ここ数年LGBTQ関係のニュースをよく見かけるようになった。はじめてLGBTQ(言葉)をみたとき、LGBまでは想像できたが、TとQが何を意味しているのかわからなかった。Webであれこれみていて、半年ほど前にニュースサイトthemをみつけた。頻繁に送られてくるthemのニュースレターにざっと目を通している。
News, Culture and Current Events Coverage for the LGBTQ …
https://www.them.us
なんども既成概念をゆさぶる記事に遭遇して、漠然と一般常識と思っていたものは一体なんだったのかと思いだした。考え思いめぐらせる、そして発言する自由は大事にしてきたが、性に関する個人の自由は付帯事項として入っているだけで、それだけを取り上げて考えたことはなかった。
付帯事項が随分大きくはなったが、それが先々独立して自分の思考の中心になるとは、少なくとも今のところは思えない。慣れたということなのか、違和感はだいぶ薄れはしたが、なくなったわけじゃない。例えば、下記のサイトをみても、個人の自由でいいじゃないかと思うだけで、あえてジェンダーうんぬんには至らない。気にしなければならないことが多すぎて手が回らないなかで下着に凝る気はない。
Rihanna’s Savage X Fenty Now Makes Lingerie for Men
https://www.them.us/story/rihanna-fenty-lingerie-men
性の平等にかんしてみれば、随分前から男女平等を掲げた活動もあるし、雇用機会均等法の類もある。女性の社会進出がどうのという話にもことかかない。本来平等であるべきで、もう男だからとか女なんだからという思考の残滓はできるだけ早く始末してしまったほうがいいと思っている。
ところがここにきて、従来の男女なんとかという、いままでの観点からでは問題の本質を捉えきれないことがはっきりしてきた。社会的な性を身体的な性から距離をおくために、ジェンダーという新しい言葉が使われだした。
ジェンダー平等とトランスジェンダーの関係はどうなるんだろうと思っているところに、偶然足立区でLGBTの権利を主張するセミナーがあった。新しい言葉の理解もあやふやな状態で出かけて行ってもと二の足を踏んだが、もしかしたらトランスジェンダーの方とお会いできるかもしれないと期待して出かけた。
あれこれ考えてきたが、トランスジェンダーの人たちをどのようにして受け入れるべきかは、現時点で結論は出しきれないんじゃないか、一律に規定するのは難しいんじゃないかと思っている。大した知識があるわけではないが知っている限りでは、三つの大きな問題があるようにみえる。
第一にトランスジェンダーとは何かという定義がある。
性転換までして性自認(こころの性)に身体的性(からだの性)を合わせた人たちだけをトランスジェンダーとして認めるのか。いや、合っていないからこそ、差別を受けやすいという人道的な立場から、性転換していない人たちもトランスジェンダーとして認めるべきだというものもっともな考えだと思う。
ただトランスジェンダーだと主張する人たちのなかには、女装趣味や男装趣味だけの人たちがいるかもしれない。なかには、何らかの社会の良識では受け入れようのない目的をもってトランスジェンダーだと主張する人たちもいかねない。性自認の自己申告は尊重したいが、それをもってして女性だ、あるいは男性だというのは説得力に欠ける。なにをもってしてトランスジェンダーというのか。現時点で社会的な合意が成立しているとも思えないし、早々に成立するようにもみえない。
親しい間柄のトランスジェンダー女性や男性がいない一般の人たち(トランスジェンダーの人たちと区別が必要なときはシスジェンダー女性や男性とよばれる)には、トランスジェンダーの人たちを受け入れるための既成概念の書き直しというのか気持ちの整理の時間も必要だろうし、社会のインフラ、たとえばトイレや浴場などをどう整備すればいいのか、問題の解決にはまだまだ時間がかかるだろう。
第二に、オリンピックがあったことで一躍注目を浴びることになったトランスジェンダー女性の身体能力の問題がある。
成人した後の性転換手術では男女の骨格差までは変えられない。筋力も違うから、男性から女性に性転換した選手の方がシスジェンダー女性選手より運動能力が高いのではないかという、合って当たり前の疑問がある。東京オリンピックの女子重量挙げに出場したニュージーランド代表ローレル・ハバードが一例として挙げられる。
ハバード選手は二〇一三年まで男性として重量挙げの試合に出場していた。その後性別適合手術を受け、国際オリンピック委員会によるトランスジェンダーのアスリートに関する規定をクリアした。既定はクリアしてるから「ハバード選手のオリンピック出場は妥当だ」はわかるが、「体格差があるからシスジェンダー女性選手が不利になるのでは」という批判もあって当然だろう。
そんな心配というのか不安を半分肯定するかのように、Die Welt(ドイツの日刊新聞)が昨年七月二四日付けで、トランス女性の身体能力の研究成果を伝えてきた。
「Fact check: Do trans athletes have an advantage in elite sport?」
https://www.dw.com/en/fact-check-do-trans-athletes-have-an-advantage-in-elite-sport/a-58583988?maca=en-newsletter_en_bulletin-2097-xml-newsletter&r=17178891291318995&lid=1892995&pm_ln=102824
キーとなる個所とそれをDeepLで機械翻訳したものも付けておく。
「The research was carried out by Dr. Timothy Roberts, a pediatrician and associate professor at the University of Missouri-Kansas City, and his colleagues. They found that trans women who underwent hormone therapy for one year continued to outperform non-transgender women, also known as cisgender women, though the gap largely closed after two years. But even then, trans women still ran 12% faster」
「この研究は、ミズーリ大学カンザスシティ校の小児科医で准教授のティモシー・ロバーツ博士らによって行われたものである。その結果、ホルモン療法を1年間受けたトランスジェンダー女性は、トランスジェンダーでない女性(シスジェンダー女性とも呼ばれる)を引き続き上回ったが、2年後にはその差はほぼ縮まった。しかし、それでもなお、トランスジェンダー女性は12%速く走ることができた」
記事からでは、研究のサンプル数も測定方法も評価方法も分からない。一つの研究報告であって、トランスジェンダーの人たちの生理的、身体的能力……の評価基準すらはっきりしていないのではないかと想像している。
New Yorkerが三月十七日付けで「The Trans Swimmer Who Won Too Much」と題した記事をだしてきた。題を直訳すれば、トランスジェンダー女性が競泳で勝ち過ぎるになる。かなり詳しい記事で読むのが面倒だが、言っている事はDie Weltが伝えてきたことと重なる。ご興味のあるかたは下記urlからどうぞ。
https://www.newyorker.com/sports/sporting-scene/how-one-swimmer-became-the-focus-of-a-debate-about-trans-athletes?utm_source=nl&utm_brand=tny&utm_mailing=TNY_Daily_Control_031722&utm_campaign=aud-dev&utm_medium=email&utm_term=tny_daily_recirc&bxid=5be9cfa53f92a40469df74ee&cndid=53546025&hasha=9e874b08e1c88ec6058ee4c8a8b704ca&hashb=eb12079d10893b0abe815c7b35c4a2d7c46f795f&hashc=885991de1e0bc543407be9533f0f209b031a7c7d8ec7be89dfefe40606c169e2&esrc=bounceX&mbid=CRMNYR012019
第三にジェンダー平等との関係がある。
平等を進めてきた人たちにしてみれば、トランスジェンダーの人たちの性に対する指向や志向や嗜好が今までの活動を否定しているように見える可能性がある。
一般論あるいは偏見だといわれるのを恐れずにいえば、トランスジェンダー女性、あるいはトランスジェンダー男性の多くは、ジェンダーの違いを強調することで自身の心のアイデンティティを主張しがちで、シスジェンダーの女性や男性からみれば、必要以上に主張しているようにさえ見える。
ちょっと古臭いいいかたになるが、トランスジェンダー女性はしばしシスジェンダー女性以上に女性らしく、トランスジェンダー男性はシスジェンダー男性より男性らしく、周囲から見られることを望むだろうし、それが自己のアイデンティティの発露だと考えているだろう。
足立区のセミナーでお会いできたトランスジェンダー女性は、セミナーに招かれた貴賓としての立場もあってのことだろうが、綺麗に着飾っていた。古希を過ぎた者の目には、一般的な外出着ではなくロスゴリっぽい衣装に見えた。
ジェンダー平等を進めてきた人たちには、程度の差はあるにしても、ジェンダーの違いを抑える服装なり振る舞いを心掛けてきたと思う。そこに女性以上に女性っぽく、あるいは男性より男性っぽさを強調するトランスジェンダーの人たちが権利を主張して躍り出てきた。かたやジェンダー差を極力控え目にしたい。方やトランスした先のジェンダーを強調して新しく手にしたジェンダーを公にしたい。
ジェンダー平等とトランスジェンダーの人たちの平等をという両者の活動に齟齬はないし、運動を進める障害にはならないと主張する人もいるだろうが、それが社会の大勢を占めるシスジェンダーの人たちの常識に、少なくとも当面の間なるとは思えない。人々の既成概念をひっくり返すには、しばし数世代に渡る長い時間がかかる。
トランスジェンダーは精神的なものであって、外面ではないという人たちも多いだろうが、外面の違いを強調することで存在を主張するトランスジェンダーの人たちとジェンダー平等がどう折り合いをつけられるのか?
もうちょっと調べて考えてみようと思っているが、これといった答えがあるような気がしない。
2022/3/22
Private homepage “My commonsense” (http://mycommonsense.ninja-web.net/)にアップした拙稿に加筆、
〈記事出典コード〉サイトちきゅう座 https://chikyuza.net/
〔opinion11874:220323〕