折り合えるとは、とうてい思われない。
<安原の感想> 貪欲と嫉妬心は、有限の資源と環境とは折り合えない
シューマッハーの著作を読んでいると、「貪欲」、「嫉妬心」という言葉が繰り返し出てくる。「現代の経済は、はげしい貪欲に動かされ、嫉妬心に満ちあふれている」といった調子である。経済成長のために「貪欲のすすめ」を説いたのは、実はイギリスの経済学者、ケインズその人である。シューマッハーは、そのケインズとも交友関係にあったが、ここではケインズの経済成長論を批判する姿勢に立っている。その理由は、際限のない経済成長は有限の資源と環境とは両立できない、ということである。
つまり資源と環境は有限であり、経済成長が資源と環境に依存している以上、無限の経済成長は限界があり、不可能だという主張である。こういう認識は今(2010年現在)ではかなりの人々の支持を得ている。
▽ 経済成長は「善」という勝手な思い込み
数量的な方法によって、ある国の国民総生産(GNP)が5%伸びたとして、ではその伸びはよいことなのか、悪いことなのかと質問されると、経済学者は答えを避ける。GNPの伸びは、何が伸びたのかとか、その利益を得たものがいたとしたら、それはだれなのか、と関係なく善に決まっているのである。病的な成長、不健全な成長ないしは破壊的・破滅的な成長もあり得るのだという考えは、彼らにとっては抱いてはならない誤った考えなのである。
ごく一部の経済学者だけが、有限な環境の中で無限の成長はありえないことが明らかである以上、今後どの程度の「成長」が可能なのかという疑問を抱き始めている。とはいえこの人たちも、量的な成長の概念を脱却できていない。質的差異の優位を説かずに、彼らは(プラスの)成長の代わりにゼロ成長を主張しているにすぎない。
もちろん質を扱うのは量を扱うよりもはるかにむずかしい。判断を下すことが、計算することより高い次元の働きであるのと同じである。量的差異は質的差異に比べて分かりやすいし、定義もしやすい。一見科学的に精密だという印象を与えるけれども、その裏では重要な質的差異が犠牲になっている。
<安原の感想> 一部では「無限の成長」に疑問抱く
ここでは二つの点に着目したい。一つは経済学者たちは経済成長(当時は<国民総生産=GNP>で計っていたが、現在は<国内総生産=GDP>で表す)は批判の余地のない「善」に決まっていると思い込んでいたこと。だから病的な成長、破壊的な成長もあり得るという発想には気づきもしなかった。つまり経済成長論者たちは思考停止病にかかっていたといえる。この思考停止病患者は21世紀の今なお後を絶たない。
もう一つは、シューマッハーのほかにごく一部の経済学者ではあるが、当時すでに「無限の成長」に疑問を抱き始めていたこと、である。その具体例が以下に紹介するローマ・クラブと著作『成長の限界』である。
▽ ローマ・クラブと『成長の限界』
ローマ・クラブ(注3)は、「人類の危機」レポートとしての『成長の限界』(デニス・L・メドウズ米国MIT助教授ほか著、大来佐武郎監訳、ダイヤモンド社、1972年刊)に関連して次のような「見解」を公表した。
・多くの人々が、現在の成長の趨勢は、有限な地球の規模とどの程度まで両立できるのか、地球の生命維持能力からみて度を過ごしてはいないかと真剣に自問するようになるのに本書は貢献するだろう。
・今はじめて、物的成長を放置することの対価を検討し、成長継続に対する代替策を求めることが決定的な重要性を帯びるに至った。
・先進諸国が自らの物的生産の成長の減速を推進すると同時に、一方では発展途上国がその経済を急速に成長させる努力に対して援助を行う必要がある。
(注3)ローマ・クラブは1970年スイス法人として設立された民間組織で、世界各国の科学者、経済学者、教育者、企業経営者などから構成されていた。人類の危機(核戦力の拡大、人口増大、広がる環境汚染、天然資源の枯渇、都市化の進行、増大する社会不安など)に関するプロジェクトが活動の中心テーマ。日本からは当時、大来佐武郎(日本経済研究センター理事長)、木川田一隆(東京電力会長)らがメンバーとなっていた。
シューマッハーの『スモール イズ ビューティフル』とローマ・クラブの『成長の限界』は1970年代初頭に相前後して世に問われたが、共に脱「経済成長」論の先がけとなった。
▽1970年ころと21世紀の現状を比較すると
21世紀初頭の現在、脱「経済成長」論はどこまで広がっているだろうか。結論からいえば、「経済成長主義よ、さようなら」が合い言葉にさえなっている。一例を挙げると、米国ワールドウオッチ研究所編『地球白書2008~09』はつぎのように指摘している。
時代遅れの教義は「成長が経済の主目標でなくてはならない」ということである。(中略)しかし経済成長(経済の拡大)は必ずしも経済発展(経済の改善)と一致しない。1900年から2000年までに一人当たりの世界総生産はほぼ5倍に拡大したが、それは人類史上最悪の環境劣化を引き起こし、容易には解消することのない大量の貧困を伴った ― と。
さらに次のようにも記している。
今日、近代経済の驚くべき莫大な負債が全世界の経済的安定を根底から揺るがすおそれが出ている。三つの問題 、すなわち 気候変動、生態系の劣化、富の不公平な分配は、今日の経済システムと経済活動の自己破壊を例証している ― と。
<安原の感想> 経済成長はもはや「時代遅れ」
米国ワールドウオッチ研究所長のクリストファー・フレイヴィンはカリフォルニア州出身で、大学で経済学と生物学を専攻した。その彼が率いるチーム作成の『地球白書2008~09』は、上述のように「経済成長は時代遅れ」と断じているだけではない。現下の最大テーマである「気候変動、生態系の劣化、富の不公平な分配」は、「経済システムの自己破壊」を例証している、とも書いている。
シューマッハーが1970年代はじめに経済成長への批判を始めてから約40年を経た今日、経済成長(経済の拡大)は、経済発展(経済の質的改善)をもたらすどころか、「経済の自己破壊」を招きつつある。それでもなお成長論者たちは、「経済成長」を錦の御旗として生活悪化につながる悪税(消費税引き上げ)などの画策を止めようとはしない。
初出:安原和雄のブログ「仏教経済塾」(10年7月23日掲載)より許可を得て転載
http://kyasuhara.blog14.fc2.com/
〈記事出典コード〉サイトちきゅう座 http://www.chikyuza.net/
〔study314:100723〕
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人間は農業が滅びたら生きられない―連載・やさしい仏教経済学(7)
人間のいのちの源(みなもと)は農業であり、だから人間は農業が衰亡したら生きられない。この単純にして明快な真理がどれだけの人々に共有されているだろうか。むしろ工業が「主」で、農業は「従」だという見方が今では常識にさえなっている。日本の場合でいえば、第二次大戦後の高度成長期に急速に農業国から工業国へと変貌した。その結果、一人あたりの所得も増え、国全体のGDP(国内総生産)はアメリカに次いで世界第二位の地位にのし上がった。
しかしこの「経済大国ニッポン」という輝けるイメージは、アッという間に「貧困大国ニッポン」へと転落した。今では日本列島上にシューマッハー流にいえば、「暴力、疎外、環境破壊など現代のもっとも危険な傾向」が広がっている。その背景に何があるのか。「農業の軽視」が主因、というのがシューマッハーの診断であり、警告である。
(2010年7月15日掲載)
シューマッハーの思想的遺産は少なくないが、ここでは農業についての主張、認識を紹介したい。それを受けて<安原の感想>を書き留める。
▽農業と工業の違いは生と死の違いほどに大きい
農業の基本「原理」は、生命、つまりいのちのある物質を扱うということ。生産物は生命過程、すなわち生長の結果であり、生産のための手段は、これまた生きた土壌である。これに反し、現代工業の基本「原理」は、人間のつくり出した過程を対象とするという点である。この過程は人造の、生命のない材料を使ったときだけ信頼できるものとなる。天然の原料より人造の原料が好まれるのは、業者が好みの寸法につくることができ、完璧(かんぺき)な品質管理を施すことができるからである。人間がつくった機械は、生きもの、例えば人間よりも確実に、かつ予測通りに働く。工業の理想は、人間をも含め生命をもった要素を排除することであり、生産過程を機械に任せてしまうことである。
アルフレッド・ノース・ホワイトヘッド(イギリスの数学者・哲学者、1861~1947年)が生命を定義して「宇宙の反復的機構に向けられた反逆」と言ったのにならって、現代工業を「人間をも含めた生きた自然界の予測のしにくさ、時間的不正確さ、移り気や強情といったものに対する反逆」と定義してもよいだろう。
言いかえれば農業の基本「原理」と工業の基本「原理」とは両立せず、相対立するものであることは疑問の余地がない。死のない生が無意味であるように工業なしでは農業は無意味になるだろう。とはいえ、農業が主、工業は従であることに変わりはない。人間は工業なしでも生きられるが、農業がなければ生きられないからである。もっとも人類が文明生活を営めるようになると、二つの原理の間のバランスが必要になる。
農業と工業の基本的な違いは、生と死の違いほどに大きい。しかしこの違いを認識できなくなり、農業を工業の一種とみなすようになったとき、このバランスは必ず破れてしまう。
<安原の感想> 農業と工業のバランスが崩れると・・・
シューマッハーの主張には刺激的な表現が少なくない。ここでの「農業と工業の違いは生と死の違いほどに大きい」もその一例である。もちろん農業が「生」で、工業が「死」と言いたいのである。その本意は、工業が死滅していいというわけではない。農業が「主」で工業はあくまで「従」であるべきで、そのバランスの重要性を強調しているのである。
問題は、このバランスが崩れて、「農の工業化」が進むと、一体どうなるかである。生きた土地や自然の崩壊が進み、野生の生き物たちの生存領域が失われていく。例えば野生の熊が人家周辺に出没するようになってからすでに久しいし、最近ではスズメなどの減少も伝えられる。東京など大都会では自然の餌にありつけないカラスが人間が放出する廃棄物(残飯など)を食い荒らす事例が目立ってきた。
もう一つ、2010年4月から6月にかけて、家畜伝染病・口蹄疫(こうていえき)のため、宮崎県で残酷にも数え切れないほどの牛が殺処分となった。その背景に畜産の経済性重視の工業化、集約化、大規模化の進行がある。これは「農・畜産の工業化」が進むと、野生の生き物に限らず、人間自身にとっても甚大な悲劇をもたらす具体例といえないか。
▽ 人間と自然界との和解が不可欠
土地はこの上なく貴重な資産であり、それを「おさめ、守る」のが人間の任務であり、幸福でもある。唯物主義的見方では農業は本質的に食糧生産を目的とするものだと考える。しかし広い視野からすると、農業の目的は次の三つである。
①人間と生きた自然界との結びつきを保つこと。人間は自然界のごく脆(もろ)い一部 である。
②人間を取り巻く生存環境に人間味を与え、これを気高いものにすること。
③まっとうな生活を営むのに必要な食糧や原料を造り出すこと。
③の目的しか認めず、しかもこれを情け容赦なく暴力的に追求するような文明、その結果、①②の目的を無視した上、組織的にそれに反対の動きをする文明は、長期的にみてとうてい存続できない。
「人間が自然界と和解すること(reconciliation of man with the natural world)が、単に望ましいだけでなく、不可欠になったのだ」という某専門家の主張に私(シューマッハー)は賛成である。この和解は旅行、観光その他の余暇活動でできる性質のものではなく、農業の構造を変えることによって初めて達成できる。離農を促進することは止め、まず地方文化の再建を目指し、もっと多くの人たちがやり甲斐のある職業として農業に従事できるように土地を開放しなければならない。さらに大地の上での人間の営みのすべてが健康(health)、美(beauty)、永続性(permanance)の三大理想を目指すような政策を模索していく必要がある。
大規模な機械化、化学肥料と農薬の大量使用からうまれた農業の社会的構造のもとでは人間は生きている自然界と本当に触れあうことはできない。それどころか、この社会的構造は、「暴力(violence)、疎外(alienation)、環境破壊(environmental destruction)など現代のもっとも危険な傾向」の後押しをしている。健康、美、永続性は、そもそも真面目に議論されることさえない。これでは「人間的な価値の無視」、すなわち「人間の無視」であり、これが経済至上主義から必然的に生まれてくる害悪である。
<安原の感想> 「暴力、疎外、環境破壊」か、「健康、美、永続性」か
「人間が自然界と和解することが不可欠」という考え方にシューマッハーは賛意を明確にしている。我々日本人は通常、「自然界との和解」というヨーロッパ的感覚には馴染みが薄い。むしろ「自然を慈しむ」、「人間と自然との共生」という仏教的感覚だろう。その差異はさておいて、シューマッハーは何を言いたいのか。
ここでのテーマは、農業の工業化に伴う「暴力、疎外、環境破壊」路線の継続を容認するのか、それとも本来の望ましい農業に回帰して、「健康、美、永続性」路線を追求するのか、その選択である。シューマッハーはもちろん前者の路線を拒否し、後者の望ましい路線への転換をすすめる立場である。前者は大規模な機械化、化学肥料と農薬の大量使用の農業だから、後者の「健康、美、永続性」に反する農業であることは間違いない。日本でもこの後者の農業を育てるのに奮闘している人たちが増えている。この流れは大切に育てたい。
▽ 超経済的価値を再認識するとき
どんな社会でも自分の土地に手入れをし、長く健(すこ)やかに美しく保つゆとりがないはずはない。技術的な困難はないし、知識もふんだんにある。我々は十分にエコロジーの知識があるので、今日、土地管理、家畜管理、食糧の貯蔵と加工、無分別な都市化などの面で起こっている行き過ぎや乱用の言い訳をすることは許されない。
にもかかわらずそういうことが起こるのを許しているのは、貧しくてそれを防ぐ手だてがないからではない。その原因は、社会が「超経済的価値」(meta-economic values)への信念という確かな基盤を欠いているからである。
いったんこの強固な信念が失われると、すべては経済計算に支配されることになる。経済計算という形で合理化されている、卑しく打算的な生活態度がそれである。人間の次に大切な、土地という資源をどう取り扱うかという単純な問題の中に人間の生き方のすべてが含まれている。われわれが超経済的価値を再び認めるようになれば、土地は再び健やかに、景観は昔のように美しくなるだろう。
<安原の感想> 卑しく打算的な生活態度を捨てること
「超経済的価値」を信じよう! その時、新しい時代を築くことができる ― がシューマッハーが21世紀に遺したメッセージである。超経済的価値とはどういうイメージなのか。大学で教えられている現代経済学にはこういう経済用語はない。上述の「健康、美、永続性」などはこの超経済的価値といえるのではないか。要するに貨幣価値(=市場価値)に換算しにくくて、市場取引の対象にならないため、いくらカネを積み上げても入手できないが、人間が生きていく上で重要な価値である。
私は仏教経済学の視点から、この価値を非貨幣価値(=非市場価値)と称している。例えばいのち、地球環境、豊かな自然、非暴力、共生、モラル、責任感、誇り、品格、慈悲、思いやり、利他心、生きがい、働きがい ― など沢山ある。いずれも市場メカニズムには馴染まない。重要なことは、シューマッハーも示唆しているように「経済計算第一で、卑しく打算的な生活態度」、いいかえれば貪欲(=強欲)な生き方を捨てることである。そうでなければ、これらの超経済的価値の真価はみえてこない。
初出:安原和雄のブログ「仏教経済塾」(10年7月15日掲載)より許可を得て転載
http://kyasuhara.blog14.fc2.com/
〈記事出典コード〉サイトちきゅう座 http://www.chikyuza.net/
〔study313:100715〕