3月31日明治大学リバティーホールで開催された伊達判決53周年シンポジウム「日米地位協定を問う」 から、新原昭治氏(国際問題研究家)の<基調報告>、坂田茂氏・土屋源太郎氏の<主催者報告>を動画で掲載します。
<基調報告Ⅱ>
「国民の権利より米軍特権を優先する地位協定の根源を衝く」
新原昭治氏(国際問題研究家)
動画①→ http://www.youtube.com/watch?v=5S8Pvex0SHE
動画②→ http://www.youtube.com/watch?v=59_ggzRKiFw
動画③→ http://www.youtube.com/watch?v=9l00s5UsEJg
(松元剛氏による<基調報告Ⅰ>はhttps://chikyuza.net/archives/21677 で掲載しています。)
<主催者報告>
「米軍立川基地拡張反対闘争(砂川闘争)と伊達判決の果たした役割」
坂田茂氏( 伊達判決を生かす会)
動画→http://www.youtube.com/watch?v=qD-2rkXvct4
「日米地位協定改正要求の必要性」
土屋源太郎氏( 伊達判決を生かす会)
動画→ttp://www.youtube.com/watch?v=pR8kUuOTunE
また以下に集会で使われた資料の一部を転載します。
—————-資料—————————–
伊達判決を生かす会主催:伊達判決53周年シンポジウム「日米地位協定を問う」
2012年3月31目、東京
国民の権利より米軍特権を優先する地位協定の根源を衝く
新原昭治
1,米兵犯罪に関する裁判権は、1953年以来多くの制限と制約つきで目本側が手にしたものの、それを実際に全面的に行使させないための制約が幾重にも設けられた
(1)講和条約発効と同時に発効した日米行政協定(現在の地位協定に相当)は、米軍がいっさいの米兵犯罪に関する裁判権を持つと規定した
▽日米行政協定=1952年4月28目発効
●行政協定17条――米軍がすべての米兵犯罪について専属裁判権を行使すると取り決めた
+米軍側は、「米軍の構成員・軍属、それらの家族が日本国内で犯すすべての罪について、専属的裁判権を日本国内で行使する権利を有する。」と規定
+同時に、NATO(北大西洋条約機構)の地位協定が米国で発効したら、ただちにその協定の規定と同じような裁判権の規定を締結すると記していた。
(2)1953年に行政協定17条が改定された。これに先立ち、同年春以来の半年間にわたる日米交渉がおこなわれた。
▽日米行政協定17条の改定1953年9月29目調印・10月29日発効
しかし、その「改定」は、日本による米兵犯罪に対する裁判権の実現からはあまりにほど遠いものだった。裁判権を日本側に行使させない仕組みが幾重にもつくられた。
《その1》
●改定17条で、「『公務外』の米兵等の犯罪は、日本に1次裁判権がある」という新しい規定。
日本は「米軍の構成員・軍属、それらの家族が日本内で犯す罪で日本国法令で罰することができるものについて、裁判権を有する」との新しい規定になったものの、改定された日米行政協定の新17条の規定は、対象から「公務中」の米兵犯罪を外した。
そのもとで、この規定を利用しさらに実質的に拡大して、日本になるべく裁判権を握らせないようにする仕組みがつくられた。
*「公務中」の米兵犯罪を外し「公務外」に限るとした仕組みの意味と実際の効果
―「公務中」とは曖昧な規定で、「公務中」と「公務外」の区別は米軍当局が実際上決定権をにぎった。目本側は米軍の判定に従わなければならない仕掛け。
―しかも、米軍は絶えず「公務中」の範囲を拡大する傾向を持っていた。
―実際、日米合同委員会の秘密決定で、「公務中」の範囲がひろげられた。
◆一例として、1956年3月の日米合同委員会において、基地の外の宿舎や住居と勤務地(米軍基地)との往復や、宿舎や勤務地での「公の催事」での飲酒を、交通事故事件における「公務」に含めることが合意された例。
(→資料1.6ページ『法務省刑事局1972年3月作成非公開資料『合衆国軍隊構成員等に対する刑事裁判権関係実務資料』から)
―基地の外での米軍人運転の自動車事故の場合、上記の「公務中の自動車運転時の事故」についての規定が引き金となって、米軍は「公務証明書」を乱発。一方、警察当局はそれが事実かどうかを調べもせず、唯々諾々と従っているのが現実になっている=沖縄県警の実例。(→資料2.8ページ『平成17年度沖縄県包括外部監査報告書から』参照)
《その2》
●改定17条は、「公務外」における米兵等の犯罪について、目本側が裁判権を行使する第一次裁判権を持つと規定したものの、日米秘密交渉により、17条改定の発効前日の日付(1953年10月28日)で、日米合同委員会における「非公開議事録」と称する密約を日米両政府代表が交わし、日本政府代表が「日本にとっていちじるしく重要と考えられる事件以外については第一次裁判権を行使するつもりがない」と公式に約束した。
これについては、たとえば、アイゼンハワー大統領の指示で1957年末に作成され大統領に提出された世界の米軍基地に関する「ナッシュ報告書」の中に、「日本側は秘密覚書で、日本にとりいちじるしく重大な意味を持つのでない限り、〔米兵犯罪の〕第一次裁判権を放棄することに同意している」との記述があったことが知られていた(新原編著『米政府安保外交秘密文書』新日本出版社。1990年)。
―この裁判権放棄密約により、日本側が第一次裁判権を持つ米兵等の犯罪に関し、日本政府はきわめて多くの場合に裁判権を放棄した。その実数はいちじるしい数にのぼる。
【データ】
日本が第一次裁判権を有する米兵犯罪のうち日本が裁判権を放棄した実数と放棄率
――米議会に報告されたデータから――
日本が1次裁判権 裁判権放棄・釈放
を持つ米兵等の犯罪 ・不行使 放棄等の率
1971年 2,424 1,822 75.2%
1969年 2,503 2,074 82.9%
1965年 1,983 1,686 85.0%
1963年 3,433 3,090 90.0%
1957年 4,104 3,969 96.7%
1954年 3,050 2,915 95.2%
*米上院軍事委員会地位協定小委員会の歴年の資料にもとづき作成
―沖縄施政権返還以前の時期のため、米軍がすべての裁判権をにぎっていた当時の沖縄における米兵犯罪データは含まれていない。
《その3》
●裁判権放棄密約だけでなく、日本側による米兵「公務外」犯罪に関する裁判権行使をやりにくくし、米側が「最大限の裁判権」を手にする目的で、複雑かつ巧妙なしくみが、日本側との折衝の上でつくられた。
□これについて、デール・ソネンバーグ在日米軍司令部・法務官:事務所国際法首席担当官(2001年当時当時)が、次のように述べていた。
○「日本は非公式な合意(Informal agreement)〔新原注=裁判権放棄密約を指す〕を結んで、日本にとって『特別な重要性』がある時を除き、刑事裁判権の第1次的権利を放棄することにした。日本はこの了解事項を誠実に実行してきている。
1951年目米安保条約が1960年に改定されて『日米相互安全保障協定』に変わったさい、旧安保条約第3条のもとでの行政協定を新協定と取り替える必要が起きた。これは『旧式の』刑事裁判権取り決めを、新式の形式に変える完全なチャンスであったにもかかわらず、こうした合意は実現せず、行政協定は本質的になにも変わることなく、新日米地位協定にそのまま移行した。」(THE HANDBOOK OF THE LAW OF VISITING FORCES, Oxford University Press, p.387. Oxford University Press, 2001)
ソネンバーグはこの説明に加え、米軍と諸外国との一連の地位協定について説明した中で、ドイツなどとの地位協定では「裁判権の事前放棄や、公判前の拘束は米側の権限、その他のしかるべきその過程における刑事裁判権条項関連の米軍側権利が、『現代』の諸地位協定のスタンダードとなった」と指摘しながら、「日本においては、この改定にこれらの取り決めは具体的な言葉では書かれていなかった」と述べた。
そして、ソネンバーグは日米安保条約改定後も「非公式合意」(=裁判権放棄密約)がそのまま続いていると述べながら、「このことは、〔米軍人に対する〕米側裁判権を最大限にし、公判前の外国〔=ここでは目本〕側による拘束を最小限にするという米国の政策的目標が、いっさい顧みられなかったことを意味するものではない」として、次のように付け加えた。
「しばしば報道では、『裁判権放棄』に集中して、もっぱら裁判権放棄の統計だけを問題にするが、それはあまりにもミスリーディングである。」「もっと重要なことは、米3軍の規則〔新原注=米軍による裁判権執行の「最大限化」を命じた米国防総省の指示書を指す〕の基準ではかるという、さらにはるかに難しい作業にある。同規則は、『米軍駐留国当局との関係と作業の方法を確立し、適用できる諸協定が許す範囲で、米側の裁判権を最大限にしなければならない』と規定している。」
「米側裁判権の最大限化は、地位協定によって告発される米兵が出てくるのを待って、その告発の放棄などを要求するのにくらべれば、さらに先剃的姿勢をとるよう求めるものである。日本において米側裁判権を最大限にするために使われている措置には、不起訴、米側被疑者に関わる米側の犯罪調査、起訴の意思を通知する時間の喪失、さらに必要なら、すでに起訴されている事件の裁判権放棄などの組み合わせなど、さまざまの方法がある。」
●米側の裁判権を最大限化するために、ただ裁判権放棄密約だけをあてにせず、さらに積極的な手を打って、日本側が裁判権を行使できないようにするための措置を「先制的」にとるべきだというのである。
ソネンバーグは、そのためとして、「不起訴、米側被疑者に関わる米側の犯罪調査、起訴の意思を通知する時間の喪失、さらに必要なら、すでに起訴されている事件の裁判権放棄などの組み合わせ」を挙げた。
ここではその一例として、「起訴の意思を通知する時間の喪失」の仕掛けについてだけ説明したい。
1953年秋の目米行政協定17条改定と同時に、日米両政府間では、「日米合同委員会刑事裁判管轄権分科委員会において、合意された事項」(略称=「合意事項」AGREED VIEWS)と称する秘密合意文書が作成された。
「合意事項」は、1960年の「安保国会」で概略が国会に提出され公表されたものの、今目まで全文は公表されていない。
その「合意事項」の第40項目に、日本が裁判権を持つ米兵犯罪に関して、日本側が裁判権を行使しようとするなら、日本側は「陸海空の在日司令部法務部に対し当該事件につき起訴することにより裁判権を行使するか否かを通告する」とあり、「その通告を受けないか、又は日本国からの起訴を行わない旨の通告を受けた場合」米側がその事件について裁判権を行使することができると、両国合意の内容を書いている。
この「合意事項」によれば、日本側の通告が有効であるためには、重い罪の場合は「20日以内」、そうでない罪の場合は「10日以内」に米側に通告しなければならず、それぞれ「10日」または「5日」の範囲で延長することができるが、それを過ぎると日本側は裁判権を放棄したものとみなされる。
米兵犯罪に関する日本の裁判権を極力小さなものにするために、実にさまざまの複雑な仕組みがつくられて、日本の主権行使をいちじるしく侵害する実態がもたらされていることが分かる。
2.米兵の犯罪に対する裁判権問題をめぐる国際的な問題と事件
■わが国における米兵裁判権問題をめぐる安保条約にもとづくアメリカとの取り決めは、すでに見てきたとおり、1952年までのアメリカ軍による占領期の米軍による専属的米兵裁判権から出発した。それが、1953年の日米行政協定(現在の地位協定に相当)第17条の改定交渉の結果、見てきたように「分割裁判権」方式となった。また、1972年までアメリカの無期限全面占領体制のもとにあった沖縄県は、復帰により安保条約とその法体系のもとに置かれることになった。沖縄においては、全面占領下の無限に肥大化した米軍特権がさまざまの形で沖縄県民の暮らしに対する深刻な重圧を及ぼし続けている。
行政協定17条改定でも、裁判権の「分割方式」と呼ばれるが、実質はアメリカ軍がオールマイティに限りなく近い形態と特徴をもったやり方で、わが国の主権行為である裁判権を深く侵し続けているのが実情である。
それは、日米地位協定で実に無限定にほとんど近いアメリカ軍の基地特権(ベース・ライト)を保障してやっている問題とも直結する。
■米軍とアメリカの社会―犯罪問題でも米軍最優先の社会をつくった「冷戦」体制
*1950年の米「統一軍事法典」とNSC68による常時軍拡体制
*米紙記者ラッセル・カローロが明るみに出した米社会の影の部分
■裁判権問題で目を惹かれた国際的な事例から―イラクとタイ
*昨年末で米軍が撤退せざるをえなかったイラク政府の地位協定問題への対処
*1970年代半ばに米兵の裁判権が焦点となり米軍撤退へとつながったタイ
*一体、1953年のわが国政府の行政協定17条改定交渉はなんだったのか
(別刷の「裁判権放棄密約ができるまでの日米交渉経過―米政府解禁文書にみる」参照)
3.米軍の基地特権(べ一ス・ライト)について
■沖縄をはじめ日本における米軍の基地特権の限りないひろがり
▽本土では占領時代から講和発効後の第一次安保体制に入ったとき、安保条約と行政協定、ならびに占領中の基地特権を実質的にそのまま延長する「岡崎・ラスク交換公文」によって、占領下とあまり変わらない状態がつくりだされた
(資料3→9ページ)
▽1960年の日米安保条約改定にあたっては、核密約が結ばれた同じ日にやはり藤山外相とマッカーサー大使が基地権に関する密約にイニシャル調印した。
(資料4→10ページ)
▽実に根が深い問題である
(以上集会で配布された資料の一部を転載)
〈記事出典コード〉サイトちきゅう座 http://www.chikyuza.net/
〔eye1898:1200405〕